青藍の蠍


 窓の外、暮れ始めた夕が染め、もうすぐ夜が訪れるだろう。彼女の瞳がスクリーンとなって映し出されるのは、酷く綺麗な夜という魔法。

 キャンバスに向かって筆を動かし続ける彼女の横で、僕は白紙にエスキースを描いていた。

 構図決めという名の、暇つぶしだ。何かに情熱を注ぐ気力などない僕には、それくらいが丁度いい。

 それにしても。今の状況に一番びっくりしているのは、他でもない僕自身だ。放課後の美術室に女子と二人きり、という信じられないシチュエーション。ふと我に返ってみると、なんだか寒気がした。

そっちから誘ってきたくせ、抜け出せないほど深く自分の世界に入り込んでしまった彼女。

 途轍もない集中力だ。その強い眼差しは、外界と自分を薄い膜で覆い、遮断しているように思えた。

 美術室特有のつんとした匂いが鼻をつき、身体の内側に絵の具が染み付いていくような感覚が抜けない。そこに流れる静かな空気を打ち破ったのは、彼女の方だった。

「ねぇ、窓の向こうの星まで、どれだけあれば辿り着くかな」

「え」

 刹那。彼女の横顔に、哀しみの色が滲んだのが分かった。もしかすると、共感を得られない僕への嫌悪だろうか。

「ごめん、なんでもない。独り言」

 そう零して、また絵に向き直る彼女。

 彼女の口から聞こえた感傷的な台詞に、僕は困惑していた。

 ――窓の向こうの星まで、どれだけあれば辿り着くかな。

 その言葉を脳内再生させ、反芻する。

 彼女の手元、青に塗れたパレット。

 橙色に暮れかけた空は、藍色へと続く淡いグラデーションを作っていた。

「そんな絵を描ける貴女なら、手なんてすぐ届くんじゃないかな」

 色彩の中を突き進むように生きる彼女は、意外にもロマンチックなのかもしれない。


「あ、そうだ。景くん、誕生日いつ?」

「え、11月5日だけど」

 突然の問いかけに対して戸惑いながらも答えると、彼女は途端に晴れやかな表情を見せた。

「あ、さそり座じゃん。一緒だ!」

 嬉しそうに声をあげるので、思わず僕も微笑を浮かべる。

「じゃあ、この絵に描いてるの、何だかわかる?」

「え。さ、さそり?」

「そう」

 にこりと笑った彼女は立ち上がり、夜空を撫でるように手を伸ばした。

 招かれるままにキャンバスの前へ向かって見せられたのは、どこまでも鮮烈な群青世界。そして、薄く描かれた星座の形、白く光る蠍の原型。

 遠くから目にしただけでは分からなかった、あまりに細やかな描き込みに見入ってしまう。

 怖いくらいの上手さに、賞賛の言葉をかけることもできない。

「この心臓の部分、赤い恒星がアンタレス。アンタレスには、『火星に対抗するもの』っていう意味があるの。火星とアンタレスが、どっちが赤いか競い合ってるみたいだ、って。そして、このしっぽのところ、蠍の針の部分がシャウラ」

 へぇ、と相槌を打ちながら、彼女の熱い説明を聞く。

「今ね、この蠍の針、シャウラをテーマにした絵を描いてるの。今はまだ下地部分で、全然途中だけどね」

 彼女とはつい昨日知り合ったばかりだが、その絵が完成する一瞬まで、隣で過程を見ていたいと思った。

「いつも星の絵を、描いてるの?」

「うん。私、夜が好きなんだ」

 昨日彼女に出逢った時、夜のような空気を纏った人だ、と感じたのを思い出した。

「あのね」

「人間という自分の存在が、街の電気と共に、一斉に消灯されるような感じがするの。暗闇の中に溶けていくみたいな、そんな感覚がして。だから、くだらない人間の命の代わりに光る、星も好き」

 世界がつくる黒い影を見つめ、それに対抗するような物言いで、そう一気に吐露した彼女。

 あぁ、もしかして、この人は。

 心の奥底、誰にも覗かれない領域に抱える孤独を、理解できる人なのかもしれない。

 そう思った途端。彼女の、自分の中での位置付けが、大きく変わった気がした。

 哀しみという、ひとりひとり異なって共有することのできない、いくつもの破片の数々。そこかしこに散らばったそれを、たった数秒掠めるだけでも、誰かと通いあわせることのできる瞬間を、僕はずっと、密かに待っていた。

「あぁ、それは。なんだか、分かる気がする。日中、休むことなく忙しなく動いていた自分のブレーカーを、そっと落とされるみたいな感じ」

「そう、そうなの。よく分かってるね」

 彼女はきっと、『語る』ことを歓迎してくれる人だ。さっきの一文で、それが分かった。

 彼女なら、繊細な心のうつろいを言語化してそのまま伝えても、笑うことはせず受け止めてくれるのだろう。

 例えば感情とか、そういうものに宿る尊い美しさを、分かち合える人だ。

「私さ、夜空の絵を描いている時しか、筆を持っている時しか、生きている感じがしないの。どうすればいいんだろうね。それ以外の瞬間は全部、惰性で過ごしてる」

 彼女は寂しさを振り切ったように、自嘲しながらそう言った。


 最終下校時刻が迫ってきたので、鍵をかけて外に出る。ぽつぽつと言葉を交わしながら、駅までの道をふたりで歩んでいく。毎日ひとりで登下校している僕には、今の状況がなんだか新鮮に思えた。

「あのさ。蠍座は、いつになったら見られるの?」

 星に詳しい彼女にしていい問いなのかは分からないが、あいにく僕は地学に疎い。

 星とか宇宙とか、素敵だとは思うけれど、理系科目はさっぱりなのだ。

「夏になったら、南の空に現れるはずだよ」

 曇りのない未来を、心の底から楽しみにしているような声の旋律だった。

 眩しすぎるその横顔を、暗闇から覗く犯罪者みたいな気持ちで見つめる。

 あっちから誘われたとはいえ、冷静に考えると、こんな何の取り柄もない僕が、彼女と話しているのは不相応だと思った。

「夏休み、一緒に見よう」

 彼女の頭の中、その夏の未来に僕が存在しているという事実。それが、ただただ不思議に思えてならなかった。

 小さくこくりと頷くと、彼女は僕の心象を包みこむように微笑む。

「夏休みって、夜まで学校開いてるのかな。夕方とかで閉められちゃう気がするんだけど」

「あの先生のことだから、きっと大丈夫。問答無用でオッケーだよ」

「そう、かもしれないね」

 入部届を提出した時以来会っていない先生のことを思ったら、なぜだか不思議と笑みが溢れた。

「あのね、私」

 ん、と息を漏らすと、彼女はわずかに声を震わせた。

「今日さ、部室で一緒に話してて。私が一方的に変なこと、語っちゃって。でも景くん、嫌な顔ひとつしなかったよね」

「え?いや、それはまぁ、共感できることがあったし」

「こんな深みのある話を人と交わしたの、初めてかもしれない」

 心底嬉しそうな彼女の言葉に、僕は思わず目を瞑った。

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