8.お別れの手紙
意識を取り戻して、食事を取るまでに回復すると、エレーヌは父から手紙の男について問われることになった。
エレーヌは観念して正直に話した。
国王陛下が屋敷に来たときに、偶然知り合ったのだと。
しかし父は名を名乗りもしない騎士に対して、大いに不信感を持ったようだ。
「名を名乗りもせずに文通を続けるなど、およそ真剣なものではないのだろう。お前もそんな男に騙されて、頻繁に手紙を書き送るなど……もう少し考えなさい。ロレットでもあるまいに、こんな軽薄な関係に浮かれるようなお前ではないだろう?」
「……そうですね」
エレーヌはもういちいち説明するのも面倒だった。
そもそも最初から、エレーヌだって真剣に将来を考えて交際を……なんて考えていたわけではない。
父はすっかり元気をなくした娘を痛ましげに見てから、軽く咳払いして言った。
「不誠実な人間に対してまともに相手するのも馬鹿らしいことだが、向こうの品性に合わせてやる必要もない。文通をやめることは、お前から申し出なさい。それでしつこいようであれば、私が対処しよう」
「はい、かしこまりました」
エレーヌはおとなしく頷いた。
父が出て行ってから、ほぅと溜息をつく。
気がつくと、一筋、涙が頬を伝っていた。
ぽたりと布に沁みた涙を見て、エレーヌはふふっと自嘲した。
「どうして泣く必要があるのよ。わかっていたくせに……」
どうせ最初から終わると決まっていた。しかも一方通行の、見せかけだけの、おもちゃのような恋だ。それでもほんの少し、フワフワと浮き立つような気持ちを味わえただけ、充分じゃないか。妹との言い争い程度で、情けなく倒れてしまうような自分であれば、これくらいが潮時なのだろう。
エレーヌは重い足取りで
***
騎士団の事務室において、そのエレーヌからの手紙を受け取りに来た人物を確認したラウルは、彼が廊下に出てくるなり殴りつけた。
「貴様……妹を
襟首を掴まれ、また一発殴られそうになる前に、セヴランは怒りに震えるその拳を掴んだ。
「随分と乱暴なことだな、ラウル卿。話も聞かずに」
「お前と話すことなんかあるか。勝手に妹に会ってたばかりか、手紙なんぞ送りつけやがって……」
セヴランは自分を殺す勢いで睨みつけてくる青い瞳を冷たく見返してから、ドスリと腹を蹴りつけた。
ラウルがウッと呻いて、セヴランの襟を離す。
セヴランは数歩
「騎士団内での私闘は厳禁だぞ、ラウル卿。そんな最低限の規律も守れぬようでは、陛下をお守りする役目など果たせぬだろうな」
「このクソ野郎がッ! 言うに事欠いて国王陛下を持ち出しやがって! お前なんぞ、どこぞの馬の骨ともわからん下賤のくせして……」
激昂したラウルが建物中に響き渡るような怒鳴り声で罵倒するのを、鋭く遮ったのは国王ジスカルの静かな一言だった。
「耳が痛いな、ラウル卿」
抑制のきいた、それだけにヒリヒリするような緊張を孕んだ声は、
ラウルはすぐさま
ジスカルはラウルを無視し、軽く顎をしゃくってセヴランに来るよう促した。
二人が去った後、ラウルはブルブルと震える拳で床を殴りつけた。
「あンの、クソッたれが!」
***
国王の執務室に入ると、セヴランはエレーヌからの手紙をジスカルに渡した。
いつもは楽しげに封を切る国王は、今回ばかりは憂鬱そうに開封して便箋を取り出す。
読むなり、一気にジスカルの
「…………これで終わりだそうだ」
「相手が陛下だとは思っていないのでしょう」
「どちらにしろ、エレーヌ嬢は諦めたということだ」
「いかがなさいますか?」
「知ったことではない。あちらの思惑など、考えてやる必要があるか?」
セヴランは王らしい返答に、軽く肩をすくめる。
「ラウル卿は、近々、妹 ―― エレーヌ嬢ではありません。フラヴィニー前伯爵の三女の結婚式で休暇申請を出しております。家族は全員、王都に集まるようです。エレーヌ嬢以外」
「知っている。前に手紙で話していたからな」
ジスカルは少し前にもらった手紙で、エレーヌが書いていたことを思い起こした。
近々、すぐ上の姉の結婚式が行われるが、自分は出席しないこと。以前に長兄の結婚披露宴で、ふざけた男に追い回されて具合を悪くして以来、そうした宴に出席を一切止められている ―― 当人は自分の意志で行かないのだと言っていたが ―― と。
ジスカルは無表情に、エレーヌからの最後の手紙をもう一度読み返した。
『
長いこと……と思っていましたが、それほど長い期間でもありませんね。でも、短い間でも、私にはとても楽しい時間でした。家族があなたとの文通を
ごめんなさい。
本当は『ブリトリス戦記』を最後まで読み終えて、あなたに報告をしたかったのですが、残念ながら私の弓は折れ、矢は尽き果ててしまいました。
最後に。
いつも本を頂いていたのに、私の方からはお礼ができていなかったので、以前に作ったもので申し訳ないのですが、
私たちの間の記念品としてはふさわしくありませんか?
では、お役目
あなたの
エレーヌ・マーニャ・フラヴィニーより』
ジスカルは読み終えると、ぐしゃりと手紙を握りつぶした。琥珀の瞳が酷薄に閃く。
「早急に手筈を整えよ」
「はっ」
セヴランはすぐさま敬礼して、部屋を出た。
扉が閉まると、ジスカルは封筒から栞を取り出した。白いサンザシの花はやや黄色く変色して、藍色の紙に貼られている。
「まったく……忌々しい花だな」
ジスカルはつぶやいた。
ふぅと深呼吸するが、怒りは後から後から
これまでも理不尽や、屈辱はいくらでも受けて来たというのに、鍛え抜かれた自制心すらも圧倒するその怒りの理由が、ジスカルにはわからなかった。ただ、もう抑えることができないのならば、解き放つしかない。その先に非難が待っていようが、知ったことではなかった。
自分はこの国の王だ。
悲鳴と
であれば、どうして望むものを手に入れるのに、躊躇する必要があるというのか?
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