第51話

 踏み出したまま固まった僕は、なんとなく、皆月の方を振り返る。

「どうする、皆月?」

「どうするもこうするも、返事したんだから行かないと」

「まあ、そうだよな」

「まあ、この人にタダ飯を奢られたいと思うほど、私、落ちぶれていないから」

「とはいえ、誠意を見せようとしている相手を放って帰るほど、僕も落ちぶれたくはないよな」

 いやまあ、まじで、こいつに虐められていた…という記憶は無いのだが…。

 入っていくしか選択肢が無かった僕は、腹を括って靴を脱いだ。

 心なしか、床がべたべたとしているから、指を折って、親指と踵だけで身体を支えると、そろそろと廊下を進んだ。

 半開きになった扉を押して、居間に入る。

 案の定酷い部屋だ。ゴミ袋は縛ってそのまま壁際に追いやられ、一つの山を形成している。それを覆い隠すように掛けられた衣類の数々。奥の窓にはカーテンがされているのだが、サイズが合っておらず、下から陽光が差し込んでいた。

 横を見ると、机と壁の隙間を覗き込んでいる東条健斗がいた。

 封筒を取ることに必死になっている彼は、僕が入ってきたことに気づいていない。当然、ズボンがずれてパンツとお尻の割れ目が見えていることにも気づいていない。

「僕はどうすればいい?」

 そう聞いて初めて、僕の方を振り返った。

「ああ…、ありがとう。じゃあ、机をずらすのを手伝ってくれないかな? 多少、上のものが落ちても構わないから」

「わかったよ」

 見上げると、机の引き出しには大量の本が収納されていた。と言っても、そのほとんどが週刊誌。下世話な話に興味があるのか、それとも、収録されているヌードグラビアに興味があるのか…。個人的には後者であってほしい。その方が、人間的に好感を抱けた。

「じゃあ、ここを持つよ」

 そう言った僕は、なんとなく、机の右端を掴んだ。

「君は左側を持って…、手前側に引っ張り出す感じでいいかな?」

 そう提案したのだが、東条健斗からの返答は無かった。

「東条…?」

 机の端は持ったまま、首だけで振り返ろうとした…。

 その時だった。

「うわっ!」

 背後から、東条健斗の情けない悲鳴が聴こえた。

 それから、ドンッ! と、何か重いものが床に転がる音。

 夢から覚めたような気分になった僕は、机から手を離し、身体ごと振り返った。

 舞い散る埃の中、ゴミ袋の山の傍に、東条健斗が横たわっていた。

 苦痛に顔を歪めた彼は、脂肪まみれの横腹を抑えて、殺虫剤を掛けられたゴキブリのようにのたうち回っている。

「おい…、どうした?」

 何かに躓いて、転んだのか?

 そう聞こうとしたとき、傍に皆月が立っていることに気づく。

 彼女は目を見開き、頬には玉の冷や汗をかいていた。うまく息が吸えないのか、肩が大きく上下し、右脚がほんの少し上がったまま固まっている。

 よく見れば、靴も履いたまま。

 明らかに、異常事態。

「皆月…? どうした?」

「帰るよ、ナナシさん。早く」

 皆月は捲し立てるように言うと、僕の腕を掴んだ。そして、強引に引っ張る。

「怪しい挙動ばっかしちゃってさ…。予想通りのことが起こりすぎて拍子抜けするわ。もう少し期待を裏切ってほしかったんだけど」

 皆月はそうぶつぶつと言った。

 何が起こったわからない僕は、引っ張られるがまま、玄関の方へと歩いて行った。

 靴を履く余裕も与えてくれず、外に出る。

「おい、どうしたんだよ…」

 新鮮な空気を吸い込んで、何があったのかを聞く。

 だが皆月は尋常じゃない顔をしていて、僕を引っ張っていこうとした。

「おい、だから…、何があったのか…」

 じれったくなった僕が、思わず声をあげそうになった、その時だった。

 ドタドタッ! と、僕の鼓膜が、床を駆ける音を捉える。

 はっとした僕は、引き寄せられるみたいに振り返っていた。

 それと同時に、開きっぱなしになった扉から東条健斗が飛び出す。その顔は怒りで歪み、真っ赤に染まっていた。

 手には…木刀。

 肌がひび割れるかのような殺気を感じ取った瞬間、僕は現状を理解した。

 だが、時すでに遅し。

 東条健斗は言葉にならない叫び声をあげると、木刀を振り上げた。

 僕は動くことが出来ない。

 顔を背けようとしたとき、皆月が横から飛び出し、東条健斗の懐に潜り込んだ。

 一瞬の迷いもなく、その細脚を引き絞り、彼の股間を蹴り上げる。

「うごああっ!」

 見ているこっちの股間も縮み上がりそうな悲鳴。

 白目を剥いた東条健斗は、一瞬、背後に倒れようとよろめいたが、すぐにその目玉がぎょろり…と動き、皆月を見下ろした。

 皆月が舌打ちをして、再び蹴ろうとする。それよりも先に、最後っ屁と言わんばかりに、その木刀を皆月の頭頂部に振り下ろしていた。

 ゴンッ! と、鈍い音。

「あうっ!」

 皆月は呻くと、叩きつけられるようにして地面に伏した。

 東条健斗も、力尽きて背中から倒れる。

 そして、静かになった。

「み、皆月…」

 我に返った僕は、関節が軋む脚に鞭を打ち、皆月に駆け寄った。

「大丈夫か?」

 彼女の肩に触れようとして、指先が凍り付く。喉の奥から、情けない悲鳴が洩れた。

 皆月の頭から赤い血が流れ出て、通路に一本の筋を描いていたのだ。

「嘘だろ…」

 心臓が逸り、息が吸えなくなる。

 頭が、割れたのか? いや、この出血量だと流石にそんなことはないよな。多分、皮膚が裂けただけ…。多分大丈夫。でも、これ、触っていいのか? 起こしていいのか?

「み、みな、皆月、し、しっかり…」

 小学校で習ったはずの応急処置のやり方すらも消去されていたのか、それとも、そもそも人を助けた経験がないのか、とにかく、僕は頭の中が色褪せていくのを感じながら、その場に立ち尽くした。

「あ、そうだ…、い、意識…」

 うつぶせになった彼女の口に耳を寄せる。

 大丈夫、ちゃんと息をしていた。

「よかった…」

 安堵の息を吐くと、多少冷静になれたようで、僕は手をポケットに入れた。

 取り出したのは、スマホ。

 救急車に連絡しようと、キーパッドを開いた、その時だった。

 僕の手元に、影が差す。

 顔を上げると、東条健斗が立っていた。その足は、まるで尿意に耐えているかのように内股で、小刻みに痙攣している。

 青白い顔をした彼の手には、木刀が握られていた。

「一つ聞くけどさ…」

 諦めた僕は、平静を装って聞いた。

「君が憶えている僕って、どんな人間だった?」

 次の瞬間、東条健斗が木刀を振り抜く。

 側頭部に強い衝撃を受けた僕は、糸を切った人形のように気を失った。

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