第57話
血まみれ痣まみれの僕たちは、お互いに支えながら歩き、アパートを目指す。途中、けたたましいサイレンを鳴らしながら救急車が通り過ぎていった。
そうして、泥の中を泳ぐようにして歩いた僕たちは、アパートに辿り着いた。
鍵を使って扉を開けた瞬間、集中の糸が切れ、足の力が抜ける。
僕は前のめりとなり、皆月を道連れにしながら玄関に倒れ込んだ。腹を打ち付けて、衝撃が胃に伝わる。もう、うんざりな痛みだった。
「ああ、もう…」
皆月が身を捩り、僕の胸に挟まれていた腕を抜いた。そして、その手で僕の頭を撫でる。
「ナナシさん、せめて布団に行こうよ」
「もう疲れた…」
僕は不貞腐れて言うと、ダンゴムシみたいに丸くなった。
皆月だけが手をついて立ち上がり、僕を呆れた目で見下ろす。
「血生臭いし、汗臭いし、服も汚れてるし…」
「わかった…」
僕は、頷きはしたが、動きはしなかった。
「元気を取り戻したら、動くことにするよ。君はもう帰れ…。君も休め…」
また口の中に血が溢れてきたから、迷わずその場に吐き出す。
「悪かった」
また鉄の味が込み上げてくる前に、彼女に謝罪した。
「面倒なことに巻き込んで、悪かったな…」
期待なんてしていなかったよ。まあ、どうせ、こういう結末が待っているんだろうな…って思ってた。そうだ、期待なんてしていなかった。でも、もしかしたら…って思った自分がいたんだ。本当に、情けない話だよ。
「蹴られたところ、大丈夫か?」
「まあ、ナナシさんに比べたら」
「痛くないか…? 血は出てないか…?」
「頭が割れた」
「気分が悪いと思ったら、すぐに病院に行けよな」
「嫌よ大げさな」
「金は、僕のポケットに財布が入っているから、そこから抜け」
「何程も入ってなかったでしょ」
「もし足りなかったら、通帳のカードが入っているから、それを使え。暗証番号は…、なんだっけ?」
ははっ…と笑う。
「わすれちゃったよ…。僕の名前も、カードの暗証番号も…」
床に降り積もった埃を眺めながら、僕はぶつぶつ…とそう言った。
そうして蕩けてしまい、その場に張り付いたように動かなくなった僕を見て、皆月は深いため息をついた。そして、僕の腰を軽く蹴ると、一言。
「めんどくさ」
うん。そういう人間なんだよ、僕は。
その言葉を発するのすらも、億劫に思えた。
結果、僕は皆月の言葉を無視することなり、気まずさを紛らわすように目を逸らした。
彼女は舌打ちをすると、また、僕の腰を蹴った。
「いい加減にしてよ。人生終わった馬鹿に何言われようが、気にしなかったらいいのに」
僕もその馬鹿と同類ってことだよ。
「違うね。ナナシさんと、東条健斗は、全く違う」
まるで僕の心を読んだかのように、皆月は言った。
「確かに救いようが無いものだったとしても、今のナナシさんを見ていたら…、多分、捨てるには惜しいものなんじゃないかって、思うんだ」
なんだそれ、お前がそれを言うのか?
僕のことを馬鹿にした、お前が言うのか?
