第47話
切りつけるような風に吹かれながら、校門を出た。
予定よりも早い切り上げに、これからどうしよう? と考える。単純に、駅まで行って、電車で帰ればいい話なのだが、なんとなく、駅とは逆の方へと爪先を向けた。
風に流されるビニール袋のように、ふらふらと歩き出す。
だが、五歩歩かぬうちに、凍っていた雪で滑った。
あ…と思った瞬間、視界が回転し、腰をしたたかに打ち付ける。まだ、学校の中庭から見える距離にあった。
見られたかな? いや、大丈夫だろう。
涼しい顔をした僕は、金網を掴んで立ち上がる。
「薄情者」
背後から皆月の声がして、僕の背中に突き刺さった。
恐る恐る振り返ると、案の定、彼女が立っていた。
泣きそうな顔をしている僕を見た皆月は、ふんっ! と鼻を鳴らし、足元の雪を蹴りつけた。
「好きな女の子が吐いて蹲ってるのに、心配もしないで帰るのね」
「………」
そこで僕は、アサのことを思い出した。そして、胃粘膜を虫が這うような感覚に襲われ、思わず口を抑える。吐き気は一瞬だった。すぐに、毛が逆立つような怒りが肌を走り、その勢いに任せて雪を蹴り飛ばす。
「くそっ! アサの野郎!」
靴に雪が染みていくのがわかった。
「どーんまい」
皆月は、人の不幸は蜜の味…と言わんばかりに笑った。
「私の言った通りになったね。人ってのは変わるもんなんだよ。五年もあればね」
「ああ、変わったよな…」
あれだけ僕に優しくしてくれたアサは、僕に「嫌い」という言葉を吐き、まるで悲劇のヒロインを気取って、周りの同情を買うような、小賢しい女になってしまった。いや、変わったんじゃない。化けの皮が剥がれたのだろうか?。
島田だって変わった。何なんだよあいつは。散々、人のこと殴る蹴るしてきたくせに、今更改心したふりをしやがって…。いや、改心したと見せかけて、結局は沢渡を宥める時に、暴力にものを言わせようとしていた。
あんな奴と手を繋ぐなんて、まっぴらごめんだ。
「ああ、そうだ、皆月お前…」
アサ、島田と続き、僕は皆月に怒りの矛先を向けた。
「お前さ、アサが倒れた時、介抱に行ってただろ?」
「ああ、行ったよ」
皆月は頷き、首を傾げる。
「何がいけないの?」
「この裏切り者」
「裏切り者? 心外だね。人間なら当たり前のことをしたまでなんだけど」
肩を竦めた皆月は、淡々と受け流した。
自棄を起こしているとは言え、我ながら幼稚な発言だった思った僕は、怒りの矛先を向けあぐねて、「くそ…」と悪態をつく。
皆月に背を向けて歩き出そうとすると、彼女が言った。
「うそうそ、ごめんごめん」
「え…」
振り返ると、何やら黒い物体が、僕めがけて飛んできた。
反射的に手を出すと、確かな感触と共に、それが僕の掌に納まる。
落ちないようしっかりと握りしめてから、開いて見ると、それはプラスチック製の黒い記憶媒体だった。その端子は、USBやHDMIとは似ても似つかない、特殊な形状をしている。
これ、名前は確か…。
「ビタースイート。と私たちは呼んでる」
「ああ…、そうだったな」
どんな人間にも名前はある。姓名変更師らが「ビタースイート」と称して使っているこの機械は、確か、端子を皮膚に押し当てることで、その肉体に刻まれた名前を読み込むことができるんだったっけ…。
「それがどうしたんだ?」
「介抱してるふりをして、アサちゃんの身体から名前を読み込んでおいた」
「え…、うそ」
「ほんと」
皆月はしてやったり顔で舌を出していた。
「プライベートに関わる問題だから、本当は規約違反なんだけどね。まあ、私は個人で活動してるから、別にいいでしょ。帰ったら早速読み込もう。なんでアサちゃんはあそこまで歪んでしまったのか、きっとわかるはずだからね。まあ、ナナシさんの記憶が美化され過ぎていた…っていうのもあるかもしれないけど…」
そう言う皆月の顔は、何処か楽しそうだった。
ニヤッと笑う。
「この際だから、ナナシさんに関係ない過去も見ちゃおうよ。あの子が初めてオナニーのおかずにした人とか、処女を捧げた相手とか、いろいろわかっちゃうよ。良い仕返しになると思うんだけどね。この僕をコケにした女の生理周期を、僕は知っているぞ…って」
