いつか羽ばたく
いつから、だろうか。
知らず知らずのうちにわたしを蝕んだ灰色の不安が、靄となって心を覆っていった。
わたしはただ、遠い空を、移りゆく雲を、見つめていたかっただけなのに。
どこか遠くの知らない街で、風に吹かれて本を読んでいたかっただけなのに。
痛みの満ちた現実を直視しないと生きることもできないなんて、そんなのわたし、もう耐えられないよ。
人と同じように現実世界に身を置いているだけなのに、心は削れていく一方で。
愛想笑いが上手くなるほど、心に落ちる影は、黒く濃くなって。
それだけ。たったそれだけなのに、勝手に自分を殺して泣いて。
擦り減らした自分いう存在と、眩しすぎる外界を、繋ぎとめておくことができなくて。
彩度の失った日々に、だんだんと価値を見出せなくなっていって。
次第に憂いに蝕まれた心は、もう、凍ったように動かなくて。
「生きるのがどうしようもなく怖くなって、そんな自分にも嫌気が差した」
「うん」
「だからといって、全てを手放す勇気もなかった」
「うん」
「明日へと思考を巡らせるだけで、足が竦んだ」
「うん」
わたしの呼吸を追い越すように放たれていく言葉に、ただただ頷くことしかできない。それでも絶えず伝い続ける涙は、枯れるという事象を知らないようだった。
「朝なんて来なければいいのにって、そんなこと。何度思ったか分からないよ」
世界の遠くを見つめていると、せき止めていたはずの哀しみがほろりと零れ落ちた。
ゆっくりと顔を上げた先の天使は、依然として美しい容貌でそこに存在している。
「僕の背中の白い羽は、涙が固まった塩でできてるんだ」
音にならない驚きが息となって漏れるが、その言葉の意味を飲み込めないまま上を向く。
彼の背中にのびる羽の、そのこまやかな白を見つめた。
「哀しみを振り切った現世の人の、限りある涙は塩になるんだ。この白い結晶は、流れる涙だったから。枕を濡らした一夜の水は、うつくしい結晶となって、真白に形づくられていく」
「ねぇ、知ってる?きみのその背中にも、羽が生えていること。越えた夜の数の分、固まった塩でできた、目には見えない羽が」
わたしの視線を汲みとった天使は僅かな間をあけ、微笑をたたえながらそう応えた。
「涙は、優しい海になるから。溢れた想いの、うつくしい代償だよ」
言葉が出なかった。
断続する水の音を受け、空気と触れ合うだけのわたしに、天使は沈黙のやさしさを返してくれる。彼の背中に滲む黎明の空が、一段と明るく光っていた。
涙はやがて、塩になる。いつか、背中にのびる羽になる。
彼がくれた言葉は、夢のようで、空言のようで、
でも、きっと、
そうなのだと思った。
「 」
あぁ、この水も、いつかは羽になるのだろう。
頬を伝う浅葱色のそれが、晴れやかな空気に冷やされていく。
鏡のような水面に映る世界が、一段ときらめいて目に映る。
このまま儚い夢が覚めて、本当の朝が、訪れてしまったら。わたしは、わたしのまま、生きていけるのだろうか。変わり映えのない日々、一歩先も見えない延長線上。街灯ひとつない寂しい道を、ひとりで流離い歩く日々なんて、もう歩きたくなかった。
未来を信じるなんて、そんな大層なこと、わたしにできるかわからない。
わからない、わからないよ。
「怖いと、思う。苦しいと、思う。それでも。きみの背中には、もう羽が生えているから」
「それだけを、ただ憶えていて」
「涙した夜の分だけ強くなるなんて、そんな単純なことじゃないのかもしれないね。それでも。泣きはらした夜を抱きしめて、捨てたい過去を愛して、進んでいくんだ」
遠くに映るのは、紛れもなく美しい朝の情景で。まるで絵に描いたような、晴れやかな一日の始まりで。
「朝はもう、すぐそこまで来てる」
空気が白んで目が覚めて、本当の朝が訪れて。
願わずとも日はのぼってゆき、新しい一日が始まってしまう。
でも、この夢は、とこしえのものじゃない。
わたしのいるべき世界は、ここではないから。
「そう、だね」
目蓋を伏せると同時に、今日この夢の、終わりを悟った。
胸の奥の傷、癒えない部分が、静かに軋むような感覚。
でも、それでも、生きていけると思った。
◇
窓の外に広がる天色の空に目を向け、細かに揺れる新緑を眺める。
明けた夜にやわらかな微笑みをこぼし、まだ胸に残る温もりを思い出す。目蓋をこすって欠伸をひとつ、早朝の空気を肺に取り込む。涙で冷えた頬をさすり、きらめく夢と海を、ただ想う。
抜けるような青空に手をのばしたら、どこへでも行ける、そんな気がした。
波打つ憂いが翼になるまで 夜賀千速 @ChihayaYoruga39
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます