16.いつまでここに?
一ヶ月後 ――――
そろそろ冬が近付いてきているのだろう。
窓辺から差し込む光はまだ温かいが、隙間から入ってくる空気は徐々に冷たくなってきている。それでも午後ののどかな光の中で、エレーヌはうとうとと眠気を感じて、大きくあくびした。
「深窓のご令嬢とは思えぬ姿だな」
クックッと喉奥を鳴らすように笑う声に、エレーヌはあわててあくびを引っ込めた。ムゥと声のしたほうを見遣る。
「いきなり入ってこられるとは思いませんもの」
「それは失礼」
ジスカルは微笑を浮かべて、エレーヌの向かいの椅子に座ると、意地悪く言う。
「だが、ここは私の宮なのでな。いついかなる時に私がどの部屋を訪れようが、私の自由だ」
「えぇ、それは勿論そうです。ただ、私が恥ずかしい思いをしただけですわ」
自分でも大きいあくびであった自覚があるので、エレーヌはひどく決まり悪かった。それをよりによってジスカルに見られていたというのが、またもう一つ恥ずかしさに拍車をかける。これがセヴランであったなら、二人して大笑いで済ませられたのに。
だがジスカルは、エレーヌの羞恥心など知る由もないらしい。
「あくびの原因は、そなたがカーラの目を盗んで夜遅くまで読書していたせいだろう?」
「まぁ、カーラさん。陛下に
エレーヌが非難するように言うと、少し離れた場所に控えていたカーラはにべなく答える。
「再三、夜はしっかりお休みあるようにと申し上げておりますのに、一向に聞き分けていただけぬのですから、しようがございません」
「だから今日はちゃんと寝ると言ってるじゃありませんか! 陛下、カーラさんに本を取り上げられたんです。『ブリトリス戦記』の続きも読めないんですよ」
少し怒ったように訴えるエレーヌに、ジスカルもまた薄笑いで取り合わない。
「ランプがないからと、月明かりで読むなどして……もう、夜は冷えるというのに、そのまま窓辺の椅子で眠り込んでいたらしいではないか。そんなことをして、また風邪をひいたらどうする。今回はカーラの言うことに従うことだ」
「あぁ、もう……二人して!」
エレーヌは口をとがらせると、小さなマカロンを口に放り込んで、紅茶を含む。シュワリと口中で溶けたマカロンとお茶を飲み下してから、ジスカルをうらめしげに見つめた。
「だいたい、私が夜更かしする羽目になったのは、陛下のせいではございませんか。陛下があの本を薦めてくるから」
二日ほど前のこと。
エレーヌは約束通りに『ブリトリス戦記』を読み進めていたのだが、その中に出てくる女闘士・アルディアーナと、後の獅子王・ティターニスの話が出てきたところで、すっかりこの二人のじれったい恋の話の虜になってしまったのだ。そのことをジスカルに言うと、
「その二人の話であれば、別に彼らを主人公にした話も数多くあるが……」
と教えられ、さっそくセヴランに頼んで図書館で数冊、借りてきてもらった。
その中の一冊にエレーヌはすっかり夢中で、それこそ寝食忘れて読み耽っている。こうしたことはここに来てから何度かあって、エレーヌがそのせいで体調を崩している姿を見ているカーラとしては、口を酸っぱくして注意せざるをえない。
「そなたがその手の恋愛話を好むと思わなかったな」
ジスカルに言われて、エレーヌもハタと気付く。
「そういえば……そうですね」
病弱な身で、本の中でのみ元気に振る舞えるエレーヌが好んで読むのは、およそご令嬢らしからぬ戦記や庶民らの生活を描写した悲喜劇などが主だった。母や姉妹たちの好むような恋愛小説にはあまり興味を惹かれなかった。日がな一日、誰かのことを思って溜息をつき、恋い焦がれて泣くような
「でも、アルディアーナは違います! 彼女は自由で、気ままで、とっても強い人なんです。素直だし、ティターニスなんかよりずっと堂々としているわ」
「……その様子だと、まだ
「あら、陛下もお読みになったのですか?」
「読んではいないが、だいたいわかる。恋愛小説の行き着く先など、たいがい決まり決まったものだろう」
「そういうものなんですか? 私はお姉様に勧められていくつか読んだりしたんですけど、全部途中で放り出してしまって……でも『アルディアーナとティターニス』は最後まで読めそうです」
「そうか。ま、せいぜい楽しむといい」
ジスカルは用意された珈琲を飲み終えると、立ち上がった。そのまま去ろうとする王に、エレーヌは少し迷いながら問いかける。
「あの、
ジスカルは足を止めて振り返ると「ああ」と頷いた。先程までエレーヌを優しく見つめていた琥珀の瞳が、冷たくひらめく。
エレーヌはキュッとしめつけられる胸をおさえながら、重ねて尋ねた。
「私の手紙は、お渡しいただいているのですよね?」
「……セヴランに渡しているのだろう?」
「はい。ちゃんと送ったと
「では、そうなのだろう。卿が嘘を言っているとでも?」
「いえ! そうではなくて、ただ……家族が何も言ってこないので」
寂しげにうつむくエレーヌの気付かぬところで、ジスカルはうっすらと微笑んだ。
狡猾なる王の姿を見たカーラの眉間に深い皺が寄る。
「あのぅ、私は……いつまでここにいればよろしいのでしょうか?」
おずおずと、エレーヌは問うた。
まだひと月ほどではあるのだが、あまりに安閑とした生活は、謹慎というには程遠くて、これで果たして許してもらえているのかどうか
途端に不機嫌になったジスカルが、嫌みったらしく言った。
「他の本に夢中になって、まだ『ブリトリス戦記』も読み終えておらぬというのに、随分と開き直るではないか。許しを乞いたいと言ったのはお前のほうだぞ」
「それは勿論そうです。嫌だと申しているのではありません。ただ、このままのんびりしているだけでよろしいのかと……罰らしい罰も受けておりませんし」
「……罰が欲しいのか?」
「いえ……」
エレーヌはヒヤリとなった。
問いかけてくるジスカルが、一瞬、ひどく獰猛に思えて。
だが、燃え立つようなジスカルの気配は
「ここを出ることは許さぬ」
エレーヌはジスカルを見送ったあと、ホゥと溜息をもらした。
ひと月を経ても、いまだにエレーヌには国王の真意が読めない。
ここでの生活はとても穏やかで平和だ。
三日に一度は医師がやって来て丁寧に問診してくれ、女中たちは大きな音にびっくりするエレーヌを驚かせないよう、いつも細心の注意を払って行動してくれている。なんであれば領地の屋敷にいた頃よりも過保護なくらいだ。
そうやって十分にエレーヌを気遣ってくれるのに、ジスカルはしばしばエレーヌを孤独に落とす……。
エレーヌはパンパンと軽く両手で頬を打った。
「駄目ね! 弱気になっちゃ」
「……お茶のお代わりを淹れましょうか?」
健気に自らを奮い立たせるエレーヌをカーラは痛ましく思ったが、自分に出来る事と言ったら、彼女がこれ以上悲嘆に沈まぬように、声をかけることくらいであった。
老女官の心遣いに、エレーヌはニッコリと微笑んだ。
「そうね。ラベンダーティーを淹れてもらえる? 少し蜂蜜を加えて」
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