第四章【キスの6番 惰眠に5番】
第61話
ジーパンとセーターを引っ張り出して着た。
横から手が伸びてきて、襟を整えてくれた。
「皆月、一晩中、部屋に居てくれたのか?」
「まさか、お腹空いたからコンビニに行ったし。あんたの財布、借りたよ?」
「それでも、目が覚めるまで、一緒に居てくれたんだな…」
「まあ、そりゃあね。うん」
淡々と事実を並べられたことに、皆月は少し歯切れが悪くなって頷いた。
「あの場で、ぼろぼろになったあんたを放って帰るのも、なんか、薄情でしょ」
「…そうかな」
「私は優しいの」
なぞる様に言い、悪戯っぽく笑った彼女は、僕の額を小突いた。
「大丈夫だよ。暇はしてなかった。アサちゃんの過去を読んでたからね」
「アサの、過去?」
東条健斗のせいですっかり忘れていたが、そう言えば皆月は、倒れたアサを介抱するふりをして、ビタースイートに彼女の過去を抽出していたんだっけ?
思わず目を逸らした僕を見て、皆月は鼻で笑った。
「聞きたい? アサちゃんが初めてエッチした日」
胸がチクリとする。
「いや、そんなの要らないよ」
「じゃあ、なんでアサちゃんに嫌われたのか、知りたい?」
「…………」
三秒の沈黙。
「簡潔に頼む」
「あの手紙に書かれていたことは事実だった。でも、それが原因で、アサちゃんは高校で虐められるようになった。それで、愛情は恨みに変わった」
簡潔に説明した皆月は、してやったり顔で肩を竦める。
「恋は盲目ってやつだね。アサちゃんは、確かにナナシさんのことが好きだったみたいだけど、大人になって頭が冷えた時に、それは単なる『介護』のようなものだったって、気づいたの。いや、本当に好きだったのは、弱者に優しくする自分…」
「わかったよ」
胃を鷲掴みにされているような感覚に、僕はうんざりしながら首を横に振った。
「もういい。わかった」
だが、皆月は喋るのを止めなかった。
「良かったじゃん。あの手紙に書かれていたこと、蘇ったナナシさんの記憶は確かなものだったんだ。綺麗な思い出だった」
首を横に振る。
「まあ、最悪な思い出に変わっちゃったけどね」
「もういいよ。恋は盲目なんだろ? 僕も、今、目が覚めたよ。愛情も憎しみに変わったところさ。そもそも、僕には身分不相応の恋だった」
脳裏にちらつくアサの面影に、乾いたため息をついた。
「せめてもの復讐に、あいつの初夜でも聞いておくかな…」
「馬鹿ね」
皆月は僕のお尻を叩いた。
「言うわけがないでしょう? そんな個人情報」
「冗談だよ」
僕が惨めに生きている裏側で、彼女が誰かに抱かれて喘いでいるところなんて想像したくもない。
「もういい。出かけるんだろう? 早く行こう」
「ああ、そうだったね」
皆月は気を取り直して、出かける支度を始めた。
皆月の上着は乾かなかったので、仕方なく、僕のコートを貸した。背丈が合わなくて、あまりに似合っているとは言えなかった。
代わりに、僕はウインドブレーカーを羽織る。
そうして支度を終えた僕たちは、北風が吹く外へと出て行った。
少し歩いたところにある駅から電車に乗り込むと、隣町へと向かう。二十分ほどで到着し、駅舎を出ると、二車線の大通りを歩いていった。
真冬の昼下がり。太陽がぽかぽかと照って、歩いているだけで眠気が足首に纏わりついてくるようだった。
「気持ちが良いな」
僕は痒くなった頬を掻きながらそう言ったが、皆月は反応しなかった。
歩いた先に、ショッピングモールがあった。
「ここに入るよ」
皆月が僕の手を引き、そう言う。
「ああ、うん。わかった」
ショッピングモールか…。人が多くて嫌だなあ…。
そう思ったのだが、いざ自動ドアを潜り入ると、そんなことはなかった。
だだっ広い通路には、人一人歩いておらず、天井のスピーカーから、最近流行りの曲がやけに虚しく響いている。平日の昼間だったらこんなものだろうか? 見渡すと、ぽつぽつと、「テナント募集」と掲げられた店の成れの果てが確認できた。床も、大して掃除されていないのか靴墨塗れで、所々のタイルがひび割れていた。