「…いや、いい」
周りに誰もいないとはいえ、平然と卑猥なことを言う皆月に、僕は消え入るような声で首を横に振った。
「意味がない」
「意味?」
「結局、僕が何も得られなかったことに代わりは無いんだ。ただの、負け犬の遠吠えだよ。そもそも気持ち悪い」
足から力が抜け、ふにゃり…と、その場にしゃがみ込む。お尻が濡れようが構わなかった。
「ああ、くそ…」
黒く濡れたアスファルトに視線を落とす。
「なんで、こうなっちゃったんだろうな…」
馬鹿な男の勘違いだったのだろうか? 本当はちょっと優しくしてもらっただけで、僕とアサには何の接点も無かったのかもしれない。それとも、当時からイカれていた僕の、悍ましい妄想か? はたまた、蘇った記憶が錯綜しているのか…。
いずれにせよ、せっかく、消えてしまった過去から、掬い上げるように思い出した、貴重な情報なのだから、こいつくらいは美しいものであってほしかった。
「…せめて、これくらいは…」
そう言っていると、皆月がスカートを揺らしながら歩いてきて、僕の目の前に立つ。見下ろすその目は、侮蔑…というよりも、哀れみに満ちていた。
「まあ確かに、ナナシさんの言うとおりだね。原因を探ったところで、ナナシさんの過去が悲惨なものであることには変わりはない」
それに…と言って続ける。
「アサちゃんに限らず、他の人間と再会してみて、どうだったの? 良いものは見つかった? それとも、悪いものばかりだった?」
「後者」
「でしょうね」
わかり切っていた皆月は、食い気味に頷く。
「それで? どう思った?」
「うらやましいと思った」
そう洩らした僕は、空を仰ぐ。憎たらしいくらい青かった。
涙が零れそうになったからあわてて拭う。皆月は、揶揄ってこなかった。
「みんな、きっと、価値のある人生を送っているんだろうな…って」
何となく、アスファルトを指でなぞる。
「きっと、僕はそういう人生を送ってきていない。これからも、送ることができないんだろうな…って、強く実感したよ」
「これからどうするの?」
皆月は淡々とした口調で聞いてきた。
僕は鼻で笑う。
「ゴキブリみたいに、部屋でじっとして、しくしく泣くとするよ」
「違う。まだ続けるの? って。もうこれ以上過去を探ったところで、嫌な目に遭うだけでしょう? それでも、続けるの?」
「続けるさ」
僕はヤケクソと言わんばかりに、そう放った。
「惨めに、僕の過去を見つめ続けてやるさ。そして、その度に絶望して、泣いてやるんだよ」
「いやよ、そんなの。見ているこっちが病気になっちゃう」
僕の発言を、皆月は蚊を叩くみたいに一蹴した。
「考え直してよ。もう十分わかったでしょう?」
「何を」
「ああ、もう…」
拗ねて話が通じていないふりをする僕に、皆月は頭を抱え、軽い地団太を踏んだ。
「ほんとむかつく。今回ので実感したでしょ。過去を書き換える方が断然いいってことになんで気が付かないわけ? なんで、こんな価値のない、ゴミみたいな過去に縋るのよ」
言った後で、彼女は首を横に振った。
息を吸い込み、吐き、肩の力を抜いて、苛立ちに支配されようとしていた己を自制すると、ゆっくりと口を開く。
「辛いんでしょう? だったら、救われちゃおうよ。私なら、ナナシさんが救われる過去を書いてあげられるの」
「………」
僕は何も言わない。視線を落とし、濡れたアスファルトを眺めた。
皆月は息を吸い込むと、しゃがみ込み、僕と視線を合わせた。
まるで餓鬼に言い聞かせるみたいに言った。
「過去ってのはね、人の歩みを止めさせるの。足枷みたいに纏りついて、その人が生きる邪魔をする。それを取り除く…つまり書き換えるのは悪い事なのかな? むしろ、良いことじゃないのかな? だって、私たちが生きてるのは『今』で、向かっているのは『未来』なのよ。過去なんて関係が無い…」
「惨めじゃないか」
言葉が口を衝いて出た。
