第56話

「お前…、こんなところに、こんな、痣、あったっけ?」

「………」

 痣? 何言ってんだ、こいつ…。

 ほんの少し明瞭になった視界の中、東条を仰ぐ。

 その時、僕のある部分を見て首を傾げる東条の背後に、皆月が立った。

 あ…って思う。

 次の瞬間、皆月は持っていた木刀を振り上げた。

 気配に気づいて、東条が振り返る。

 構わず、皆月は一閃した。

 木刀の切っ先が、東条のこめかみに激突する。

 ガンッ! と嫌な音がしたと思えば、東条は悲鳴をあげながら、床に倒れ込んだ。

 だが、あの一撃だけでは、東条の意識を奪うには至らなかったようで、彼は首を擡げると、唾をまき散らしながら叫んだ。

「このくそ女!」

 その口を塞ぐべく、皆月は追撃を叩き込む。

 顔面に、木刀の重い一撃が炸裂した。

 東条健斗が呻き、顔をのけぞらせた瞬間、欠けた歯と、血の雫が飛び散る。そして、仰向けになった彼は白目を剥き、ピクリとも動かなくなった。

「ざまあないわね…」

 そこでようやく、皆月は声を発した。

 血の付いた木刀を放り出し、天井を仰ぐ。

「…八つ当たりをすることもできない、価値のない人生で」

 皆月は、ぺっ! と唾を吐いた。それから、よろめきながら東条に近づく。

 彼が反撃をしてこないことを確かめると、余裕な風を醸し出すように、肩を回したり、足を揺すったり。そして次の瞬間、倒れている東条健斗の股間を、思い切り蹴りつけていた。

 気絶していた彼が、絹が裂けるような悲鳴を上げる。そして、浜に打ち上げられた魚のように、痙攣し始めた。

「あんたみたいなやつは、自殺する勇気も、社会の歯車に噛みつく覚悟も無く、一生、埃を舐めながら生きていくと良いよ。その方が良い。他の、どうしようもない人生を送っているやつが、ほんの少しだけ、輝くことが出来るからね…」

 東条健斗は返事をしない。ただ意識はあるようで、痙攣をしながら、意味わからない言葉を吐き続けていた。

「よし…」

 スッキリしたかのようにため息をついた皆月は、僕の方を振り返った。

 僕と皆月は、しばらくの間、見つめ合う。

 一秒、二秒、三秒、四秒、五秒…。十秒ほど経っただろうか? 皆月はにらめっこに耐えかねたように息を吐き、俯いた。

 顔を上げると、柔らかな笑みを浮かべ、紫色に染まった手首を見せる。

「ありがとうね。ナナシさんがこいつと雑談してくれたから、拘束を解く余裕ができた」

「い、いや…」

 まさか感謝されるとは思わず、僕は気まずくて俯いた。

 額から、血が滴り、床を濡らした。

 皆月は「あ…」と声をあげ、僕に歩み寄ると、身を屈め、珍しく頬を撫でてきた。

「大丈夫? 動けそう…?」

「まあ、何とか」

 木刀を強く握りしめていた彼女の手は、燃えるように熱かった。

「そう。じゃあ、逃げようか」

「うん、逃げたいんだけどさ…」

 僕は苦笑を浮かべ、身を捩った。

「その…、縛られてるから。しかも、足も…」

「へえ…」

 皆月は少し余裕を取り戻したように、憎たらしい笑みを浮かべた。

「男の股には、興味が無かったと」

「そう言うことに、なるな」

「女の子でよかった」

 彼女は踵を返すと、ゴミ袋の山の方に歩いて行った。

 傍に落ちていたのは、サバイバルナイフ。どうやら、東条が買ったもののようだ。

 皆月はそれを拾い上げると、僕に向かって投げる。

 空中で弧を描いたそれは、危うく僕の足を貫きそうになりつつ、床に突き刺さった。

「それで切りな。私も切った」

「ああ、うん」

「まったく、馬鹿で助かった」

「本当だよ」

 僕は手首が縛られた状態で、指を動かし、ナイフの柄を掴んだ。鋭利なそれを結束バンドに押し当てると、力を込める。なかなかてこずったが、バチンッ! と、いう音とともに切断された。

