13.国王ジスカル

 夜になって、エレーヌが軽い ―― パン一切れの ―― 夕食を取ったあとに、その人はようやく現れた。


 離宮とはいえ王宮内であるのに、シャツとトラウザーズの上にガウンを羽織っただけの軽装を見た途端に、エレーヌの予想はほぼ間違いないものとなった。貴族がこんな普段着で宮廷内をうろつくなど、許されない。

 エレーヌは部屋に入ってきたその人に、恭しく辞儀をした。深く頭を下げ、名前を呼ばれても、顔を上げることができなかった。


「随分とかしこまったものだな」


 あきれたように言われ、エレーヌは泣きそうになった。

 あまりにも滑稽な自分を情けなく思いつつも、何も言ってくれなかった目の前の男にも腹が立つ。だが自分にそれを責める権利はない。今はただ、最低限、兄らに迷惑のかからないよう、頭を下げるしかない。


「今までの非礼の数々、お許しください。……国王陛下」


 その呼び名を否定する言葉はない。

 頷くこともなく、傲然と問うてくる。


「非礼? なにがだ? 具体的に言え」

「……呼び方、だとか」


 エレーヌが気まずく答えると、クスっと笑う気配がした。


「顔を上げろ」


 有無を言わせない声音は、命令することに慣れた人間のものだ。エレーヌは震えながら息を吐ききったあと、おもむろに顔を上げた。細く笑みを浮かべる琥珀の瞳が、エレーヌを柔らかく見つめる。


「私が怒っていると思うか?」

「……わかりません」


 エレーヌは心底から言った。

 本当に、わからないのだ。今、こうして目の前にしていても、国王が何を考えているのか、ちっとも理解できない。


「でも、ここに連れて来られたということは、私の態度に問題があったということではないのですか?」

「問題はあった。大いにな」


 優しげに笑いかけてくれたと思ったら、次の瞬間には冷たく断ち切られる。ようやく奮い立たせた勇気も途端にひしゃげて、エレーヌはまたうつむいた。しかしそれすらも許さぬよう、ツイと指で顎を上げられる。

 エレーヌは必死に謝罪した。


「すみません。……申し訳ございません。本当に、失礼な手紙を何通も……知らぬこととは申せ、国王陛下に大変不躾ぶしつけな真似を致しました。お許しはあたわずとも、責めは私一人にお収め下さいませ。どうか……兄を始め家族や縁者にまで、罪が及ぶことのないように……」

殊勝しゅしょうなことだ。お前を閉じ込めようとした家族のために」

「……え?」

「私との文通をとがめられ、虚しく諦めたのだろう? お前から最後の手紙を受け取った日は、本当に苛立たしくてたまらなかった」


 淡々と言うのが、尚のこと恐ろしかった。無表情の裏にある、底知れぬ闇に繋がっているようで。


「…………お許しください」


 エレーヌはただただ謝ったが、国王は無情だった。


「私の怒りを招いておいて、ただで済むはずがないだろう?」

「……どう致せばよろしいのでしょうか?」

「なにをしてくれる?」

「……申し訳ございません。世間知らずに過ごして参りましたので、こうしたときにどうすべきか……謝罪以外のすべを存じ上げません」


 エレーヌが素直に言うと、国王はつまらなそうに軽く息をついた。

 エレーヌの顎から手を離し、テーブルに置かれた『ブリトリス戦記』を手に取る。


「とりあえず、続きを聞こうか?」

「はい?」

「ジョーヴァンヌ将軍死亡後、軍部は五つに割れて、第二王太子のエイラムが貴族派と手を組んだところまでだったかな、前の前の手紙で言っていたのは。どこまで進んだ?」


 エレーヌはしばしポカンと国王を見つめた。それからパチパチと瞬きして、再び琥珀の瞳に優しい笑みが浮かんでいるのを確認する。

 本当に何を考えているのだろう……?