あまり流行っていないショッピングモールなのか。
「一年前に、少し離れた場所に、新しいショッピングモールができたの。ここよりもずっと広くて、綺麗なところ」
僕の心を読んだかのように、皆月が言った。
「どんどんお客さんが減って、今はもう虫の息。近所の主婦らが食品館に買いに来るくらいかな? オシャレなお店は消えて、百均とか、ババ臭い婦人服売り場しかもう残ってない…」
「そんなところに、何か用があるのか?」
人が少ない…と聞いて、なんだか息が楽になった僕は、皆月の背中を追って聞いた。
「映画があるの」
エスカレーターのステップに踏み入れながら言う。
「二階にね、映画館があるんだ」
「映画…、映画ね」
そうか、映画か。映画だったら、ずっとスクリーンの方を見ていればいいだけだな。
くだらない心労をする必要が無いことに、僕はまたもや、安堵の息を吐いた。
「わかった、見よう」
何の映画を見るの? とは聞かず、僕は皆月の背を追った。
エスカレーターから降りると、ガチャガチャのマシンが三台ほど置かれているスペースの前を横切り、広いとは言えない通路を進んだ後、映画館へと辿り着く。その重厚な扉を押して開けて、中に踏み入れた。
予想していたことだったが、エントランスに人はいなかった。いやまあ、奥にあるポップコーン売り場に立っているのだが、あれは店員。辺りにはエアコンによる乾いた空気が充満している。壁際に大きなモニターが設置されて、新作映画の予告を流していたのだが、一体誰の購買意欲を刺激しているのだろう。
皆月が歩きだす。彼女が向かったのは、券売機ではなくポップコーン売り場だった。
「おい、皆月、まずはチケットを…」
呼び止めようとしたが、もう遠く離れていたので、小走りにその背中を追った。
微かな点滅を繰り返すネオンに照らされ、ポップコーン売り場は今日も営業をしていた。カウンターの前に立っているのは、三十代くらいの女性で、彼女は暇そうに欠伸をかみ殺していた。
「こんにちは、吉岡さん」
吉岡さん…と呼ばれて、女性が皆月に気づく。
目に浮かんだ涙を拭うと、カウンターに手をつき、微笑んだ。
「舞子ちゃん、こんにちは。今日も来てくれたんだね」
「うん。暇だからね」
「うちも暇してたから、ほんと助かるよ」
「昨日もずっと勉強してたの?」
「うん、まあ、そんな感じかな? 眠れなくたって、どうせここで眠ればいいだけだし」
「そうだね。多分、私が映画見ている間はお客さん来ないだろうから、ゆっくり休むと良いよ」
「そうする」
そんなふうに、二人は笑いながら言葉を交わしていた。
吉岡さん…という店員は、目の下に隈が合って、髪もぼさぼさだけど、整った顔をしている女性だった。声もハスキーで、聞いているだけで落ち着く。何より、ひねくれ者の皆月がここまで心を許すんだ。きっと、良い人なんだろうな…と思った。
「おや…」
そこで初めて、吉岡さんの充血した目が僕を見た。
「舞子ちゃん、この子は?」
「私の連れ」
皆月はそう言うと、身体をずらし、僕の姿が見えるようにした。
「いろいろあって傷ついているから、連れてきたの」
「あらそう」
何を想像したのか、吉岡さんは目を三日月のように歪め、笑みの含んだ声で言った。
「舞子ちゃんもそういう歳か…。娘の成長を見守っているようで、お姉さん嬉しいよ」
「そういうのじゃないから」
皆月は呆れたように言って、ポケットから二千五百円を取り出し、カウンターに置いた。
「チケット二枚分、お願いね」
「はいはい」
吉岡さんは五百円を摘まむと、皆月に渡した。
「五百円多いよ。これお釣りね」
「いや、ナナシさんは…」
「良い子の舞子ちゃんが、大人の彼氏を作るわけないでしょう? というわけで、彼も高校生ってことで…」
「ああ…」
皆月はばつの悪そうな顔をしながらも、吉岡さんから五百円を受け取る。
