17.ラウル・フラヴィニー卿

 その日の夕食はエレーヌ一人だった。

 最近では夕食をジスカルと共にしたあと、庭園を軽く散歩するか、居間の暖炉の前で本を読みつつちょっとおしゃべりして、その後、別れて就寝……というのが日課になっていたのだが、今日は仕事があるらしい。


 夕食を終えて部屋に戻ろうとすると、女中の一人がそっとエレーヌの手に紙切れを握らせた。チラと見たエレーヌを無視して、女中は片付けを始めている。

 部屋に戻ってから、エレーヌは紙を開いた。


『庭にて待つ』


 懐かしい筆蹟は次兄ラウルだった。

 エレーヌは息をのんだ。

 手紙の意味するところ……つまり、ラウルがここに忍び込んできているのだ。


 エレーヌは俄に混乱しそうになった。

 どうしてこんな大それたことを兄がしでかしたのかわからないが、まだ誰にも気付かれていないならば、打つ手はある。とにかく会って、早々に帰ってもらうよう伝えなければ。


「ちょっと庭を散歩します」


 エレーヌが言うと、カーラは怪訝に眉を寄せた。


「もう寒ぅございますよ。今宵は曇って月も見えませんし」

「少しだけ。冷たい風にあたって、気分転換したいの。すぐに戻るから」


 カーラは昼過ぎのことを思い出したのかもしれない。それ以上うるさく言わずに、エレーヌに外套を着せて、女中を一人呼んだ。すぐさま、先程エレーヌに紙切れを渡してきた女中がやって来る。


 庭に出るなり女中はやや足早になった。エレーヌを支えるように手を持ちながら、辺りを油断なく見回して「こちらです」と囁く。エレーヌは頷き、女中と一緒に急いだ。この庭のシンボルツリーとなっているかえでの木を過ぎて、灌木かんぼくの茂みの裏まで来ると、次兄が大きい体を縮めて待っていた。


「お兄様!」


 エレーヌは久々に見た兄の姿に、一気に懐かしさが込み上げ、駆け寄って抱きついた。思わず涙があふれ出る。


「あぁ、エレーヌ……可哀相に。よほどつらかったんだな」


 ラウルは再会するなりボロボロと泣き始めた妹の肩をポンポンと叩いた。だが、立っている女中の強い視線にハッと我に返る。


「エレーヌ。泣くのは後だ。ここを出るぞ」


 急に低い声で、とんでもないことを言ってくるラウルに、エレーヌは目を丸くした。


「なにを言ってるの? 私はここで謹慎しているのよ。ラウル兄様こそ、早く帰って! こんなところに勝手に入って……当然、許可をいただいたわけじゃないんでしょう? マリユス兄様はご存知なの?」


 矢継ぎ早に問うてくる妹に、ラウルは苛々と言った。


「そんなこと、どうでもいい! だいたいなにが謹慎だ。言いがかりも甚だしい。お前は悪いことなんてしてないだろうが」

「きちんと、最初から誰なのかを問わずにいた私も悪いのよ。そうしたくなかったから……」


 エレーヌは今更になって、幼かった自分をじた。

 文通を始めた時に、ちゃんと誰なのかを聞くべきだったのだ。そうすればきっと、ジスカルは答えてくれただろう。あるいは意地悪をして素直に教えてくれなかったとしても、いくつかヒントはくれたはずだ。エレーヌにもわかるように。


 あの時のエレーヌは、束の間の、ちょっとした恋の真似事を楽しみたかった。変わり映えしない日常に埋もれていくだけの自分にも、ほんの少しばかり彩りある思い出が欲しかったのだ。


 だがラウルは、屈託なく笑っていた妹の妙に大人びた物憂い表情に、苛々が増すばかりだった。


「ともかく出るんだ! お前を連れ帰りさえすれば、兄上がどうにかしてくれるさ!」

「そんな身勝手が許されるわけがないでしょう? ちゃんと陛下にお伺いしてから……」


 エレーヌはすっかり平常心を失っている兄をなだめようとしたが、ラウルのほうはどこまでも暢気な妹に盛大に舌打ちした。 


「何を言ってるんだ、お前は。ひと月ちょっとで、すっかりほだされてるんじゃないだろうな?! いいか? こんなところにいたら、お前なんか、ゆくゆく惨めに捨てられるだけだぞ!」

「……捨てられる?」

「そうだ! あんなとっかえひっかえ女を抱いては捨て去るような男。目を覚ませ、エレーヌ。言っておくが、あの男は父上みたいに母上一途いちずなんてのと正反対だぞ! きっと王宮に来るようなプンプン香水ふりまいたご令嬢に飽きて、お前に目をつけただけだ。兄上の言う通り、なんだからな! すぐに飽きて捨てられるぞ!」

「…………」


 エレーヌは呆然となった。

 兄が何を勘違いしているのかはわからない。

 ただ、ひどく自分が惨めだった。自分に、なんの価値もないように思えて。


「ひどいわ……」


 エレーヌはボソリとつぶやいた。

 しかしラウルは落ち着きなく周辺を見渡しながら、エレーヌの手を引っ張って、無理やり連れて行こうとする。


「エレーヌ! ボンヤリしている暇はないんだ!!」


 エレーヌはブンとラウルの手を振り払うと、とうとう怒鳴りつけた。


「なによ! なんの返事もくれなかったくせに!!」

「なに……?」

「何度も手紙を出したじゃない!『心配しないで』って……ここでの暮らしについて、なるべく皆が心配しないようにって、楽しいことだけ書いて……私だってまったく不安がなかったわけじゃない! それでもお兄様たちに迷惑がかからないようにって、平気なフリをして……」

「エレーヌ、エレーヌ……落ち着け。大声を出したら……」


 ラウルはいきなり怒り狂う妹に、驚き慌てた。辺りを見回しながらなだめすかそうとするが、積もり積もったエレーヌの怒りは止まらない。


「一言でも『安心した』って『元気で良かった』って、一言でも言ってくれてたら……。なんの便りもくれなかったくせに、いきなりやって来て、なによ! こんなことをしてタダで済むはずがないでしょう? 何を考えているのよ?!」

「俺はお前がひどい目に遭ってると思って……だいたい、手紙ってなんだ? そんなもの一通だってきてないぞ!」

「え?」

「俺だって、兄さんだって、父上も母上もお前に手紙くらい送らせてくれと頼んださ! でも許してもらえなかった。まして、お前からの手紙なんて、一通も貰ってない!」

「…………」


 エレーヌの脳裏に、にこやかに手紙を受け取るセヴランの姿が浮かび上がると同時に、薄闇の中、淡い金髪の男が琥珀の瞳を細めて近付いてくる姿が見えた。


「なんとまぁ……あるじに対して無礼千万なる物言いでありましょうか」


 あきれた声と共に、ラウルの首筋に刃を当てたのはセヴランだった。同時によろけたエレーヌの肩をそっと掴む大きな手。


「……陛下」


 ラウルがかすれた声でつぶやいた。


 エレーヌは目の前で首筋に剣を当てられている兄と、自分の背後に立つジスカルの間で、胸が潰れそうだった。荒い息でゆっくりと振り返って見上げると、琥珀の瞳が何らの表情も宿さず、ラウルを見ている。


「連れて行け」


 ジスカルが冷たく宣告する。

 エレーヌはその胸に縋りつくように訴えた。


「待ってください……兄は……私を心配して……どうか……お許しを……」


 段々と自分の声が遠く、小さくなっていく。お願いします、と何度もつぶやくが、それがジスカルの耳に入ったのかどうかはわからなかった。

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