「だから…」
「もういいよ」
言葉が口を衝いて出て、皆月の声を遮っていた。
「もう要らない。必要ない。もう苦しいから、さっさと、新しい過去を書いてくれ…」
僕は、自分の人生を、諦めていた。
本当に、身勝手なことを言っていると思う。それもまた僕のしょうもない人生の一部だ。
本当に、馬鹿みたいだ。散々、自棄になって自分の過去にこだわっていたくせに、今度は自棄を起こして、それを足蹴にするのだから。結局、どの道に行っても救われないのなら、どちらに傾いても変わりはない。行きつく先は全部地獄だ。
今は、こっち側に、傾きたかった。
「もう捨てるよ。全部捨ててやる。新しい過去を書いてもらって、新しい名前を手に入れて、新しい人生を歩き出すんだ…」
本当に、惨めだと思った。
「もう、僕の過去なんて、必要ないよ」
そう言い切った僕は、一仕事終えた後のように力を抜き、目を閉じた。
後は、皆月の返事を待つだけ。耳だけで十分だった。
僕の言葉を聞いて、彼女はきっと嬉しそうに言うんだ。「わかった」って。そして、一か月足らずで、僕の新しい過去を書いてくれる。
嫌なこと、何もかも忘れた僕の心は救われて…、彼女は、楽な仕事で大金を得る。二人で、ちょっとお高いレストランで食事をして別れる。
これが、理想の形。
「……………」
だが、十秒経っても、二十秒経っても、皆月は返事をしてくれなかった。
もう十秒待ってみよう…と思い、僕は耳を澄ませる。
だが、それが過ぎても、彼女は何も言わない。
やがて睡魔が押し寄せて、僕の聴覚が鈍り始めた。
うつらうつらとし、夢の世界に、片足を突っ込む。
「馬鹿じゃない?」
そこでやっと、彼女が口を開いた。まるで、水中にいるかのような響き方をしていた。
冷たい手が、僕の腕を掴む。
何をするのか…? と思い、目を開けようとした瞬間、「ふんッ!」という声と共に、僕の腕が引っ張られていた。
筋肉が伸び、関節がパキッ…と鳴る。
背中で床を拭いながら、僕は引きずられていた。
皆月の、ははっと笑う声が聴こえる。
「軽いね…。いつも何食べてるの? 私より軽かったら許さないからね」
そんなことを言いながら、僕を引っ張っていく。
居間に引きずり込まれた。
皆月は、一度僕を入り口で放置すると、押し入れを開ける。樟脳の匂いに顔を顰めながら、薄暗闇に身体をねじ込み、僕がいつも使っている布団を取り出した。
慣れた手つきで床に敷くと、シーツの皺を整えていく。
寝床の準備ができると、再び僕の方を向き直り、腕を引っ張った。そして、半ば強引に、敷かれた布団の上に引きずり込んだ。
パンッ! と背中を叩かれる。
「一回身体起こして。服脱げる? タオルって何処に置いてあるの? 救急箱とかは?」
「いいよ。要らないよ…」
皆月が僕を介抱しようとしていることに気づいた僕は、そっぽを向いて首を横に振った。
「全部、自分でできるから」
「ああそう。じゃあ、自分でやって」
皆月はそっけなく言うと、また、僕の背中を叩く。ちょうど腫れているところを叩いたものだから、激痛に涙が滲んだ。
「自分でできるから…、君は帰れよ」
「自分でやれてるとこを見るまで帰らない」
「僕のことに構っている暇あるのか? 君だってあいつに蹴られていたんだぞ?」
「後回しで結構」
ほら…と言って、彼女は快活に腕を回した。
「ああ、もう…」
このままうだうだとやっていたところで、疲れるだけだと思った僕は、仕方なく身体を起こした。
上着の袖から手を抜く。その瞬間、肩の辺りの皮膚に裂けるような痛みが走った。
顔を歪めながら、何とかコートを脱いだ僕は、次に、シャツを脱ぐべく、ボタンに手を伸ばした。だが、思いの外、指が震えていて、外すことができない。
ボタンを一個、二十秒ほどの時間をかけて外す。
そこで僕は諦め、肩を落とした。
「できない。やってくれ」
「はいはい」
皆月は笑みを含んだ声で頷くと、僕の前に回り込んだ。
僕よりもはるかにしっかりとした手つきでボタンを外し、シャツを脱がせる。
下に着ていたインナーには、血が滲んでいた。
それも脱がせ、背後に放る。そして、机の引き出しから救急箱を取り出すと、腫れあがっている部分に湿布を貼った。裂けて血が滲んでいる部分には絆創膏。それ以外の汗をかいた皮膚は、濡らしたタオルで拭った。そうして、応急手当を終えると、もれなく万歳させられ、干してあったTシャツを着せられる。
「よし、こんなもんかな」
満足そうに頷いた彼女は立ち上がり、ブレザーを脱いだ。
ポロシャツのボタンに指を掛けながら言う。
「じゃあ、私、シャワー借りるから、ナナシさんは安静にしてなよ」
「……うん」
手当してもらったんだから、ガス代と水道代、あとシャンプー代くらいは持ってやるよ…。
その強がりが出てこないことが、なんだか悔しかった。
「それじゃあね」
皆月はそう言って、風呂場へと入っていった。
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