第50話

 お金を取ってくるから、一度、俺の部屋まで来てほしい。

 東条健斗はそう言うと、その太った身体を揺らしながら歩き出す。

 僕と皆月は顔を見合わせると、なんとなく頷き合って、その皺だらけの背中を追って歩き出した。

「この近くに住んでいるのか?」

「うん。あんまり良いところじゃないよ」

 そう言った途端、角を曲がり、日当たりの悪いじめっとした道に入る。

「今は何やっているんだ?」

「工場でアルバイトしてる」

 東条健斗は、僕の方を振り返らず、頭を掻いた。

「安月給で毎日大変だよ。まあ、全部自業自得なんだけどね」

 あっはっは…と、乾いた自虐。

「ええと…、その…、君は?」

「僕か?」

 僕は視線を足元に落とした。

「まあ、それなりに、だらだら過ごしてるよ」

「そうか…、お互い、大変だね」

 そう言った瞬間、乾いた風が吹いてきて、僕たちの頬を撫でていった。

 寒いな…そうだな…のやり取りくらいあっても良かったのに、音さえも凍り付かされたかのように、静寂が辺りを包み込んだ。

 東条健斗は、そそくさと歩く。僕はその背中を追う。皆月は、まるで関わり合いになりたくない…とでも言うように、十メートルくらいの間を開けて歩いていた。

 そうして、僕たちは言葉を交わすことなく歩き、あるアパートに辿り着いた。

 宣言通り、酷いアパートだった。

 木造二階。屋根瓦の数枚が落ちて、地面で粉々になっている。屋根の棟の部分は、心なしか歪んでいた。一階の三部屋は空き部屋。窓ガラスは割られ、壁は雨風に晒されて灰色にくすんでいる。駐車場はあるのだが、雑草が生え散らかし、おばあさんのものと思われる、汚い下着が風に揺れていた。

「俺の部屋は、二階の端」

 東条健斗は苦笑しながら言うと、今に落ちそうな階段へと歩いていく。

 途中で立ち止まり、僕の方を振り返った。

「せっかくだから、見て行けよ。俺の部屋。惨めで笑えるよ」

「…そうだな」

 正直どうでもよかった僕は、反射で頷いた。

 その時皆月が追い付いてきたので、僕は彼女に言った。

「部屋を見せてくれるってよ」

「なんでまた。興味無いんだけど」

「嘲笑えってことだよ」

 二人で一緒に階段を上り、東条健斗を追った。

 そして、砂埃が降り積もった通路に出ると、一番奥にあった扉の前に立った。

 先に入った東条健斗が、すりガラスの向こうで、ごそごそと動いている。

「開けるぞ」

 そう言ってドアノブに手を掛けた。

 捻り、引っ張った瞬間、蝶番が化け物のような悲鳴を上げる。

 扉がゆっくりと開き、現れたのは、ゴミ屋敷だった。

 玄関らしきところに、白いゴミ袋が三つ積み上がっている。その先は台所となっているのだが、コンロには黒く汚れた鍋が置いてあり、シンクは底が見えないほど、皿やら弁当箱の空やらが積み上がっている。しばらく水を流していないのか、下水の臭いが鼻を突いた。

「うわ…」

 皆月は素直に顔を顰めると、後退った。

「何この部屋。こんなところに人を呼ぼうとしたわけ?」

「ごめんごめん」

 東条健斗が、短い廊下に積み上がったゴミ袋を避けながら言う。

「笑えるだろう? すぐにお金をとるから、その辺りで待っていてよ」

「ああ、うん」

 ゴミ袋を端に追いやり、足の踏み場を作った彼は、そのまま奥の居間に入っていった。

 居間もまた、玄関や台所のように、ゴミ袋が大量に積み上がっていて、彼はその中を泳ぐように移動していた。

「ねえ。ナナシさん…」

 隣にいた皆月が、僕の手をついた。

「帰らない? 私、こういう人間嫌いなんだけど」

「じゃあ、君だけでも帰りなよ。付き合わせて悪いな」

「そういう問題じゃないの」

 皆月はもどかしそうな顔をして首を横に振る。

「…こんな得体のしれない男のもとに、女の子にフラれて傷心中のナナシさんを置いて帰れるわけないじゃん」

「心配してくれるのか? 優しいことだな」

 皆月からそういう言葉が飛び出すとは思っていなかった僕は、からかいの意味を込めて、彼女の肩を突いた。

 どうせすぐに反撃してくる…と思い、身構える。

 だが皆月は横目で僕の方を一瞥すると、ため息をついた。

「…まあ、嫌な目に遭うといいよ。人間性ってのはね、部屋に出るから」

 その時だった。

「ごめん、ちょっと入って来てくれないか?」

 部屋の奥から、東条健斗の呼ぶ声が聴こえた。

「お金を入れた袋を、壁と机の隙間に落としちゃったんだ…」

「え…」

 それはつまり、「取るのを手伝ってくれ」ということか。

「わかったよ」

 僕は何気に頷くと、玄関に踏み入れる。

 だが、生ごみの臭いが鼻を突いた瞬間、これから靴を脱いで部屋に上がり、廊下を通って居間に入った後に、ゴミの山の中から金の入った封筒を回収する…という作業が、とんでもなく億劫に思えてしまった。

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