第55話
「おい東条! 皆月は関係ないだろ! やるなら僕をやれよ!」
彼女だけは傷つけさせてはいけない…と思い、必死に呼びかける。
だが、東条健斗は首だけで振り返るのみで、すぐに皆月の方を向き直り、蹴った。
「舐めるなよ、このクソ女。価値の無い人生だって…? ああ、その通りだよ。だから、あいつの足を引っ張っているんじゃねえか。全部わかり切っているんだよ」
皆月は腹を守るため身を捩り、背を向けた。
構わず、東条健斗はその背中を蹴り続ける。
「わかり切ってることを! わざわざ口に出すなよ! むかつくだろうが!」
狙いを過って、ゴミ袋を蹴りつけた。
ゴミ袋が裂けて、中に入っていたものが溢れ出す。
カップラーメンの空、ペットボトル、くしゃくしゃにされた週刊誌に、何重にも丸められたティッシュ…。ずっと放置され、熟成され異臭を放つゴミ共が、皆月の華奢な身体に降りかかった。
「…皆月」
このままではまずい。
僕は身を捩り、腹筋に力を込めて、上体を起こした。何度か前のめりに転びながらも、膝で立つことに成功すると、小刻みに脚を動かし、東条へと歩いていく。
東条は皆月を蹴るのに夢中になっていて、僕の接近に気づかない。
僕は息を吸い込むと、歯を食いしばり、彼に突進した。だが、上手く勢いをつけることが出来ず、それは突進というよりも、寄りかかっただけだった。
「ああ?」
東条健斗が振り返る。次の瞬間には、僕の顎を強く蹴り上げていた。
歯と歯がぶつかり合い、ガチンッ! と嫌な音。
視界に飛び散る白い火花を眺めながら、僕は背中から床に倒れ込んだ。
「くっそ…」
痺れるような痛みに顔を顰めていると、胸の辺りに唾が吐きかけられた。
僕を見下ろす東条健斗は、怯えているような、苛立っているような、よくわからない顔をしている。
「邪魔すんなよ。お前の癖に。指咥えて見てろや…」
「一つ…、疑問に、思ったことがある…」
これ以上皆月に迷惑はかけまい…と、僕は東条の気を逸らせるために、言葉を絞り出した。
「お前、さっきから小学校の話してるよな…」
「ああ?」
ダメ元だったが効果はあったようで、東条は振り上げた足を下した。
僕は涙ぐましい時間稼ぎをする。
「今日開催されたのは、中学の同窓会だぞ?」
「それがどうしたんだよ」
「なんで僕とお前、一緒の学校だったのに、中学でも僕を虐めなかったんだ?」
「あ?」
東条は意味が分からない…とでも言うように首を傾げた。
「さっき言っただろ。俺も虐められるようになって…、その後は学校に行かなくなったから…」
「その意味が分からん」
自分でも何を言っているのかわからなくなった。
でも、これで時間を稼げるのなら…という一心で言う。
「それなら、僕でも殴って鬱憤晴らしでもしておけば良かったんだ…」
「お?」
僕の言いたいことを理解したのか、東条は挑発的な声をあげた。
「お前、もしかして、俺に殴られたかったのか? だったら家に来てくれたらよかったのに。そしたら、思う存分殴ってやったのに…」
「家に…? 学校じゃなくて?」
「あ? オレが学校にいる頃はてめえ、いなかっただろ」
「あ…?」
思いつきで始めた会話だったが、さっきから噛み合っていないことに気づく。
違和感は東条の方も覚えたようで、彼は眉間に皺を寄せると、足を半歩ずらした。
「てめえ、皮肉でも言ってんのか?」
「いや…、そういうつもりは」
「だったらなんだよ。てめえがあの学校に転校してきたときは、俺はもう学校に行ってなかっただろ」
「え…」
転校?
その言葉を聴いた瞬間、頭に痺れるような感覚が走った。
皆月と過去の復元をする中で、何度も経験した。「記憶が蘇る」感覚だ。
「あ…」
鼻先に火花が弾け、朦朧とした視界の中に、ある光景が過る。
煙草臭いバンの中、窓から見える田園風景。運転席には、誰かが乗っている。辿り着いたのはあの中学校。僕は車から降りて、職員室を目指す。教室に入った時、僕に浴びせられた、冷たい視線…。
「………」
そうだ、僕は確か、中学生の時、転校をした…。
そこまで思い出した瞬間、東条の声が聴こえた。
「さぞ嬉しかっただろ? 平穏な中学生活を送れて。いや、てめえは島田に虐められてたからな。あんまり状況は変わらなかったか」
僕は横腹に力を込め、身体を起こす。
鼻から血が落ちて、床を濡らした。
「……やっぱり」
やはり、何かきっかけを与えられれば、眠っていた記憶は蘇る。東条の口から「転校」という言葉を聴いて、その時のことを少し思い出した。
尚わからない。僕はやっぱり、東条に虐められた覚えが無い。
てっきり、まだ脳への刺激が足りないのだと思ったが、これで確信した、僕は東条に虐められたことなんて…、無い。
どういうことだ?
「東条、お前…」
言いかけて、顔を上げる。
その瞬間、東条の膝蹴りが飛んできて、僕の額を捉えた。
ガチンッ! という音が頭蓋骨に響き、僕は身体をのけ反らせた。
倒れ込んだ拍子に、東条が僕に馬乗りになる。
手汗でべたついた手で僕の首を鷲掴みにした。
「また思い出させてやるよ。自分が惨めな人間だってことを!」
親指を、僕の喉仏に押し当て、ぐっと力を込める。
「うっ…」
たちまち息が詰まり、脳が冷えるのがわかった。
東条は依然半笑いを崩さない。歯の隙間から引きつったような声をあげながら、僕の命を断ちにかかる。
「死ねよ…、死ね」
「くっそ…」
手足を縛られているから、抵抗ができない。虚しく、身を芋虫のように捩らせるだけだった。
そんな僕を見た東条は、一層歓喜の声をあげた。
「惨めに死ね! 俺の人生に花咲かせて! 死んで行け!」
視界が白く褪せたと思えば、端に血のような靄が浮かんだ。
死にたくない…と思えば思うほど、心の叫びに重なって、今日の朝食だとか、皆月に言われた言葉だとか、アサの顔だとか、意味の分からないものが脳裏を過って行く。
指先が痺れるようになり、首を圧迫される痛みも、苦しみも、既知のものへと変わった。
ああ、ダメだ、死ぬ…。
終わった…。
そう思い、諦めた時だった。
「あ?」
一瞬、首を絞める力が弱まった。もちろん、人を死に至らしめる力であることに代わりはないが…。
「お前…、こんなところに、こんな、痣、あったっけ?」
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