第45話
「お前、やっぱり僕のことわかってないだろ」
「…………」
アサは、頭を潰されたカナヘビのように黙り込んだ。
「いいや…」
十数秒ほど固まった後、観念したように肩を竦める。
憔悴した目を細めると、ため息交じりに言った。
「ちゃんと、あなたのこと、憶えてるよ」
「え…」
僕のことを、憶えてる?
じゃあ、なんで、取り繕ったような顔をしたんだよ。
「だって、あなたのこと嫌いだもん」
僕の心を読んだかのように、アサはそう言った。
「適当に受け流そうとしたのに…」
そう言われた瞬間、逸っていた僕の心臓が、爆発するような感覚があった。
肩を竦めた彼女は、右足を半歩下げる。肩をやや傾けると、上目遣いに僕を見る。その目は、睨んでいるようにも、悲しんでいるようにも見えた。
五秒ほど僕を見たアサは、姿勢を正し、僕の横を通り過ぎていこうとした。
「ま、待てよ」
僕は咄嗟に、アサの腕を掴む。
瞬間、彼女は熱いものに触れたかのように、僕の手を振り払った。
「もう、行っていい?」
「ど、どういうことだよ。なんで、僕のことが…」
「言う必要なんて無いわ」
アサは食い気味に言うと、ネイルの輝く指を、唇に押し当てた。
「それが大人ってものでしょう?」
「あ…」
頬を汗が伝う。
なぜ、取り繕ったような顔をしたのか…。それは、大人になったアサの優しさというわけだ。
「それとも、何なの? 理由を聞かされて、がっかりしたい? そりゃあ仕方がないって、あなたは笑い飛ばしてくれるの?」
「いや…、それは…」
何をどう返せばいいのかわからなくなって、僕は目を泳がせた。
目の前のアサは、ため息をつく。
「無理よね。中学の頃にちょっと優しくされたくらいで、大人になっても、犬みたいに駆け寄ってくるんだから」
手が伸びてきて、僕の肩を掴んだ。
ネイルで装飾された、綺麗な爪だ。ハンドクリームを毎日塗っているのだろうか? 皺ひとつ、あかぎれひとつ無い。薬指には、銀色の…。
「あ…」
「中学のことは、お互いに忘れよう。その方がお互いのためだから…。あなたも…、ええと、名前、なんて言うんだっけ? 忘れちゃったな。とにかく、あなたも私のことなんて忘れて、気楽に生きなよ」
手を離す。そして、今度こそ踵を返し、和気藹々としている旧友のもとへと歩いて行こうとした。
「待てよ…」
引き下がれなかった僕は、しつこく彼女の手を掴んだ。
アサが首だけで振り返る。その目は、汚物を見ているかのようだった。
「た、頼むよ。僕は、君にどうして嫌われたんだ?」
「気にしないで良いよ。全部、私の勝手だから」
「僕は君に感謝しているんだ。それを伝えたくて、今日だって、来たくなかったけど、ここに来たんだよ」
一歩踏み出す。
アサは何かに押されたように、二歩下がった。
僕は三歩進み、狭窄した視界の中で言った。
「君に会いに来たんだ…」
「ご、ごめん」
何か後ろめたいものがあるかのように、彼女は目を逸らす。
その綻びのようなものに指を突っ込むように、僕は捲し立てた。
「君が僕のことを嫌いになったのはわかったよ。でも、その理由を教えろよ。記憶の中じゃ、今でも君は聖女だ。どうしてこんなことになってしまったのか、教えてくれよ」
「い、嫌だ…」
アサは何かに怯えるように、首を横に振った。
その、駄々を捏ねるガキのような様子に、僕は段々とイライラしてきた。
その唇から、僕についてのことを言わせてやりたいと思った。
「僕のこと、憶えてるだろ?」
「知らない。憶えてない」
「なんでそんなこと言うんだよ。なにが、どう…」
「嫌い…」