皆月が何か言おうと、息を吸い込むのと同時に、僕は捲し立てる。
「過去を変えるってことは、僕が僕として生きてきたことを否定するってことだろう? 他のやつらが、過去になんて手を加えずに、堂々と生きてるってのに…」
「だからそれは」
「僕には、名前があるはずなんだ。世界でたった一つの、惨めな名前が」
くつくつ…と、腹の底で、何かが煮えている。でも、指先が凍り付いたように冷たくなっていて、だらだらと言葉の輪郭をなぞる唇も、風に当てられてひび割れた。
「誰にも頼ってたまるか。僕は手にしたもので、生きていきたいと思うだけだよ…」
僕には名前があるはずなんだ。立派な名前があるはずなんだ。世界にたった一つの名前があるはずなんだ。何にも変えられない名前があるはずなんだ。僕だけが歩んでこられた、人生があるはずなんだ…。惨めだとはわかってる。価値が無いことは身に染みた。
でも、もしかしたら…。
「くそ…」
握りしめた拳を振り上げる。
八つ当たりをすべく、そいつを太ももに叩き込もうとした瞬間、横から手が伸びてきて、僕の腕を掴んだ。
雪女のように冷えた指。僕の皮膚に食いこんで、その冷たさと痛みが、浮かび上がりそうになっていた僕の意識を引き戻す。
僕の顔をじっと見つめた皆月は、静かに、首を横に振った。
「それは、ただの自棄だと思う。ゴミはゴミ。じっと見つめていたって、宝石に変わるわけじゃない。ゴミを頭に付けていたって、笑われるだけ」
そう言うと、ゆっくりと、僕の腕から手を放した。
「もう一度言うよ。過去を変えることは、悪い事じゃない」
そんなのわかってるよ。頭では、わかっている。
「生きていくためなんだ。ナナシさんが笑って、明日も、生きていくためだよ。実際、名前が消える前のあなたは、過去を書き換えて生きることを選択したじゃない」
忘れちゃった? と、彼女は首を傾げた。
「ナナシさん、あなた、一度自殺しようとしたことがあるんだよ?」
「……………」
ああ、そうだったな…。
埒が明かない話に、皆月はため息をついて、僕の腕を引っ張った。
「とにかく、今日は帰ろう。ナナシさん疲れてるでしょう? 一緒に帰ってあげるから。このままだと、なんか車に轢かれそうだし」
そして強引に立たせる。
だが、脚に力が入らなかった僕は、そのまま、すとん…と尻もちをつく。
皆月は舌打ちをすると、また僕の腕を掴んだ。
「しっかりしてよ」
「…君はもう帰れ」
僕は乾いた声を絞り出した。
「もうしばらく、惨めな気分でいるよ。寒い中、付き合わせて悪かったな…」
「何を今更。これは仕事だから」
皆月が僕の腕を引っ張る。それでも僕が動こうとしないから、軽く脛を蹴ってきた。
「ほら! もう、帰るよ! 腹立つなあ」
「もういいって!」
叫んだ瞬間、皆月に触れられた腕の中の血が、泡を立てて熱くなったような気がした。
筋繊維が収縮して、まるで打ち上げられた魚のように跳ねあがる。その拍子に、手の中に痺れるような感覚が走った。
パンッ! と乾いた音が、灰色の空に吸い込まれる。
僕の世界を、凍り付かせる。一瞬、白く褪せる。
再び視界が明瞭になった時、皆月が僕の前に蹲っていた。
彼女は頬を抑えて、歯を食いしばっている。その隙間からは「いったあ…」と声が洩れ、唇の端を涎が伝った。
「み、皆月」
とんでもないことしてしまったのだと気づいた僕は、彼女の前にしゃがみ込んだ。
腕を掴み、手を離させる。
案の定、皆月の頬は、人の手形の形に赤く染まっていた。
「ご、ごめん…。本当にごめん。大丈夫か?」
慌てて謝った。
「いや、いいよ、別に」
皆月は僕の方は見ず、首を横に振った。
「興奮した犬に噛まれて怒るほど、私も馬鹿じゃない」
「…いや、その」
「だから、もう少し落ち着こうか…」
皆月は頬が腫れたまま顔を上げ、少し疲れた目で僕を見つめた。
「帰ろう…。今は帰って、休んだらいいよ」
「ああ、うん…」
頭が冷えた僕は、ばつが悪く頷いた。
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