第58話
皆月はそう言って、風呂場へと入っていった。
バタン…と閉じる木の扉。しばらくして、シャワーが流れる音が聞こえた。
その水滴が、彼女の体と、タイルを打つ音さえも、僕の神経を擽るような気がした。耐えられなくなって、僕は耳を塞ぐように布団に身を沈めた。と言っても、長年使い込んだ布団は薄っぺらく、床の硬さや冷たさが直に伝わってきた。
安い湿布を使っているからか、それとも、効能を得られるまでに時間がかかるのか、暴力を受けた部分の痛みがみるみる増していく。
シャワーの音が聞こえる。
皮膚が裂けそうで、痛い。
樟脳の臭いに、思わず顔を顰める。
指を這わせると、布団の毛玉が爪に引っ掛かった。
目を開けると、知らない誰かの部屋。
全てが鬱陶しい。全てが煩わしい。でも、どうすることもできなくて、ただただ、身に受けることしかできなくて、僕は自然と涙を流していた。
布団に涙が滲んでいく。
泥に沈んでいく。
「…寂しい」
そんな言葉が、口から零れ落ちていた。
何となく腕を動かした時、指先に、ぬるい熱を持った何かに触れた。
反射的に掴んで、引き寄せる。
見ると、それは皆月が脱いでいったブレザーだった。
「…………」
皆月がいつも着ている上着。この紺色を見れば、彼女の顔を想像するくらい、見慣れたもの。
彼女がシャワーを浴びていることを良いことに、僕はその上着をなんとなく弄って見た。
生地は鈍い光沢を帯びていて、思ったよりも薄い。すべすべとしていて、まるで子猫を撫でているみたいだった。
どこの学校だろう? と思い、上着を隅々まで眺めたが、校章らしきものは見当たらなかった。当然名札も。代わりに、タグに、「コスプレ本舗」というメーカーのロゴが入っていた。
なんだ、コスプレ用の服だったのか…。
思わず、ふっ…と笑ってしまう。
そう言えばあいつ、この服を着るのは「都合が良いから」って言ってたな。
コスプレ衣装取り寄せてまでも、若作りしたかったのだろうか…?
「…………」
あいつ、何歳なんだろう…。僕と同じ歳だと、良いな…。
そう思った瞬間、僕の腕が勝手に動いて、上着を抱き寄せていた。
すぐに我に返る。
なんてことをしているんだ…僕は。最低最悪の屑野郎じゃないか。今すぐ過去を書き換えて真人間に生まれ変わるか、この部屋で首を吊って詫びろ…。
そう思ったのに、僕の腕は変わらず、彼女の上着を抱きしめていた。
ついには顔を近づけ、微かに残った熱を感じるとともに、匂いを吸い込む。
炬燵の中に潜り込んだかのような、冬にコンビニで肉まんを買うかのような、昆布茶を啜りながらテレビを見るような…。そんな、何か物足りないけれど、確かにある熱が、僕の胸に染みこんでくる。
まるで、闇が迫る夕暮れ時を、誰かと手を繋ぎ合って駆けているかのような…。
明日も生きてやろう…と思えるような、確かな熱だった。
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