第49話

「…小学生の頃、君を虐めてしまって、本当に、申し訳ありませんでした」

「え…」

 そう声を上げたのは、皆月の方だった。

 僕も内心驚きつつ、十円禿げの目立つ東条の後頭部を見つめる。

「…本当に、申し訳ございませんでした」

 今に泣きそうな声で、もう一度謝罪の言葉を口にする。

「ごめんなさい…」

 もう一度、そう言う。まるで、「許す」と言ってくれるまで謝るのをやめるつもりは無いような勢いだ。とは言え、身に覚えがないために、なんだか申し訳ないことをしているような気分になる。

 こいつは多分、僕の過去を復元する上で重要な人物となるだろう。どう転んだって良い…、話を聞かなければならない。そう思った。

「ナナシさん、嫌な予感がする」

「どうして、今更謝る気になったんだ?」

 風が吹きつけたタイミングで、僕は皆月の忠告を無視し、東条健斗に声を掛けた。

「ナナシさん、ダメだって」

「あの頃は、あれだけ僕のことを攻撃してきたって言うのに、どうして今更…」

 すべて憶えている…という体で話を進めた。

 東条健斗は土下座をしたまま言った。

「本当に、身勝手な理由なんだ。もしかしたら、君は、怒るかもしれない」

「さっさと言ってくれよ」

「俺も、虐められるようになったんだよ…」

 からからに乾いたスポンジを、これでもかと握りつぶして零れ落ちたような、情けない声。

「中学に入学してから…、その…、俺も周りに嫌われるようになって、あの時の君みたいに、虐められるようになったんだ。殴られたり、蹴られたり、金を集られることなんて当たり前で…、人前で裸にされたこともあったし、万引きだって強要された。それでも、みんな許してくれなくて…、それで、ある時、逃げ出して、車に轢かれて…」

 その時、僕の視線は、男の腕に引き寄せられていた。

 浮腫んだ腕の一部分だけが、まるで、脱水を掛けた後の布みたいに皺だらけになっており、黒い瘡蓋のような粉を吹いていた。

 何かの、怪我。

「腕の皮が剥げたんだよ」

 僕の視線に気づいているかのように、東条健斗は言った。

「車に轢かれて、こうなった。それで、入院して、でも、誰もお見舞いに来てくれなくて…。独りぼっちで…。そこで初めて、僕は君の心を知れた気がしたんだ」

 そこでやっと、東条健斗が顔を上げる。その目は赤く染まっていた。

「君も、俺と同じ気持ちになっていたのか…って。俺は、なんてひどいことしてしてしまったのだろう…って…」

 団子鼻から垂れた鼻水を拭った東条健斗は、頭蓋骨が割れるんじゃないか? って勢いで、地面に額を擦りつけた。

「本当に、ごめん。ずっと謝りたかったんだ。でも、その勇気が湧かなくて…。ほんと、最低な人間だよな…。ずっとずっと、逃げてきたんだから…」

 ついには、ひっくひっく…としゃくり声をあげ、背中を激しく震わせる東条健斗。

 僕の腕を握る皆月の力が、少しだけ緩んだ。

「今回やっと、君に会える機会を得た。会ったら必ず、謝ろうと思った。遅くなってごめん…」

 東条健斗の言葉を聞きながら、僕は唾を飲みこんだ。

 やっぱり、身に覚えがない。

 これだけ具体的なことを聞かされても尚、僕の脳に該当する記憶は無かった。

 もっと深く探らないとだめなのか? 全く思い出せない。

「許してくれなくてもいいから…、謝らせてほしい。誠意のある謝罪を、させてほしい」

 困惑する僕の目の前で話は進む。

「も、もういいよ」

 なんだか怖くなった僕は、投げやりに言った。

「もう、ガキの頃のことだからな…。時効だよ。今更責める気になれない…」

 そう言っても、東条健斗は、地面に額をつけたままだった。

 鬱陶しくなって、僕は少し語気を強めた。

「もういいって、顔を上げろよ」

 その言葉に、やっと泣き腫らした顔を上げる。ちゃんと、反省しているって感じの顔だった。

 僕は何かを振り払うように言った。

「謝って満足したか? だったら、もう帰れよ。もうお互いガキじゃないんだ。昔のことをずるずる引きずるなんて生産性がない」

「それはダメだ」

 東条健斗は立ち上がりながら、僕の言葉を跳ね返す。

「言葉だけで謝った気になんてなっていないよ。その…形のある謝罪をさせてほしい」

「要らない」

「頼むよ。できることなら何でもやる」

 結局、僕に謝罪した気になって自己満足したいだけの東条健斗は、汗ばんだ手で僕の腕にしがみ付き、そう懇願した。

「お願いだ…、形のある謝罪を…」

「ああ、もう、面倒くさいな」

 皆月の性格が移ったかのように、僕は舌打ちをした。

 東条健斗の手を払い除け、少しだけ考える。

 本当に、身に覚えが無いんだ。そんなやつから「形のある謝罪」を受けるなんて変な気分だ。でも、邪険に扱うとしつこいようだし…。だったら、こいつが満足しそうなものをドンと要求して、その後はきっぱりと縁を切るのに限るな。

 僕は即席で決めると、言った。

「じゃあ、飯だ。晩飯。ちょっと高いところが良い。そうだな…、イタリアン…」

 それを聞いて、彼の顔があからさまに明るくなった。

「飯…、飯か! 飯だな。よし分かった!」

 僕は皆月の方をちらっと見る。

「皆月もいいか? 僕の彼女なんだ」

「は? 違うし」

「もちろんだよ! み、みなづきさんだっけ? うん、彼女さんの分も奢るよ。そうだ、それが良い!」

 東条健斗はすっかり調子を取り戻したように言うと、脂っぽい手で僕の手を取った。

「ありがとう…、本当に、ありがとう。ありがとう…。ありがとう」

 東条健斗の野暮ったく腫れた目から、熱い涙がぼろぼろと零れ、僕の手にかかった。彼の熱が僕の肌に染みこんでくるようで、気持ち悪いったらありゃしない。

「本当に、ありがとう。ごめんね」

 まあいいや。

 こいつに話を聞いて、小学生だった頃の僕について情報を聞き出せばいいや…。

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