第53話
ドタドタッ! と、何かが床で暴れる音で目が覚めた。
「…………」
目やにがこびりついた瞼をあげると、僕は薄汚い床の上に、手足を縛られて横になっていた。
目を動かして見ると、積み上がったゴミ袋と、薄汚い壁が見える。どうやら、ここは東条健斗の部屋らしい。
こめかみがまだ割れるように痛くて、よく見ると、黒くなった血が床にこびり付いていた。
背後から、ドタドタッ! と、足を床に叩きつけるような音が聴こえた。
僕は身を捩り、振り返る。
「あ…」
東条健斗が、手を縛られた皆月に、覆いかぶさっていた。
はあはあ…と、湿った息を吐き、目を血走らせた彼は、何とか皆月の制服を脱がそうとするのだが、彼女が足をばたつかせたり、身を捩ったりするせいで、なかなかうまくいかない。
脱がすことは諦めて、彼女の胸を揉もうと手を伸ばすも、それものたうち回られて上手くいかなかった。
胸を揉むことは諦めた彼は、皆月のスカートに手を伸ばしたが、すかさず彼女が足を振り上げて、その顎を蹴りつけた。
悉く、レイプに失敗した東条健斗は、「くそ…」と悪態をつき、顔を逸らす。
その瞬間、僕と目が合った。
「あ…」
気まずそうな顔をする東条健斗。だが、開き直ったように、にやりと笑った。
「懐かしいな、その顔。小学校の頃、背後から殴ってやるたびに、そういう顔してたよな」
言葉が、浮かんでこなかった。
黙っている僕を見て、彼は何を思ったのか、興奮したように声の調子をあげる。
「期待したのか? 俺が更生したって、期待してたのか?」
僕は何も言わない。
「馬鹿だな…、そんなことするわけないだろ?」
そう言った彼は、皆月の方を一瞥してから、おもむろに立ち上がった。
まるで捉えた獲物を嬲るみたいに、ゆっくり、ゆっくりとした歩みで僕に近づき、次の瞬間、腹を蹴りつけた。
内臓が破裂したかのような衝撃に、たまらず悲鳴を上げ、苦いものを吐き出した。
喉が割れんばかりの勢いで咳き込む僕を見て、東条健斗は満足そうに笑う。
「良いな。その顔…、懐かしい。いや、むしろ磨きがかかっている。その歪んだ顔が、俺は大好きだったんだよ」
そう言ってまた、僕の腹を蹴る。今度は軌道が逸れたようで、そこまで痛くなかった。
息を整えて、胃酸を飲みこんだ僕は、精いっぱい強がって言った。
「お前、僕に申し訳ないって、思ってたんじゃなかったのか? なんだよこれは…、何のつもりだよ」
縛られた手足をばたつかせる。
東条健斗は目を三日月のように歪めた。
「本気で信じてたのか? 馬鹿だね」
「違うね。あの時僕にやったことが、恥ずべき行為だということ理解できないその小さい脳に嘆いているんだよ…。脂肪の中で腐らせてしまったのか?」
僕の罵倒に、東条健斗の笑みが凍り付く。
僕は続けて言った。
「安い部屋。ゴミの分別もできない。人の揚げ足をとった記事と、下品な女の裸で興奮して、挙句、小学生の頃のサンドバックに未だに未練を抱いている。精神の成長なんてあったもんじゃない、むしろ退化していることに、僕は悲しくてたまらないよ…」
次の瞬間、東条健斗が放った蹴りが、僕の鼻先に直撃した。
視界が暗転するとともに、白い火花が弾ける。
首を大きくのけ反らせた僕は、小さく呻いた。
鼻の奥が熱くなったかと思えば、熱い血が溢れ出し、清涼感ある音を立てながら滴る。
「くそ…」
後頭部がキリキリ…と痛む。
「中学に入ってからさ、虐められたんだよ。あの話は本当だ…」
クリームパンみたいに浮腫んだ手が伸びてきて、僕の髪を掴む。そして、首をのけ反らせた。
鼻血が逆流して喉に流れ込む。焼けるような感覚に、たまらず咳き込むと、血が飛沫して、東条健斗の腕を汚した。
「小学生の頃じゃ、力に自慢がある俺だったが、中学に入って、とことん喧嘩が弱いってことを知ったよ。いろんな奴に殴りかかって、その度に返り討ちに遭ったんだ」
次の瞬間、顔面を床に叩きつけられる。
ゴツンッ! と鈍い音が響き、視界の中で赤い火花が弾けた。
