2.サンザシの木の下

 本を読み終えても、ジョナタンは来なかった。

 どうやら父と一緒にホストの役割をしているようだ。次兄は今回客側であるため、迎え入れる男手の一人として、成人前であっても、ジョナタンが任されたのだろう。


 さっきまで本の中では、剣と槍の間をかいくぐり、戦車を縦横無尽に走らせて勝利の雄叫びを上げていたというのに、なんとも平和な午後の光の中で、エレーヌはだらりとソファに寝そべっていた。


『あぁ、つまらない』


 大あくびをして立ち上がると、バルコニーに出てみる。

 本に熱中している間に、どうやら一雨きていたようだ。

 この地方では春半ばを過ぎると、こういう通り雨がある。夏の夕立のような土砂降りではなく、柔らかい霧雨がさあっと降るのだ。


 新緑は雨に濡れて、ますます瑞々しい光を帯びる。

 水気を含んだ、青臭い初夏の空気が充満していた。

 雨上がりの木々の間を跳び回る小鳥のさえずりが聞こえてくる。

 今更、翼ある生き物を羨望することはないが、それでも今日くらいは、このバルコニーから飛んで図書室に行くまでの翼が生えてくれないものかと、くだらない空想をしてみる。

 でも自分に翼が生えて空を飛んでいたら、それこそお父様は驚いてひっくり返ってしまうかもしれない。お母様はドレスの下が丸見えだと追いかけ回すだろうし、そもそも出てはいけないという約束を破った時点で怒られるのは同じだ。


「そうすると、翼のほかにも姿を消す粉でもかけてもらったほうがいいわね。でもそれだったら翼がなくてもいいんじゃない……?」


 つぶやきながら馬鹿らしくなって、エレーヌは溜息と共にくだらない空想を吹き飛ばした。

 ボンヤリとバルコニーから眼下の庭を眺める。

 庭とはいえ、表の庭園と違って、こちらは主に果樹や野菜などの作物を植えている庭なので、で楽しむようなものではない。唯一あるとすれば、白い花を咲かせるサンザシの木くらいのもの。


 バルコニーの柵に肘をつきながら見るともなしに見ていると、フワリと珊瑚色さんごいろのリボンをつけた小鳥が横切った。

 いや、そうではない。

 ふんわりしたシフォンのリボンが足に絡みついたまま、小鳥がまごまごしながら飛んでいるのだ。


「あらららら」


 エレーヌは思わず身を乗り出した。

 小鳥はサンザシの枝に止まったが、そこで枝の棘にでもリボンが引っかかったのだろう。飛び立つことができず、チチチッと助けを呼ぶかのように鳴いていた。


 エレーヌはすぐさまきびすを返すと、部屋を飛び出した。

 途中で走りたい気持ちを抑えつける。走ってしまって、また胸が痛くなってエレーヌが倒れてしまったら、あの小鳥は誰知ることもなく力尽きて落ちるか、いたちにでも食べられてしまうだろう。


 無理をしない程度に急いで、エレーヌはそっと階段を降り、使用人用の廊下を通って、裏庭へと出た。

 しかし誰もいないと思っていたその場所には、男が一人たたずんでいた。エレーヌはハッと息をのみ、足を止めた。


 そこにいたのは次兄がいつも着ている近衛騎士の制服を着た男だった。

 随分と背が高い。サンザシの木は一番低い枝でも、エレーヌが背伸びしてようやく届くくらいであるのに、その男であれば悠々と枝を折ることもできそうだ。

 男は無表情にサンザシの花を見上げていたが、その姿は寂しげで、どこか頼りなくも見えた。


 ざっと強い風が吹いて、サンザシの葉が揺れる。

 雨上がりのしずくがパッと散り、彼に柔らかく降り注いだ。明るい陽射しに照らされ、チャコールグレーの髪を覆った細かな雫がひとつひとつ光を放つ。


 エレーヌは目の前の美しい光景に思わず見入ってしまった。強い視線を感じたのか、男が怪訝に振り向いてエレーヌを見る。


 琥珀こはくの瞳が鋭くエレーヌを刺した。

 きつい眼差しは普通であれば目を逸らしたかもしれないが、それよりもエレーヌは男の美しく、堂々とした姿に釘付けとなった。


 石膏像かのような白皙はくせきの、冷たさを帯びた端整な顔立ち。いかにも意志の強そうな、くっきりとした濃い眉。偉丈夫な次兄ラウルに勝るとも劣らない、がっしりと強健そうな体は、嵐の中でも平然と立っていられそうだ。


「何の用だ?」


 冷ややかに尋ねられて、エレーヌはハッと我に返った。

 思わぬところで、思わぬ出会いにボンヤリしている暇はないのだった。早く小鳥を助けなければならない。


「小鳥です!」

 

