1.エレーヌ

 マウツェリ王国西北部にあるフラヴィニー伯爵領ロン=ロシェは小さな領地であったが、王都から三時間ほどという立地、小高い山々と湖沼を楽しむことのできる風光明媚な景観に加え、温泉が出るということで、昔から貴族・富裕らが小旅行に訪れる保養所リゾートであった。


 フラヴィニー伯爵は先だって代替わりしたばかりで、妻子と共に王都に居住しており、現在その領地にいるのは先代フラヴィニー伯爵とその夫人、八人いる彼らの子供たちの内、下二人の娘と息子の五人家族。


 その娘の一人、前伯爵六番目の子・エレーヌは、当年十八歳。

 父譲りの落ち着いたグレージュの髪に、母方の祖母から受け継いだやや緑がかったはしばみ色の瞳は、美人と評判の三人の姉に勝るとも劣らない美しさであったが、本人がもっとも気にしている尖った顎と、いつも青白く見える顔色、それでなくとも食の細い痩せぎすな体は、どこか貧相な印象も与えた。

 もっともエレーヌの周囲に、彼女の容姿について、悪し様に言う者などいなかったが。


 エレーヌは五歳になるまで、少々お転婆なほど活発な子供だった。

 しかし五歳の年に流行病に罹り、高熱が三日続いたあとには、すっかり病弱な体となってしまった。診察した医師にもはっきりした原因はわからず、おそらくは病気の後遺症であろうと思われたが、それまで元気に駆け回っていた娘が、食べても吐いてしまい、少し廊下を歩いただけでばったり倒れる様を見た両親は、特にこの娘の体調管理には気を遣った。

 それは両親だけでなく、彼女を大事に思う兄弟姉妹、使用人に至るまで、細心の注意を払って彼女の成長を見守っていた。


 その日も、伯爵家は朝からてんやわんやの大騒ぎであったが、エレーヌに対しては早々に「今日一日は部屋で過ごすこと」と父からの厳命が下った。


「いったい、どうしたっていうの?」


 エレーヌは私室で朝食を食べ終えると、髪を整えに来たメイドのアンに尋ねたが、アンもあまりよくわかっていないようだった。


「私にもよくわかりません。今朝になって、いきなり何かしらせが来たみたいで、それで旦那様も奥様も、執事のセバスチャンさんもてんてこ舞いですよ」

しらせ? 王都のお兄様からかしら?」


 エレーヌは当主になってからすっかり眉間の皺が深くなってしまった厳格な兄の顔を思い浮かべた。

 アンも首をひねりつつ、エレーヌの髪をぐいっと引っ張る。


「あっ、痛っ! もう、アンってば、ちょっとは手加減してちょうだい」

「そんなこと言って、この前にはちゃんとしっかり編み上げてくれと、仰言おっしゃっていたじゃあ、ありませんか」

「だって、あのときはすぐにほどけてきて、本を読むときに邪魔だったから」


 エレーヌはアンに引っ張られ、突っ張ったように感じるこめかみを押さえながら、鏡越しに映る部屋のドアが開くのを待った。おそらくそろそろ、我が家の情報屋が駆け込んでくるはずだ。

 エレーヌの予想通り、アンがぎっちし編み込んでくれた髪に髪留めを留めたところで、ドアが大きく開いた。


「エレーヌ! エレーヌ!! 大変だよ、大変大変!」


 息せき切って駆け込んできた弟のジョナタンに、アンは振り返りざま叱りつけた。


「これ! 坊ちゃま! レディの部屋にノックもなしに入ってくるなんて!」


 大柄なアンからの叱責に、ジョナタンは首をすぼめつつも、口を尖らせた。


「もう堅苦しいなぁ、アンは。姉弟きょうだいなんだから、いいじゃんか」

「そういうわけには参りません! 奥様に申し上げますよ」


 普段は温厚な母は、こと礼儀作法にはめっぽう厳しい。

 ジョナタンは母からの冷ややか、かつ厳かなお叱りを予想してか、途端に縮こまった。


 フラヴィニー家の末に生まれた双子の一人、ジョナタンは現在十二歳。

 来年の秋には寄宿学校に入る予定だが、まだまだわんぱくな弟はしょっちゅういたずらをしては、母から叱られた。とはいえ可愛い末息子のこと、父譲りの垂れ目を潤ませると、ついつい手心を加えがちになるのは、母ばかりではない。


