青に生く

 今なら広い宇宙の中で、彼女というたったひとりに出逢えた奇跡を、素直に喜べる気がした。僕は彼女に出逢って、変わったのだろうか。それを認めてしまうのは何だか気が引けたけれど、きっと、多分、そうなのだろう。彼女といると、自分の奥底に潜んでいた本当の気持ちや疑問を、少しずつ浮き彫りにされていくような感覚がして。それが、心地良かったんだ。


 初めて出逢ったあの時から、数ヶ月が巡り。幾度も幾度も、僕たちは美術室で筆を持ちながら、宇宙の話ばかりしていた。彼女はそんな僕たちのことを、まるで天文部みたいだねって、笑いながら言った。確かに、その通りだと思った。


 そんな時間を過ごすうち、僕は、ありさのことが好きなのだと気付いた。

 彼女のことを想う度、胸の奥で光る星のきらめき。変わってしまった今の僕には、そのやわらかな感情を簡単に捨てることなんて、できるはずもなく。星のように遠い恋だけれど、その淡い光を、眩さを、抱きしめて生きていかなければならないのだと悟った。



 ◇



 夏の夜、雲ひとつない快晴。

 あと少し耐えれば夏休みという、焦れったい七月の日。横たわる銀河の存在を心で受け、長い時をかけて染み込んだ淀みが、ゆっくりと浄化されていくような感覚だった。

「ありさが星を描く背中が、宇宙人と交信しているみたいに見える」

「何それ」

 はにかんだ彼女の声が耳に届き、心がくすぐられるような心地がした。

「どこか遠くの星の住人と、テレパシーで何かを伝えあっている、みたいな」

「私、そんなことできないけど」

 夏の夜にしては冷たい風が頬を撫で、さらさらと優しい肌触りで過ぎていく。

「でも、」

「そんなこと。できたら、いいよね」

 理想を語る彼女の姿は、初めて見たような気がする。僕の目に映る彼女はいつも、どこか諦めたような声色で物言っているような印象だったから。

「そういえ、ば」

 沈黙が訪れてしまうのがなんとなく嫌だったので、後先考えず口を開いてみる。

「ん、」

「ありさの絵って、本当に青で溢れてるよね。その筆の魔法で、世界を青藍に染め上げてるみたいだ。……本当に、綺麗だと思う」

 率直な思いを告げるのに慣れていないので、どことなくぎこちない口調になってしまう。思い返してみれば、僕は両親にさえ、強く意見したことがなかった。僕のつまらなく短い人生の中で、間違いなく一番の変革が訪れている、と思った。それが、他でもない彼女がくれたものだということも、しっかりと認識していた。こんなにも痛い、青臭い台詞を放っても、彼女はそれを、馬鹿にすることなく受け入れてくれるだろう。

「私はね、美しいものが好きなの。知ってるでしょう」

 彼女の綺麗な声色に合わせ、こくりと頷く。

「私の見出す美しさは、全部青の中に在った。秘められてるような感じがするんだ。空も海も宇宙も、全部青でできてる。夜空の中に薄っすら見える、黒みがかった青も好き。青は、愛なんだよ」

 青は、愛なんだよ。

 その言葉が胸の内に滑り込んでいき、小さな水たまりを作っていく。

「青いものが変わらずに愛として存在しているのに、誰ひとり言葉にすることもできないから、偽物って言われてるんだ」

 キャンバスに広がった青を睨んで、彼女はきっぱりと言う。

 僕は彼女が放った、その言葉の意味を、ひとかけらも飲み込めないままでいた。

「そんな地球に星が降ってすべてが終わっても、青いのならばそれは愛なのに」

 世界の不条理を嘆くような、悲痛な叫びだった。

 彼女の心はどこまでも深く、常人には踏み入れられない領域まで達している。

 彼女がその優しさを、持ち前の明るさを、いくら振り撒いても、心の奥にしっかりと存在している、暗闇のような深さ。

 哀しみの色を纏う、やり切れなさと切なさが混ざり合った夜のような。

 そんな深淵の存在に気付いてしまうくらいには、彼女のことを見ていたから。

「世界が決めたことなら、全部愛なんだよ」

 その深淵の深くから顔を覗かせた、哀しみで形づくられた言葉。僕は、言葉ひとつ口に出せず、ただそれを聴いていた。

「ねぇ、景くん。あの星が、落ちたらどうなると思う?」

「どうなる、って」

 疑問の眼差しで、僕は彼女を見つめるしかなかった。

「ねぇ、どうなると思う?」

 繰り返し尋ねてくる彼女の意図をつかめず、当たり障りのない言葉を発する。

「別に、僕たちに変えられることはないんだから、どうするも何もないんじゃないかな」

「そうだね」

「自然の条理のまま生きるのが、一番だよね、やっぱり。そもそも、私たちがここに生きているのってどうしてなんだろうね。景くんは、そういうこと思ったりしないの?」

「え、いや。たまに、ある、けど」

 本当はそんなこと、息を吸うごとに思っているけれど。いくらいい加減に日常を過ごしたって消えることのない、永遠の生への疑問。

「私ね、ずっと思ってるの。自分がここに生きていることが、不思議でならない。生きるか死ぬか、変えられない定めがあるのだとしたら、そんな問い、何の意味も為さないけどね」

 あぁ、やっぱり、彼女は、そういう人だ。

「でも、世界が決めたことは全部愛で、全部美しいんだから」

 そうだね、と返事をする間もなく、彼女はきっぱりと言った。

 彼女の中に光る芯のきらめきが、いつもより一段と増して目に映る。

「美しいのならば、なんだっていいよ」

「終わりを美しいと思うのは、本当に良いことなのかな」

「私は、良いと思うよ。間違ってなんか、いないと思う。美しいと思う心は、何にだって代えられない、素晴らしい感情だよ」

「そうなの、かな」

 彼女の意見に賛成の声を上げることができず、ぽつりと言葉を零す。

 もし僕が、大地の緑を失い、跡形もないくらいに滅びた地球を見たとして。廃材に塗れた哀しみの星の上で、何を思い、何を感じるのだろう。彼女の言うように、心から素直に、それを美しいと思えるのだろうか。

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