 エレーヌは叫ぶと、あわてて今いる場所の反対側へと急いだ。

 サンザシの木は建物の角に植わっていて、いびつな形で枝を伸ばしている。エレーヌの見た小鳥は、この場所からだと見えない。


 角を曲がると、すぐに小鳥が見つかった。まだ無事だったが、よほどあわてて飛び回ったのか、リボンが枝の棘にますます絡みついてしまっている。

 エレーヌはどうにか枝に絡みついたリボンを取ろうとしたが、案の定、手がかろうじて枝に届く程度。脚立きゃたつでもない限り、小鳥を助けるのは難しそうだった。

 やや勇気がいったが、エレーヌは背後に立っている男に願い出た。


「すみませんが、手伝っていただけないでしょうか?」


 男はつまらなそうに小鳥を見てから、軽く首をかしげる。


「鳥を捕まえるのか?」

「捕まえるんじゃありません。あの小鳥の足に絡みついたリボンを取りたいんです」

「……お前のか?」

「はい?」

「あのリボンはお前のなのか?」

「いえ、違います。たぶん、妹のだと思います」


 小花が刺繍された珊瑚色のリボンは、長兄が妹の誕生日にと送ってきたプレゼントの一つだった。妹はご自慢のハニーブロンドに映えるそのリボンを気に入っていて、ちょっとした親戚同士の集まりの時なんかには必ず結んでいく。今日もおそらく大事なお客様を迎えるということで、張り切って付けていたのだろう。


「どうせボロボロだろう。今更取ったところで」


 男はエレーヌがリボンを取り返したいのだと思ったようだ。

 エレーヌはあきれたように言った。


「リボンは別にどうでもいいのです。また新しいのを買うだろうし。私は小鳥を助けたいんです。手を貸していただけませんか? あなたでしたら、あの枝にも手が届くでしょう?」


 男は小娘に指図されることに苛立ったのか、ムッと眉を寄せたものの、エレーヌが「お願いします」と頭を下げると、すぐさまバキリとその枝ごと折った。


 エレーヌは息を呑んだ。

 枝はまぁまぁの太さで、まさか人の手で折れるとは思わなかったのだ。

 しかし男が枝を持って、エレーヌの前に差し出してくれたので、その後の処理はしやすかった。狂ったように騒ぐ小鳥に声をかけながら、エレーヌはそっとシフォンを小鳥の爪から取り除いた。

 ようやく自分を繋いでいた柔らかなかせから解き放たれて、小鳥は一目散に飛び去った。

 エレーヌはホッと息をつくと、まだ枝を持ったままの男をチラと窺った。

 どうしようかと迷ったが、ついでなので妹のお気に入りのリボンも枝から取り去った。男の言うようにボロボロになっていたが、一応、妹に返してやったほうがいいだろう。


 役目を終えたと思ったのか、男はサンザシの根元に枝を放り投げた。


 エレーヌはすぐさまポケットからハンカチーフを取り出しながら男に言った。


「手を見せてください。棘が刺さったでしょう?」


 サンザシの枝には棘がある。あんなに強く持ったのならば、きっと切っているだろう。

 しかし男はにべなく拒否した。


「大した傷はない」

「棘が刺さったままになっていたら、大変ですよ」

「戦場でこの程度は傷とは言わぬ。下手に手当てなどしていては、惰弱だじゃくわらわれる」


 あまりに傲然ごうぜんと言い放つ男にエレーヌはあきれた。しかし騎士団に所属しているのならば、帰ってから医師に診せて治療を受けることも可能であろうと、早々に説得をあきらめた。

 エレーヌはハンカチをしまうと、姿勢を正して男と向き合った。


「ありがとうございます」


 頭を下げ礼を言うエレーヌに、男は皮肉げな笑みを浮かべた。


「助けられた鳥は礼を言わずに飛び去ったのに、なぜお前が感謝する?」


 エレーヌはその質問に当惑した。少し考えてから、クスッと笑みを漏らす。


「えぇ、まぁ、確かに本来一番に感謝すべきはあの小鳥かもしれません。でも、助けてと頼まれたわけでもないですし、私が勝手に助けたいと思ってしたことですので、手伝ってくださったお礼を申し上げたかったのです」


 言いながら、なんだかおかしく思えてきて、笑いが後からこみあげてきた。

 なんて理屈っぽい人なんだろうか。小鳥にまで謝礼を求めるなんて。

 それでも初対面の、しかも男性の前で大笑いするのもはしたないと教えられてきたので、エレーヌは口を手で隠しつつ必死に笑いをこらえた。


 男は肩を震わせているエレーヌを怪訝けげんに見つめて、ふと思い出したように尋ねてきた。


「お前はこの家の者か?」


 エレーヌはその時になってようやく、父の言い付けを破って部屋を出てきてしまったことを思い出した。


「えぇと……」


 言い淀むエレーヌに、男は追い込むように問いを重ねてくる。


「さっき言っていた妹というのは、この家の一番下の娘であるロレット嬢のことか?」


 エレーヌは返事する前に、もう一度男をざっと見た。

 近衛の制服を着ているということは、兄と同じ近衛騎士なのだろう。顔立ちからしても、いかにもそれらしい。

 近衛騎士は国王の側近くに仕える者ほど、剣術などの武芸に優れているほか、見目良いことも考慮に入れられる。それに近衛騎士団の構成員はほぼ貴族子弟で、中には公爵家などの次男三男もいるというから、このやや横柄な態度もある程度納得できる。