アサの顔は青くなっていて、ブーツを履いたその足は、酔っぱらったように不規則な歩を踏んでいた。指は小刻みに痙攣し、握っていた鞄をぽとり…と落とした。
茶色に染められ、パーマのかかった髪。耳たぶで揺れる三日月のイヤリング。煌めくアイシャドウ。艶やかなネイル。鼻を掠める、薔薇の香水。胸はあの時よりも大きくなって、薄手のセーターがその輪郭を綺麗になぞっている。
褪せる僕の視界には、大人の女性へと変わったアサが映っていた。
あの日の美しき思い出は、もう、何処かに行ってしまっていた。
「アサ…」
その時だった。
「はあ…、はあ…」
一文字に結ばれていたアサの口が、だらしなく開いた。
喉の奥から、木枯らしのような息が洩れ、その呼吸が段々と速くなっていく。
肌が青く染まり、黒曜石のような瞳が濁るのがわかった。
見ると、その足も生まれたての小鹿のような痙攣を始めている。
「え、アサ…」
彼女の異変に気付き、名を呼んだ、その時だった。
「おい」
背後から男の声がしたかと思うと、誰かが僕の肩を掴んだ。
瞬間、強引に振り返らされる。
そこに立っていたのは、髪をオールバックにして、品格のあるスーツを身に纏っている男だった。
気づくのが遅れたが、そいつは、僕に招待状を渡してくれた彼だった。
「あ…」
悪戯がばれた時のような、情けない声が洩れる。
次の瞬間、男の放った拳が、僕の顔面にめり込んだ。
バチンッ! と、暗転した視界の中に、火花が弾ける。
殴り飛ばされた僕は、アスファルトに背を強く打ち付け、快晴を仰いだ。
「く…、あ…」
鈍い痛みに身悶え、のたうち回る。地面に額を擦りつけた拍子に、蛇口をひねった時のように、鼻血がびちゃびちゃ…と滴った。
「な、なに…」
顔を上げると、男が僕を見下ろしている。言うまでも無く、その目は汚物を見るようだった。
僕は喉に流れ込んだ血を飲みこむと、鼻の下を拭った。そして、精いっぱい男を睨み上げる。
「なんだよ」
「なんだよじゃないだろ」
男は冷たい声で一蹴した。
「お前、来るなっつったよな? 何来てんだよ。しかも、朝子に詰め寄って、困らせて…」
そう言いながら、男はアサの方を振り返る。そして、驚嘆の声を上げた。
「朝子!」
アサはその場に蹲り、肩を激しく上下させながら吐いていた。
「アサ…」
彼女の尋常じゃない様子に、僕は怒りを忘れて駆けよろうとする。
だが、すかさず横から拳が飛んできて、僕を殴り飛ばした。
「てめえ! 朝子に何しやがった!」
地面に転がった僕は、すぐに顔を上げた。
僕が駆け寄るまでも無く、倒れ込んだアサには、七、八人の同級生らが駆け寄っていて、介抱をしていた。
どういうわけかその中に、皆月も混ざっていた。
「ああ…?」
あいつ…、何やってんだ? あいつもアサの味方をするのか?
裏切られた気分になり、僕は頬をガリガリと掻く。歯を食いしばった時だった。
目の前に男が立ちふさがり、僕の胸倉を掴んで立たせた。その拍子に、シャツのボタンが弾けて、足元に落ちる。
「お前よ、どういうつもりだ? 招待状も無いのに同窓会に紛れ込んで、それで? アサに詰め寄って泣かせて、どういうつもりだよ」
「い、いや…」
ちらりと見ると、体育館前で和気藹々としていた彼らが、一斉に僕の方を見ていた。言うまでも無く、その視線は冷たかった。
「話を…」
話を聞いてくれよ。
そう言おうと思ったのだが、その気は失せた。きっと、何を言っても無駄だと思った。
…多分、全部僕が悪い。
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