10.オルレア宮

 馬車が止まると、いつのまにか男が隣に座ってエレーヌの肩を抱いていた。驚くエレーヌに、男は軽く溜息をついて言った。


「寝ながら、やたらと頭を窓のへりにぶつけるから、支えていただけだ」

「それは……失礼しました」


 どうやらウトウトと寝てしまって舟を漕いでいる間に、何度か頭を馬車の側面の壁にぶつけていたらしい。

 男は立ち上がると、先に馬車から降りて、エレーヌに手を差し出した。

 今更ながらレディらしく扱われることに、エレーヌは戸惑ったが、そこは母仕込みの礼儀作法を思い出して、顔を上げてなるべく堂々と立ち振舞ふるまうことにする。


 タラップを降りると、目の前には白く輝く石と、精巧な石膏細工で形作られた美しい宮殿があった。正面のファサードは、二本の女人柱カリアティードの間に白い玄関扉。扉上部の半円部分は分厚い硝子がめられており、扉自体には種々の植物の文様が彫り込まれている。

 屋根と建物の間の破風ペディメントには、王家の紋章が中央に飾られ、妖精たちがその紋章を掲げるように両側から持っている彫刻が施されていた。


 エレーヌは重厚な雰囲気をかもすファサードに圧倒されそうだったが、建物両端の円柱型の小塔タレットに被さるエメラルドグリーンの円錐えんすい屋根は、可愛いと思った。


「案外、可愛らしい建物なんですね。王宮って」


 エレーヌは感じたままに言った。正直、家族から聞いていた王宮のイメージよりもこじんまりとした印象であったので、拍子抜けしつつも、ちょっとホッとしていたのだ。

 しかし『背高せいたかさん』は、怪訝けげんにエレーヌを見下ろし、すげなく言った。


「ここは離宮の一つ、オルレア宮だ。王宮の中では一番小さい宮だ」

「…………」


 エレーヌは真っ赤になってうつむいた。

 考えてみれば、こんなエレーヌが見たって小さいと思えるような宮殿が、本宮殿であるはずがない。恥ずかしくて穴に入りたい気分のエレーヌをよそに、男はさっさと先に立って歩き、扉を開いてエレーヌを中に招き入れた。


 吹き抜けになった天窓から差し込む光に照らされた玄関エントランスホールでは、数名の女中が並んで立っていた。

 入ってきた男に、静かに頭を下げる。

 一番年嵩としかさらしい白髪頭の一人が、進み出て告げた。


「お部屋の用意は済んでございます」

「では、案内しろ。あぁ……フラヴィニー伯爵家のご令嬢だからな、せいぜい丁重に世話するように」


 また皮肉めいた口調で言うだけ言って、男が立ち去ろうとするので、エレーヌはあわてて男の腕を掴んだ。


「ちょっと待ってください、背高さん! 私はどうすればいいんです!?」


 その場に控えていた女中たちは唖然となった。今まで、目の前のこの冷酷無比なる男に対して、腕を絡めようとする令嬢はいても、掴んで怒鳴りつけるような令嬢はいなかった。まして『背高さん』というのは、誰のことだ?


 しかしエレーヌは女中たちのことなど構っている場合でなかった。理由もわからず王宮に連れてこられた挙句、小さな離宮に置いてけぼりにされては、さすがのエレーヌとて心細くて仕方ない。


「理由も言わずに勝手に連れてきておいて、放ったらかしにする気ですか? 私、ここからどうやって帰ればいいのかもわからないんですけど」

「帰る?」


 男はピクリと眉を寄せた。

 ズイとエレーヌに一歩近付いて、冷たく告げる。


「お前を帰すことはない」


 急にヒヤリとした氷の刃を向けられた気がして、エレーヌは後退あとじさった。

 今になってひどく不安が押し寄せてきて、ギュッと両手を握り合わせる。

 男はすっかり困惑しているエレーヌを見て、興味深げに微笑むと、軽い口調で言った。


「とりあえず『ブリトリス戦記』の九巻は用意してある。それでも読んでおけ」

「そんな……! 私、まだ八巻も全部読んでないんですよ!」

「なんだ。あれからしばらく経っているから、お前であれば読み終えたろうと思っていたが……」


 男があきれたように言うのを、エレーヌは恨めしく思った。

 エレーヌは家族にこの男との文通がバレて以降、読む気も失っていたというのに、男の方はまったく大したこととも思っていなかったようだ。


「あとで八巻を持ってこさせよう。それでいいか?」

「いいか……って、良くないですけど……」

「またあとで来るから、適当に過ごしておけ。なにかあれば、カーラに訊け」


 男が言って目配せすると、先程の年嵩の女が進み出て、エレーヌに恭しく挨拶する。


「カーラと申します。しばらくの間、ご令嬢のお世話を承っております」

「あ、初めまして。エレーヌ・マーニャ・フラヴィニーと申します。……あっ」


 礼儀正しく挨拶されて、エレーヌも流されるように自己紹介している間に、男は出て行った。呆然とたたずむエレーヌに、カーラが無機質な表情で呼びかけた。


「では、エレーヌ嬢。お部屋にご案内致しますので、ついてきて頂けますか?」

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