 エレーヌは覚悟を決めた。


「はい、ロレットは私の妹です。ご挨拶が遅れまして申し訳ございません。私はセルジュ・フラヴィニーの六番目の子、エレーヌ・フラヴィニーと申します」


 一応、母からみっちり指導された通りに挨拶する。

 頭を下げたエレーヌの見えぬ間に、男の口の端がかすかに吊り上がった。


「成程。ラウル卿が躍起になって隠していた妹か」


 気軽に兄の名を呼ぶ男に、エレーヌはハッと顔を上げた。

 もし、次兄がこのことを知ったら、目の前のこの男は殴られる程度では済まないだろう。


 以前に長兄の披露宴でエレーヌに無礼を働いたのは、次兄の友人であったのだが、大事な妹にちょっかいをかけたことを知った次兄ラウルはそれこそ烈火の如く怒り、問答無用の鉄拳制裁の後に絶交した。彼はその後、長兄の主催する紳士クラブからも除籍された。


 エレーヌは兄たちが自分を大事にしてくれることには感謝していたが、時々行われるこの過剰な報復は少々困りものだった。自分のせいで目の前の男と兄の仲がこじれるのは避けたい。


「あのぅ……とても身勝手な申し出だということは重々承知の上で、お頼みしたいことがあるのですが」


 エレーヌがおずおずと切り出すと、男の眉がピクリと上がる。軽く顎をしゃくって続きを促す姿は、やはりどこぞの貴族のお坊ちゃんらしく不遜な態度だった。


「私とここで会ったということは、兄や父……皆に内緒にしてもらえないでしょうか?」

「……なぜだ?」

「私、本当は今日は一日、部屋にいないといけなかったんです。朝にお父様からそう言われていて。兄の同僚の方であればご存知かもしれませんが、ラウル兄様は私のことになると、しばしば常軌を逸したように怒りまくるんです。同じ近衛騎士団にいるのに、あなたと喧嘩になってしまったら、国王陛下にまでご迷惑がかかってしまいかねません」

「それはそれは……」


 男はうっすらと笑みを浮かべ、エレーヌの提案を受け入れた。


「国王陛下まで持ち出されては、了承せざるを得ないだろうな。私としてもラウル卿の不興を買うことは避けたい」

「はい、全力で避けてください」


 エレーヌが真面目くさって言うと、男は冷ややかな口調で尋ねてきた。


「お前は、この家が窮屈ではないのか?」

「え?」

「客が来ているというのに、部屋に籠もっていろと命令されたり、こうして出歩く程度のことでも兄からうるさく叱責される心配をせねばならないのは、理不尽とは思わないのか?」

「…………」


 エレーヌは家族全員と使用人も含めた、自分を心配する人々の顔を思い浮かべたが、彼らの誰一人に対しても理不尽という言葉は当てはまらなかった。憮然とする男にニコリと笑いかける。


「確かに少々過保護だと感じることはありますけど、それは私が本当に体が弱いせいですし、こうして今みたいに、私は時々突拍子もない行動をしがちなので、私自身のためにも、多少は仕方ありません」

「お前は本当に体が弱いのか?」


 こうして話す限り、エレーヌが病弱だと思えなかったのだろう。男の率直な問いかけに、エレーヌは苦笑して首をかしげた。


「さぁ? 私にもよくわかりません。でも、少し無理して走ったりすると、胸が痛くなってしまったりするのは本当です。それでも昔に比べると、随分と良くなってきてはいるように思うのですけれど」


 エレーヌ本人だって、今日のようないい天気の日には、近くの丘まで行って柔らかい草の上を駆け回りたくなるような気持ちにはなるのだ。想像している間は、本当に出来るんじゃないのかとすら思う。

 けれど実際に走れば、やっぱり胸が苦しくなり、震えて地面に這いつくばる羽目になる。

 こうして何度も自分の脆弱さを見せつけられるたびに、エレーヌの中でゆっくりと死が沈殿していく。


「…………」


 エレーヌはそっと溜息をつき、底知れぬ不安を吐き出した。ニコリと男に微笑んで、別れを告げる。


「それでは、見つかる前に失礼させていただきます。お役目つつがなく果たされますよう、お祈り致しております」


 いつも次兄を見送るときに言う台詞を述べて辞儀をし、エレーヌはその場を立ち去った。本当はちょっと振り返って、もう一度あの整った顔を見てみたい気もしたが、さすがに控えた。


「…………ふふっ」


 部屋に帰る途中、思わず笑みがこぼれる。

 ちょっと浮き立っている自分の心が面白かった。こんな気持ちになるのは初めてで、どこかフワフワと頼りなく、なぜか妙にザワザワとした。けれど嫌な感じではない。


 無事に部屋の前まで誰にも見つかることなく辿り着き、ホッと胸をなで下ろしたのも束の間、


「もうエレーヌってば、どこに行っていたの?」


 ドアを開いた先で、妹のロレットがプンと頬を膨らませて待っていた。

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