第54話
「いいや違うね」
苦し紛れの誤魔化しを一蹴した東条健斗は、言葉だけでなく、僕の腹も蹴り飛ばした。
内臓が破裂するかのような、鈍い痛み。でも、既知の痛み。
悲鳴をあげないでいると、今度は脛を蹴られた。一発だけじゃなく、二発、三発、さらに四発とやられる。歯を食いしばって悲鳴が洩れるのを堪えたが、身体は反応し、エビのように丸くなってしまった。
そんな僕を見て、東条健斗は、満足そうに笑う。
「お前だよ。お前は正真正銘、俺が昔虐めていた、あの間抜けだよ。だって、こんなにも楽しいんだぜ? お前を蹴るたびに、あの時のことが、昨日のことのように思い出させられる。楽しくて楽しくて、たまらねえ…」
「…くそ」
身体中のあちこちで血が滞っているような感覚があった。特に足が酷い。皮膚が引きつっている。もう少し強い力で蹴られたら、水風船みたいに破裂してしまいそうだった。
無駄な抵抗であるとはわかっていたが、僕は逃げおおせようと床を這う。
血を引きずる僕を見て、東条健斗は、「ははっ!」と声をあげ、興奮したチンパンジーみたいに、手を何度も叩いた。
「そうだよ。それ、懐かしいな…。小学生の頃のお前もそうだった。最初は反抗的な目をしてるんだよ。強がりばっか言って、こっちを睨んでくるんだ」
だから、覚えが無いんだよ。
「でも、ちょっと痛みを与えてやると、すぐに逃げ出す…。芋虫みてえに、情けなく、地面を這うんだ…」
ダンッ! と地面を蹴る音。
全身が粟立つような感覚に歯を食いしばった瞬間、背中に激痛が走った。
彼が、思い切り踏みつけてきたのだとわかった。
「あっ、あ、ああ…」
泡が、弾ける。鼻先で、ぱちぱちと。
微かに、香ばしい匂い。血の苦み。褪せた視界の中で、あいつが笑っている。
「おら! 逃げんなよ! 久しぶりの再会なんだから、もっと楽しもうや!」
さっきまでの、僕に土下座をして涙ながらに謝罪の言葉を口にした彼の面影は、もうどこにもない。そこにいるのは、顔を真っ赤にして、黄ばんだ歯を見せびらかしながら下品に笑う餓鬼だった。そしてその餓鬼に足蹴にされる僕は、取るに足らない蟻。
「くそ…、くそ…」
全身を襲う激痛に、もう一ミリも這うことが出来ない。
目だけを動かし東条健斗を見ると、無駄な話をした。
「こんなことをして、いいと思っているのか?」
「あ? 何言ってんだお前」
「僕はもう、あの時の、ただただ殴られる僕とは違うぞ」
と絞り出した瞬間、横腹を蹴りつけられる。
東条健斗は能面のような顔になると、僕に唾を吐きかけた。
「どこがどう違うんだ? あの時と同じ、愚図でのろまで、生きる価値のないゴミじゃねえか」
「その気になれば、警察に、言ってやるぞ」
言っていて恥ずかしくなった。まるで、弱い奴の言うことみたいだ。
まあ、実際、僕は弱い奴なんだろうな…。今も、昔も。
「言ってみろよ」
僕の思考を遮って、東条健斗の蹴りが横腹にめり込む。さっきよりも力が強い。そのまま蹴り飛ばされて、背中を叩きつけた。
のんびりと間を詰めた彼は、追撃と言わんばかりに、僕の鳩尾を踏みつけた。
「がっ…」
また、視界に火花が散る。
息が詰まり咳き込んだが、まるで痰を吐き出すかのような、嫌な音だった。
息が吸えない。痛い。血が止まらない。意識が薄れていく。
死にそう…。
「もう殺すんだから、警察も何も、関係ないよな…」
瞬間、耳に飛び込んできた物騒な言葉に、熱を帯びていた身体が一瞬で冷えた。
顔を上げ、東条の顔を見る。
「僕を?」
「ああ、殺すよ?」
東条は肩を竦めると、まるで、友達に遊びに誘われたかのように、軽々しい口調で言った。
「殺してやるよ。それはそれは、悲惨に」
「いや、いやいや…」
背筋を、虫が這うような感覚。
こいつ、本気で言っているのか? 本気で僕を殺そうとしているのか…。
いや、まあ、そうだよな。
そう思った僕は、目を動かし、床に広がった己の血を見た。
殺そうとでも思っていなきゃ、ここまでのことはしないか…。
「だって、俺の人生はもう滅茶苦茶なんだぜ? 夢だった野球選手にはなれないし、美人の奥さんも持つことはできない。もちろん、金持ちにだって…。もう終わっているんだ、俺の人生は。だから、今さら長生きするつもりなんてねえよ」
顎に手をやりそう言う彼は、心底楽しそうだった。
まるで、押し入れの中から、昔のおもちゃを発見したかのような、美しい目をしていた。
「お前を殺した後は、さあ、どうするかね? 自殺してもいいし、警察に行って、檻の中で養われるのも悪くない」
いや…、その前に…。と言って舌なめずりをすると、倒れている皆月の方を振り返った。
「あそこの女子高生を、気が済むまで冒すのも悪くねえな」
「馬鹿じゃない?」
皆月の声が聴こえた。どうやら、会話は全部聞いていたようだ。
彼女は身を捩ると、その猫のような目で東条健斗を睨んだ。
「私をレイプしてみなさいよ。その股間、蹴りつぶすけど」
そのじゃじゃ馬な態度に、東条健斗は怯んだような顔をした。
「言うね」
どうやら、凄めるのは僕の前だけらしい。
皆月は物怖じせず続ける。
「さっきだって、私の服、脱がせられなかった。真っ先に裾を引っ張ってくる奴があるかっての。スカートにホックがついてること知らないわけ? 想像でするのと、現実でするのとは違うのね」
その言葉は東条に効いたようで、彼は苦虫を噛み潰したような顔をした。
「それは、お前が暴れるから…」
「ゲームと現実は違うの。あんた、その気になればかめはめ波が撃てるとでも?」
「お、お前、オレにそんな態度取っていいのか?」
東条健斗は、若干ぎこちない声で言うと、足元にいる僕をつま先で突く。
「こいつみたいになっていいのか? それ以上俺に減らず口叩いたら、もう一生外を出歩けないような身体にしてやるぞ?」
「だから、やってみろってんの」
上等…と言わんばかりに、皆月は顎をしゃくった。
「そうやって、人を傷つけ続けて、社会から遠ざかって、生まれてくる意味なんて無かった、価値のない人生を謳歌していくといいよ」
次の瞬間、ドンッ! と、床を蹴る音が響いた。
言葉にならない罵声をあげながら、東条健斗はまるで突風のような勢いで皆月に近づくと、その腹を強く蹴りつけた。
小さな、うめき声。
皆月は蹴り飛ばされ、背後にあったゴミ袋の山に突っ込んだ。
衝撃で山が崩れ、丸くなった彼女の身体にゴミ袋が降り注ぐ。
「皆月!」
僕は我に返り、叫んだ。
「おい東条! 皆月は関係ないだろ! やるなら僕をやれよ!」
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