 自由になった腕を使い、足首に巻き付いたそれも切断する。

 そこでようやく、僕は解放された。

 それと同時に、東条の怒鳴り声が聞こえた。

「てめえっ! よくも!」

 はっとして振り返ると、目を覚ました彼が、唾をまき散らしながら首を擡げていた。

 すかさず、見張っていた皆月が脚を振り抜く。

 再び股間に走る激痛に、東条は断末魔のような叫びをあげ、丸くなってしまった。

「ナナシさん、切れた?」

「あ…、うん」

 自由の身になった僕は、床に手をついて立ち上がった。

 全身の皮膚に張り裂けそうな痛みが走り、よろめく。

 今に折れそうな足を使って何とか踏みとどまると、何とか、皆月の方まで歩いて行った。

 ボロボロな僕を見て、皆月はにやっと笑う。

「かわいそ」

「…帰るか」

「そうだね」

 二人で頷きあっていると、東条健斗が言葉を絞り出した。

「ま、待てよ。待ってくれ、頼むよ。悪かった…。酷いことをして、悪かった。目が覚めた…」

 何とも情けない声。

 それを聞いた皆月は鼻で笑い、彼の尻を蹴ることで追い打ちをかける。

「惨めだね。五年以上経っても更生しなかったやつのセリフが、信用できると思う?」

 痛みで言葉が出ないのか、それとも、返す言葉が無いのか、東条は何も言わず、皆月と僕を交互に睨んだ。

 まるで、捕まえたネズミをいたぶる様に、彼女はさらに続ける。

「欲求を満たしたいのなら、他人に優しくすることだね。暴力なんてもっての外。一与えたなら、十返ってくるもんだよ。あんたはどれだけナナシさんを傷つけたの? きっと多分、これから先の人生で、その分が返ってくる…」

 ギリリ…と東条が歯を食いしばる音が聴こえた。

「さっき、あんたは自分の人生が滅茶苦茶だって言ったね。ナナシさんを殺したら、自殺でもしようか…って言ってたね。すると良いよ。首吊りしたり、動脈を切ったり、電車に飛び込んだり…、やり方はいくらでもある」

 次の瞬間、東条が、獣のような雄叫びを上げ、皆月に飛び掛かった。

 だが、皆月は蚊を潰すが如く、彼の顎を蹴り上げる。

 東条はまたもや呻き声をあげ、床に伏してしまった。

「でもかわいそうだね」

 涼しい顔で言った彼女は、髪を耳に掛ける。

「本当なら、もっと楽しい人生が待っていたのかもしれないのにね。腹を割って話せる友達だとか、可愛い奥さんとか、趣味とかね…。そう言うのが楽しめたかもしれないのに、そう言うことが待っているかもしれないのに、捨てちゃうんだね。周りのみんな、人生謳歌してるのに…、自分だけできないなんて、可哀そう…」

 彼女はさも、彼だけが世界に取り残されているかのような言い方をした。

 まるで生きていた方がよっぽど楽しい…とでも言うような言い方をした。

 東条健斗の顔が、みるみる青くなっていくのが分かった。

「そ、そんなこと、ねえよ」

 否定する言葉も、覚束なかった。

「俺は死んだほうが、ましなんだ…」

「あらそう。じゃあ、死ねば? 私たちは生きるから」

 そう言うと、もう一度、彼の腹を蹴りつける。

 痛みに慣れたのか、彼は呻かなかった。もう、僕たちに襲い掛かってくることもなかった。

 皆月は作り笑いを浮かべると、伏して泣き始めた彼に手を振る。

「それじゃあね。人生楽しんで」

 これではどっちが悪役かわからないな。

「ほら、ナナシさん行くよ? とりあえず警察呼ぼう」

 パソコンが入った鞄を掴んだ皆月は、僕の手を取り、引っ張っていく。

 足を引きずりながら歩き、玄関まで歩いて行ったとき、東条健斗が叫んだ。

「てめえの方が惨めな人生だろうが!」

 その言葉に、ドアノブに触れかけていた手が止まる。

 振り返ると、彼は芋虫のように這いながら、必死に暴言を吐き散らしていた。

「人に殴られるばっかで! やり返す勇気もない! いっつも独りだった! 誰もてめえのことなんて気に掛けなかった!」

「ナナシさん、行くよ」

 僕の手に、皆月の手が重なった。

 そのまま、一緒にドアノブを握ると、捻る。

 今に出て行ってしまう二人に、東条はさらに捲し立てた。

「オレはてめえの名前を思い出せない!」

 扉が開く。冷たい風が吹き込んできて、血のにじむ傷口に染みこんだ。

「惨めな名前をしてはずだ! 情けない名前をしていたはずだ! そして、憶える価値も無い、しょうもない名前をしていたはずだ!」

 僕たちは、部屋から一歩、外に出る。

「教えろよ! お前の名前! お前、何て名前だっけか!」

 扉を閉めた時、その向こうから、下品な笑い声が聴こえた。

 ぎゃははははは…と、喉が切れそうな、頭が完全に狂ってしまったかのような、聞いていて悲しくなる、そんな笑い声だった。

「悪い! 忘れたあああああっ! ぎゃはははははっ!」

 笑い声がずっと聞こえていた。

 二人で肩を貸しあって通路を歩き、階段を降り、駐車場を横切っている時もずっと、空間を裂くように、僕たちの鼓膜を揺らし続けた。

 そのうち、他の部屋の住人が出てきて、その声が聴こえる部屋を訝し気に見ていた。

 一階の端に住む人が、ぼろぼろの僕たちに気づき、「何かあったんですか?」と聞いてきたので、僕は言った。

「…警察を呼んでください」

 言った後、首を横に振る。

「…いや、救急車で十分。それだけでいい」

「え…」

 隣の皆月が意外そうな顔をした。

「なんで?」

「いや、なんかもう、面倒くさくなったんだ…」

 僕はそう言うと、彼女の手を握り、引っ張る。

 何か言いたそうな住人を放って道路に出ると、足を速めた。

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