「川に突き落とされた。便器の水を飲まされたこともあった…。鞄とか教科書とかを、焼き芋の着火剤にされることもあったが…、まあ、これは困らなかったな。勉強しないから。一番きつかったのは、裸に剥かれて、女子の前に放り出されたことだな…。なんだかんだ、俺にも好きな女はいたからな…」
東条健斗は笑みを含んだ声のまま、過去の凄惨な虐めについて語ったが、僕はそれどころじゃなかった。絶えず鼻の奥から血が流れ出ているし、叩きつけられ拍子に額も切ったようで、血が目を伝っている。動こうにも手足が縛られているし、逃げようにも、思考がまとまらない。
ただただ、サンドバックになっていた。
「そのうちさ、学校にも行かなくなって…、ずっと家に籠っていたんだよ。金はあったから、ゲーム買い漁って、ずっと遊んでた。そのうちそれも飽きた。漫画は全巻揃えるのが面倒だし、そもそも、文字を読むのは嫌いだった。近所のビデオ屋でエロい奴を借りまくって、一日中自分を慰めたんだ…。でも、実際の女とやっているわけじゃないから、虚しさが残るだけ」
一瞬、僕の髪を掴む力が緩んだ。
目を動かして見ると、東条健斗は、倒れている皆月の方を見ていた。
馬鹿みたいに開いた口から、涎が垂れている。
「一度、金を積んで、クラスの地味な女とヤッたことがあった…」
「何の話だよ」
生々しい話になるような気がして、僕は反射的に遮っていた。
東条健斗は頬をピクリと動かし、一瞬固まる。だが、すぐに思い出したように、僕の顔を床に叩きつけた。
「まあ、悪い経験じゃ無かった。髪を下ろして眼鏡外したら可愛い奴だったし。でもダメだ。生きている人間と面と向かって話すこと、相手のこと気遣っていろいろやるってのが、俺の肌には合わなかったんだ…。女の肌とも合わなかったが」
なんて上手い風に言うと、喉に血を詰まらせている僕の頭を揺すった。
「そうして、ずっと、ずっと部屋に閉じこもるばかりの生活を送っていたんだ。高校も出ず、このアパートでひっそりと…」
そして、やっぱり、僕の顔面を床に叩きつける。僕の頭はメンコのように跳ねた。
「半年前のことだよ。同窓会の連絡が来たんだ…。いつもは金だけしか持ってこないはずのクソババアが、あのハガキを俺に見せやがった」
視界の中でずっと、星が弾けている。頭の中ではずっと、張り詰めた弦を引っ掻くような音ばっかりが鳴っていて、床に接した皮膚が腐って蕩けているみたいだった。
こいつの声だけが、やけにはっきりと聞こえた。
「最初は行く気なかったよ。俺より上手い人生を送っているやつの姿なんて見たくなかったからな。でも、行かなくちゃいけない気がした…。誰かに会いたい…、誰かのことが恋しい、会って、お話がしたい…。そう思ったんだ」
ゆっくりと、東条健斗の手が伸びてくる。
また床に叩きつけられるのかと思い僕は目を閉じたが、彼の冷たい指は、僕の血塗れ涙まみれの頬をなぞった。まるで猫をあやしているかのような、優しい感触。
一瞬気が抜け、目を開けた。
その瞬間、握り拳が飛んできて、僕の眉間を打ち抜く。
「があっ!」
これにはたまらず、情けない声をあげて首をのけ反らせる。
ひひっ…と引きつるような笑みを洩らした東条健斗は、さらに続けた。
「そして、今日、お前の顔を見た瞬間、頭の中に華が咲いたみたいだった…。俺が一番幸せだった時、俺が一番輝いていた時のことが、はっきりと蘇ったんだ」
でも、どうしてだろうなあ…と、彼は首を傾げる。
「凄く変な感覚なんだ。俺はお前のことを知っている。それは悲惨に虐めてやったことも憶えている。でも、なんでお前の名前が思い出せないんだろう…?」
「…それは」
ダメだ、説明しようにも言葉が出ない。まるで、舌先で蒸発しているみたいだ。
いや、そもそも、「名前がこの世から消えた」だなんて、言ったところで信用してくれるわけがないか。意味が無い。それなのに、一瞬でも言葉の輪郭をなぞろうした己の思考回路が、どれだけ狂っているのか、実感した。
鼻で笑う。
「きっと、別人なんだろ?」
「いいや違うね」
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