にこっ笑い、皆月の頭を撫でた吉岡さんは、踵を返し、ポップコーンマシーンの蓋を開けた。
「キャラメル切れてるから、塩で。あと、飲み物もコーラしかないけど」
「うん、それでいいよ」
「よし来た」
吉岡さんは慣れた手つきでカップにポップコーンを入れ、それから、横のドリンクバーからコーラを注いだ。
ホルダーに入ったポップコーンとコーラが、二人分、カウンターに置かれる。
「じゃあ、楽しんで。ああ、一応、二人は学生なんだから、六番には入っちゃだめだよ。大人がドキドキする奴流してるから」
「わかってるよ。ありがとね」
吉岡さんに礼を言った皆月は、ホルダーを手に取り、一つを僕に渡した。
「じゃあ、行くよ」
「ああ、うん」
チケットの確認もせずスクリーンの方へと歩いていく皆月を、僕は若干の罪悪感を覚えながら追った。
「おい、僕ら、チケット分しか払ってないけど…。それに、何の映画を見るかも決めてない…」
いやそもそも、一人千円って、高校生料金じゃないか。
すると、皆月は首だけで振り返り、歯を見せると、「しー…」と慎むような仕草をした。
「わかった?」
まるで子供に言い聞かせるように言った彼女は、また、歩き出す。
「このショッピングモールも、映画館も、もう息は長くないの。もう裏では取り壊しの手続きが進められてるって…」
「まあ、そうだろうけど…」
僕は掃除の行き届いていない床や、剥がれた壁紙を見ながら頷いた。
「だからこそ、ほんの少しでも、売り上げを伸ばすべきじゃ…」
「今更頑張ったって、もう売り上げは伸びない。ポップコーン一つ売ったところで、潰れるのが十分延びるかどうかの違いなんだってさ」
「それでも、心苦しいな…」
どうやら僕には「貰えるものは病気以外何でも貰っておけ」という精神が無いらしい。
「それに、吉岡さんはバイトだから、この映画館が潰れようがどうか、知ったこっちゃないの」
「ああ…」
まあ確かに、こういうところに勤めている人なんてバイトに限るか。
本当に楽な仕事だろうな。
「君が女子高生に見えるかどうかも、彼女の裁量か」
「いいや、あの人は私が女子高生だと思ってるよ」
「いや、嘘だろ?」
ポップコーンを無料で貰った挙句、年齢を偽るのは流石に幻滅するぞ。
「うん、嘘」
と思えば、皆月はいつもの返しをしてくれた。
「お互い、そういう設定でやってるの。その約束を壊すようなことは絶対にしない」
そう得意げに言った彼女は、スカートの裾を摘まみ、軽く持ち上げた。
「言ったでしょう? この服装の方が、都合が良いって」
「そういうことか」
胸に詰まったものが抜けたような気がして、僕は笑った。
「その設定を守るために、わざわざコスプレ衣装を買ったわけだな」
「ああ、いや…、それは…」
皆月は言い淀んだ後、こくりと頷いた。
「まあ、そんな感じ。通販で注文したの」
「へえ」
一瞬、皆月の歯切れが悪くなったのが気になりはしたが、深くは考えなかった。
「それで、何の映画を見るの?」
「さあ?」
彼女は肩を竦めた。
「勘で、スクリーンを決めて入るの。途中でも構わない。面白そうだったら、続けて見る。面白くなかったら、別のスクリーンに移動する。見終わったら、また再上映が始まるから、それを待つか…、別のスクリーンに移動するか…。たまーに、吉岡さんがサボってやって来て、一緒に見たりもする…」
歩いて行った彼女は、「3」の数字が書かれた扉の前で立ち止まった。
僕の方を振り返ると、にこっと笑う。
「そうして、一日が終わるのを待つの」
「なんだそりゃ」
僕は脱力して笑うと、皆月の方に歩いて行った。
何の迷いも無く、扉に手を掛ける。
「君も十分、変わってるよな」
「変わってなきゃ、姓名変更師なんてやってられないから」
扉を開けると、銃声が聴こえた。
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