第60話 【二〇一八年 二月十三日】
十何年と眠っていた気がする。
何の音に邪魔されることもなく、誰かに蹴られるようなこともなく、僕は、砂浜に流れ着いたボトルメールのように、ひっそりと目を覚ましていた。
部屋の中は、すっかり明るくなっていた。目を動かして見ると、カーテンの隙間から光が差し込んでいた。
台風が過ぎ去った後の空のような、爽やかな気分。でも、鼻を突くかび臭さは相変わらず。
「………」
僕の腕が、皆月の上着を抱きしめていたのだが、その胸の辺りは、口から溢れた唾液でずるずるに汚れていた。
不味いことをしてしまったな…と思った僕は、慌てて口を離す。唾液が糸を引いて、到底誤魔化せるとは思えないほどの汚れだった。
「ああ…」
とりあえず、洗濯するか…。
そう思った瞬間、後頭部を軽く小突かれた。
「この変態」
振り返ると、椅子に皆月が腰を掛けて僕を見下ろしていた。どうやら、殴られたのではなく、蹴られたらしい。彼女の黒いパンツが見えた。
ずっと僕に上着をとられていた彼女は、仕返しと言わんばかり、ポロシャツの上から、僕が愛用しているコートを羽織っていた。
「早く返してよ。寒かったんだから」
「…ああ、ごめん。でも…」
僕は涎のついた上着を、背中に隠した。
「汚れてるから、弁償するよ…」
「ダメ。新しいの買われたら、古いのはどうなるのよ。あんたの手に入るなんて御免だね。絶対変なことに使われる」
皆月はそう言うと椅子から降り、僕から上着をひったくった。
「ああもう、きたな…。洗濯機借りるよ。電気代水道代、洗剤代、負担してよね」
「それはもちろん…」
「ったく、人の上着を抱きしめて寝て、何があるっての」
皆月はぶつぶつ呟きながら、洗濯機が置いてあるベランダに歩いていく。
彼女の上着に対して酷いことをしてしまったことは認めるとして、そういう性的思考を持っている…という誤解は解くべく、僕は言った。
「落ち着いたんだよ…」
その言葉に、クレセント錠に指を掛けていた皆月が固まった。
僕は続けて言った。
「君の匂いがついてて、少し、ほっとしたんだ…」
「ああそう。きもいね」
皆月は僕の方を振り返らずに言うと、ガラス戸を開け、ベランダへと出て行った。
彼女から放たれた言葉が、僕の胸に突き刺さり、ぶらぶらと揺れていた。
まあ、そうだよな…。と思うと、僕はまた、布団の上に横になる。
「ほら、さっさと起きてよ」
戻ってきた皆月が、僕の背中を蹴った。
僕は布団を引き寄せると、巻き付けた。
「ごめん。今日は過去の復元に行く気力ないから…。お腹空いたなら、僕の財布から…」
「馬鹿じゃない? 今日は休みなんだけど?」
そう言われて、頭蓋骨の裏に痺れるような感覚が走った。
布団をはぐって、振り返る。
「ああ、そうか、今日は休みか」
皆月は、「今日だけは働かない」と言って、うちに来ない日。
すぐに苦笑が洩れる。
「いや…、だったらなおさらだ。皆月、お前僕に構わず、帰れよ」
「だから、別に過去の復元に行くって言ってないでしょう? 宣言通り、今日は絶対に働かない日だから」
皆月の言っていることがわからず、僕は眉間に皺を寄せて首を傾げた。
「お前、さっきから何言ってるんだ…?」
「馬鹿じゃない?」
皆月はじれったそうに言うと、細脚を振り上げ、僕の腹の辺りを蹴った。
全く、痛くなかった。
「気分転換にお出かけでもしようって、言ってんの」
「………は?」
皆月の口から放たれた言葉が鼓膜を揺らした途端、僕は固まり、その意味を理解するのに、十数秒を要していた。
半開きになった窓から冷たい風が吹き込み、カーテンを揺らしている。
差し込む澄んだ光を背に、皆月は腕を組んで、ふんっと鼻息を吐いた。
再起動した僕は、ぼんやりと頷いた。
「うん、行こうか」
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