 助けを求めるようにこちらを見てくるジョナタンを、エレーヌはジロリと睨みつけてから、クスッと相好を崩した。


「そこは取引よね、ジョニ。面白そうな話を持ってきてくれているなら……アンだって知りたいでしょ?」


 エレーヌに問われて、アンもピクピクと眉を動かして肩をすくめる。

 ジョナタンはすぐさま胸を張って言った。


「そりゃあ、もちろん! 今日やって来るお客様についてさ」

「お客様? お客様がいらっしゃるの?」

「なに、エレーヌ。お客様が来ることも知らないの?」

「知ってるわけないわ。起き抜けにミアがやって来て、お父様から『絶対に今日は部屋から出ないように』って伝言を持って来たの。それから言われた通り、一歩も出てないのよ。まったく……今日で『ブリトリス戦記』の二巻が読み終わりそうだっていうのに、図書室に行けないわ」


 エレーヌの話を聞いて、ジョナタンは少し眉をひそめた。


「あぁ……そうか。そうだね。確かにエレーヌには良くないかもしれない」

「まぁ、何なの? もしかして今日のお客様は、狼男さま御一行なの?」


 エレーヌは冗談めかして言ったのだが、ジョナタンは笑わなかった。むしろ思案顔になってつぶやいた。


「うん……まぁ、それに近いかも」

「まぁ、なんですか。それは」


 アンが怪訝に問いかけると、ジョナタンは神妙な顔でエレーヌに言った。


「ラウル兄様が、国王陛下の護衛に付いているじゃないか。それで陛下が近くの直轄地の視察にいらして、帰りに急遽、ここに立ち寄ることになったらしいんだ」

「えっ?」

「まあぁっ!」


 単純に驚いたエレーヌに比べ、アンの表情は恐怖に強張った。


「まぁ、それこそ狼が来るようなものじゃあございませんか! あぁ、恐ろしい。恐ろしい」


 アンが怯えるのも無理はない。

 二年前に即位した現国王は、王太子の時代には戦場を駆け回り、自ら敵将の首を討ち取るなど凶猛なる性格で知られていたが、継嗣争いによる政変においても同様に、歯向かった者達に対して容赦なかった。

 前国王の王妃とその息子を自らの手で葬り、王妃にくみした貴族家に対しても爵位と領地・財産没収の上斬首、あるいは目を潰して放逐するなど、苛烈な罰を与えた。

 しかも巷間こうかん流布るふする噂においてはそれだけではない。

 前王妃が次王にしようとしていた自らの子 ―― 現王にとっては異母弟であった第三王子の首を自らの剣で刎ね、その首を三日間、玉座の正面に飾り ―――


「その弟王子の首を見ながら、ワインを飲んでいたというのですよ! しかもそのご遺体を火で燃やしたとか。なんと恐ろしい……悪魔のような所業しょぎょうにございます!」


 アンは叫ぶように言って、ブルブルとおののいた。

 ジョナタンも否定せず、今更ながらに自分が持ち込んだ情報が、病弱な姉にとってはあまりよろしくなかったのではないかと、心配そうにエレーヌを見た。


 だがエレーヌはひどく怯えるアンの肩をそっと叩いた。


「そんなに怖がる必要はないわよ、アン。どうせそんなもの、実際のことより尾ひれがついているんだから」

「そうは申しましても、あの残虐王がまだ王太子の時代には、行く先々の戦場でそれはそれは残忍に、敵となれば女子供も容赦なく殺して回ったというじゃありませんか。王太子の行軍の後には、野鼠一匹たりと生きてはいなかったと言いますよ!」

戦場いくさばでのことは、よく知りもせず言うものではないわ。互いに命をかけて戦っていることなのですもの」


 落ち着かせるように言うエレーヌに、アンはじれったそうに首をブンブン振った。


戦場いくさばばかりじゃございません! 王の食事の用意をした女中が、緊張で震えてスープを少しこぼしたからと、給仕の従僕、女中、料理人に至るまで、全員の手を切り落として放逐したとか、どこぞで拾ってきたのかわからぬ下賤の者どもを王宮に召して、何ヶ月も遊興にふけった挙げ句に、やっぱり気に入らないからと全員の耳を切って放逐ほうちくしたと……」

「最終的にはどこかを切って、追い出すのね」


 エレーヌが淡々と話をまとめると、アンは悲鳴まじりに叫んだ。


「落ち着いている場合じゃございません、お嬢様!」

「そうだよ、エレーヌ。父上の言う通り、今日はこの部屋から出ては駄目だよ。下手にあの王に見つかりでもしたら大変だ」


 ジョナタンもアンに同調した。

 彼の聞いた話では、王は舞踏会などで王宮を訪れた令嬢たちに気まぐれに手をつけ、側女そばめにすることもなく、手ひどくのだという。これは彼の友人の姉がその被害者の一人であるので、信憑性のある話だった。


 エレーヌは見た目としては、自分の双子の妹・ロレットのように、パッと目を引くような華やかさはないが、それでもフラヴィニーの美人姉妹の名にたがわず、そこそこに美しい。それこそあの狼のような冷酷非道なる王であれば、ちょいと目についたからと、気まぐれに手を出して捨て去りそうなのだ。そうなればこの姉が生きていられる保証はない……。


 ジョナタンは部屋に入ってきた勢いはどこへやら、おろおろと姉の身を案じた。

 だが一方のエレーヌといえば、のんびりしたものだった。


 王都の屋敷でも、この領地に移り住んでからも、エレーヌはほとんど館の敷地から出たことはなかったが、さすがに二年前に起きた政変については知っていた。まして現国王の側には、エレーヌに対して最も過保護な次兄・ラウルが付き従っているのだから、興味を持たぬはずがない。


 次兄ラウルは月に一度手紙を寄越よこしたが、その文面の端々には王への敬意が見て取れた。

 あの感情豊かで率直な兄が仕えていて、一目置くような方であるならば、ちまたで噂されているような、残虐非道な王というだけではないのだろう……と、エレーヌは考えていた。


「まったくあなた達二人は大袈裟すぎるわ。だいたい、アン。本当に何ヶ月も遊興に耽っておいでなら、今ここに来られるわけもないでしょう。陛下がこちらにおみえになったのは、直轄領の視察なんでしょう? ジョナタン」

「それは……そう聞いてるけど。でも、やっぱり父上がわざわざ伝言を寄越すくらいなんだから、エレーヌはこの部屋から出ちゃ駄目だよ!」

「そうですよ、お嬢様。さすがにあちらは随行の者たちに囲まれて、そうそう出くわすようなことはないでしょうが、お付きの者たちの中に、また以前のような不埒ふらちな輩がいないとも限りません!」


と、アンが言うのは、以前に現伯爵でもある長兄の結婚披露宴をこの屋敷で開いた際に、酔客の一人が戯れめかしてエレーヌに迫り、逃げたエレーヌが胸痛を訴えて倒れる事態になったからだ。


 それからというものこの屋敷においては、外部の人間を招いての宴席が催されることはなくなった。

 母がたまに在郷の顔見知りの貴婦人らを呼んで、こじんまりとしたお茶会を開くことはあっても、決して男性客を呼ぶことはしなかった。


 フラヴィニーの美人姉妹の名は社交界に知れ渡っており、既に結婚している長女や次女、婚約中の三女の美しさを知っている者は、それこそ適齢期を迎えたエレーヌについて興味津々であったのだろう。まして病弱なる深窓のご令嬢と聞けば、手柄とばかりにそのかんばせを見ようとする輩がいてもおかしくない。


 事実、王都の兄伯爵の元には、一月ひとつきに一度はエレーヌとの婚姻を申し込む手紙が舞い込んでいたのだが、兄は父からの意向もあって、すべて断っていた。

 いわく『妹は羸弱るいじゃくなる身体ゆえ、婚家での新たな環境において体調を崩す可能性もあり、なにより世継ぎを望める体ではない』と。

 これはエレーヌ自身も納得していることで、彼女はもう早くから自分がこの領地において、両親と兄夫婦の庇護の下、いずれ生を終えることを覚悟していた。


「まぁ、私も追い回されるのは御免よ。だからちゃんと、お父様のお言いつけは守るわ。ジョニがお客様にお出しするパイ一切れと、『ブリトリス戦記』の三巻を運んできてくれたら」

「もちろん」


 ジョナタンは了承し、来たときと同じ勢いで部屋を出て行った。


「アンも、みんな忙しいだろうから早く戻って」


 エレーヌに送り出されて、アンも後ろ髪引かれるように出て行く。扉を閉じる前に、もう一度念押しされた。


「エレーヌお嬢様、本当に見つからないようにしてくださいましよ!」

「こんな屋敷の隅っこの部屋に国王陛下がおみえになるわけないでしょう? いいから、早くお行きなさい」


 エレーヌは心配性のメイドを送り出してから、「さて」と軽く一息ついた。


「ひとまず『ブリトリス戦記』を読んでしまおうかしらね。ジョナタンがパイと一緒に新しい噂話を持ってくるまで」

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