花
ある日の放課後。
担任の先生にプリントを届ける用事があったため、私は職員室を訪れていた。
「あ、川上さん。ちょっといい?」
ドアを閉め教室に帰ろうとした瞬間、隣の印刷室から出てきた遠野先生に声をかけられた。私が小さく返事をすると、先生はちょっと待ってて、とこぼして職員室へ入っていく。もしかして私、何か悪いことでもしていただろうか。一分ほどその場に立ち尽くしていると、先生はどこかやわらかな雰囲気を醸して戻ってきた。
「あのね、これ。この前提出してくれた、和歌の感想文。この文章、とってもよかった。いくつもの感情が重なり合ってて、私すごく感動した。現代文の浅井先生も褒めてたのよ」
あまりに思いがけない言葉。咄嗟に声を出すことができず、僅かな空白がそこに流れた。
「えっ、あっ、有難うございます」
詰まりながらもそう伝えると、先生は桃色の唇を静かに動かして微笑む。
「それに、川上さん」
「あ、はい」
「下の名前、和花っていうんだね。とっても素敵」
え、と呟く間もなかった。授業を持ってもらってまだ数カ月しか経っていないのに、下の名前まで覚えてくれていたという事実。突然の嬉しい言葉の連続に、私の身体は硬直していた。
「じゃあ、また明日」
そう言い残して背中を向け、ドアの向こうに消えていく先生の姿。雅な香りがまだ辺りに漂っていて、なんだか胸が苦しくなった。
「え、」
心が激しく波打っていたのだ。感じたことのない感情が、私を侵食し始めていた。
空いた心のページをめくって、この数ヶ月を思い返していく。
そこには、いつも先生の笑顔があった。教壇に立って小さく微笑み、優しく、すこし寂しげに揺れる先生の瞳。あぁ、これは、きっと、そういう感情なのだろう。叶わないと、その事実を知っているからだろうか。失恋した直後の胸の痛みは、きっとこんな味がするのだろうと思った。
家に帰っても、次の日の朝になっても、また夜がやってきても。幾度も日が巡ったって私の胸の内は、先生のことでいっぱいだった。こんな感情、はやく忘れるだろうと、そう思っていたのに。
私は、女性を好きになるのか。私の好きな人は教師で、その上女性で。これ以上ないほどのマイノリティ。教師と生徒の恋が実る確率なんてほぼゼロに等しいのに、それに同性なんて。あまりに現実味のない恋愛に、なんだか自分でも笑えてしまう。
いつまで経っても交わることのない、平行線。私の一方的な片思いのまま、この恋はいつか終わるだろう。そう、思っていたのに。胸に一度撒かれてしまった種は、独りでに育って大きくなっていく。期待なんかするだけ無駄なのに、勝手に一喜一憂して、見えない傷をつくるばかりで。
でも、先生は。
つまらない道を歩く私の前に、はらりと降ってきた、一枚の花びらだったのだ。
先生にとっては私なんて、一生徒にすぎないのに。
遠野先生。貴女はどうしてそんなに、麗しさを纏っているのですか。
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