 エレーヌは困惑しながらも、正直に答えた。


「あんまり進んでいません。背高……陛下への手紙を書かなくなって、すっかり読む気が失せてしまったので」

「せっかくこちらは九巻も用意していたというのにな」

「申し訳ございません。陛下の手をわずらわせてしまって……あの、それで私への処分というのは、つまりしばらくこちらの宮で謹慎しておく……ということでしょうか?」


 エレーヌは尋ねたが、国王は返事をしない。意味深に、やけに長く見つめあったあとに、フンと笑った。


「そうだな。そういうことにしておこうか」


 エレーヌは胸を押さえた。

 何故だろうか……蛇に舐められたかのような、ひんやりとした恐怖がうなじを這う。


 国王はそれ以上、エレーヌを追及することはしなかった。「今日はもう休め」と相変わらずぶっきらぼうに言って出て行こうとする。

 エレーヌはあわてて問うた。


「あ、あの! 家族に手紙を書き送っても?」

「……手紙?」

「私が突然いなくなって、心配していると思うので……せめて無事であることだけでも伝えたくて」

「王宮にいて、私の庇護下ひごかにあるのに、なにか危険があるとでも言うのか?」

「そういうわけではございません。でも、家に帰れば当然いると思っていた家族が突然いなくなっていたら、気を揉むことでしょう」


 エレーヌは結婚式から帰ってきた家族が、執事から話をきいて驚き、あわてふためく様子が容易に想像できた。一昨年、大病を患った父が、また具合を悪くしやしないか気になる。せめてエレーヌ本人が無事だと一言でも書き送れば、家族の安心の度合いも違うだろう。

 しかし国王は意地悪く笑う。


「どうだかな。……心配しているならば、すぐにも王宮に訪ねてこよう。残念ながら、今日は来なかったが」

「それは……今日は姉の結婚式ですし」

「大事な娘の失踪よりも、慶事を優先させるか?」


 国王の嫌味な問いかけに、エレーヌは唇を噛んだ。

 失踪もなにも、有無を言わせず連れてきたのはそちらであるというのに、どうしてこちらが責められねばならないのだろうか。


「……それで、手紙は出してもよろしいのでしょうか?」


 エレーヌはひとまず質問を絞った。

 聞きたいことは山ほどあったし、今の状況だってまだよくわからなかったが、これ以上、考えることを増やしたくはない。一つ一つ、焦らず片付けていかないと。


「好きにしろ。但し、この離宮にいることは口外してはならぬ。書いた手紙はセヴラン卿に渡せ」

「……かしこまりました」


 様々な気持ちを押し込めて、エレーヌは頭を下げた。

 しかし出て行くかと思った国王は、その場にいつまでもとどまっている。また、何からざることを言ったのかと、エレーヌは内心ざわめいたが、思い当たることはない。

 国王は静かに名を呼んだ。


「エレーヌ」

「はい……?」


 エレーヌは返事をしてから、おそるおそる顔を上げた。琥珀の瞳が、じっと試すかのように自分を見つめている。


「私を信じると言ったな」

「え? あ、はい」


 ここに来る馬車の中で、確かに言った。


  ―――― 背高さんを信じることにします。


 あのときは、そうやって信じていなければ、どんどん不安に呑み込まれそうで、自分をしっかりと保つためにも仕方なかった。


「今は?」


 国王が短く問いかけてくる。


「今、は……」


 エレーヌは言いかけて、吸い寄せられるように琥珀の瞳を見つめた。


 国王・ジスカル。

 先王亡き後、継母けいぼであった王妃と、その息子である弟王子を自らの手で殺害。王太子時代には数々の野蛮民との戦争を繰り返し、敵首領の首級しゅきゅうを見せつけるように城塞じょうさい塁壁るいへき上に飾ったという……冷酷なる残虐王。


 その名にたがわず、目の前の人はエレーヌにひとかけらの同情も与えない。

 会った時から傲慢で、今に至るも、彼は一分いちぶたりともエレーヌに本心を見せない。

 けれどこの時、短い問いの中で、エレーヌはジスカルの強い眼差しが一瞬、頼りなげに揺らぐのを見た。サンザシの木の下で見た、あの瞬間ときのように。


「信じます」


 反射的に言ってから、エレーヌは自分の言葉を確かめるように、もう一度言った。


「信じております。背高さんは私の……おそれながら陛下のことは、友人と思っておりますので」


 だがジスカルの瞳は再びどんよりと曇り、自らの心奥しんおうを隠した。


「その信頼がいつまで続くのか……見せてもらうとしよう」 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る