10.オルレア宮
馬車が止まると、いつのまにか男が隣に座ってエレーヌの肩を抱いていた。驚くエレーヌに、男は軽く溜息をついて言った。
「寝ながら、やたらと頭を窓の
「それは……失礼しました」
どうやらウトウトと寝てしまって舟を漕いでいる間に、何度か頭を馬車の側面の壁にぶつけていたらしい。
男は立ち上がると、先に馬車から降りて、エレーヌに手を差し出した。
今更ながらレディらしく扱われることに、エレーヌは戸惑ったが、そこは母仕込みの礼儀作法を思い出して、顔を上げてなるべく堂々と立ち
タラップを降りると、目の前には白く輝く石と、精巧な石膏細工で形作られた美しい宮殿があった。正面のファサードは、二本の
屋根と建物の間の
エレーヌは重厚な雰囲気を
「案外、可愛らしい建物なんですね。王宮って」
エレーヌは感じたままに言った。正直、家族から聞いていた王宮のイメージよりもこじんまりとした印象であったので、拍子抜けしつつも、ちょっとホッとしていたのだ。
しかし『
「ここは離宮の一つ、オルレア宮だ。王宮の中では一番小さい宮だ」
「…………」
エレーヌは真っ赤になってうつむいた。
考えてみれば、こんなエレーヌが見たって小さいと思えるような宮殿が、本宮殿であるはずがない。恥ずかしくて穴に入りたい気分のエレーヌをよそに、男はさっさと先に立って歩き、扉を開いてエレーヌを中に招き入れた。
吹き抜けになった天窓から差し込む光に照らされた
入ってきた男に、静かに頭を下げる。
一番
「お部屋の用意は済んでございます」
「では、案内しろ。あぁ……フラヴィニー伯爵家のか弱きご令嬢だからな、せいぜい丁重に世話するように」
また皮肉めいた口調で言うだけ言って、男が立ち去ろうとするので、エレーヌはあわてて男の腕を掴んだ。
「ちょっと待ってください、背高さん! 私はどうすればいいんです!?」
その場に控えていた女中たちは唖然となった。今まで、目の前のこの冷酷無比なる男に対して、腕を絡めようとする令嬢はいても、掴んで怒鳴りつけるような令嬢はいなかった。まして『背高さん』というのは、誰のことだ?
しかしエレーヌは女中たちのことなど構っている場合でなかった。理由もわからず王宮に連れてこられた挙句、小さな離宮に置いてけぼりにされては、さすがのエレーヌとて心細くて仕方ない。
「理由も言わずに勝手に連れてきておいて、放ったらかしにする気ですか? 私、ここからどうやって帰ればいいのかもわからないんですけど」
「帰る?」
男はピクリと眉を寄せた。
ズイとエレーヌに一歩近付いて、冷たく告げる。
「お前を帰すことはない」
急にヒヤリとした氷の刃を向けられた気がして、エレーヌは
今になってひどく不安が押し寄せてきて、ギュッと両手を握り合わせる。
男はすっかり困惑しているエレーヌを見て、興味深げに微笑むと、軽い口調で言った。
「とりあえず『ブリトリス戦記』の九巻は用意してある。それでも読んでおけ」
「そんな……! 私、まだ八巻も全部読んでないんですよ!」
「なんだ。あれからしばらく経っているから、お前であれば読み終えたろうと思っていたが……」
男があきれたように言うのを、エレーヌは恨めしく思った。
エレーヌは家族にこの男との文通がバレて以降、読む気も失っていたというのに、男の方はまったく大したこととも思っていなかったようだ。
「あとで八巻を持ってこさせよう。それでいいか?」
「いいか……って、良くないですけど……」
「またあとで来るから、適当に過ごしておけ。なにかあれば、カーラに訊け」
男が言って目配せすると、先程の年嵩の女が進み出て、エレーヌに恭しく挨拶する。
「カーラと申します。しばらくの間、ご令嬢のお世話を承っております」
「あ、初めまして。エレーヌ・マーニャ・フラヴィニーと申します。……あっ」
礼儀正しく挨拶されて、エレーヌも流されるように自己紹介している間に、男は出て行った。呆然とたたずむエレーヌに、カーラが無機質な表情で呼びかけた。
「では、エレーヌ嬢。お部屋にご案内致しますので、ついてきて頂けますか?」
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