第44話

 その時だった。

「あ…、誰か来た」

 皆月が声を上げた。

 見ると、彼女は校門の方に視線をやっていた。

 釣られて、僕も校門を見る。

 風に吹かれながら、若い女が校内に踏み入れているところだった。

 どうせ、同窓会の参加者。俯き加減で、薄紅のセーターの上に、ベージュのコートを纏っている。柔らかそうなフレアスカートの裾からは、黒いブーツが覗いていた。

 反射的に、僕は視線を滑らせて、その顔を見た。

「あ…」

 その女が誰であるかを理解した瞬間、ぼんやりとしていた視界がはっきりと輪郭を結んだ。そして、凍りかかった心臓が瑞々しく脈動するのが分かった。

「行ってくる」

 皆月にそう告げると、僕は脇目も振らず走り出す。そして、その女が人込みに紛れるよりも先に、前に立ちふさがった。

「アサ…」

 その名を呼んだ瞬間、女は立ち止まり、俯いていた顔を上げた。

 僕の記憶に残る少女の面影を残した、綺麗な顔だった。

 少し濃いと思える化粧に、ツンと伸びたまつ毛。耳には月の意匠のイヤリングが揺れ、ショルダーバックの紐を握る手には赤いネイルが煌めいている。あの頃の素朴な印象は消え失せていたが、その瞳に宿った奥深い色は、間違いなくアサのものだ。

 僕は沸き上がる感情を必死に抑え、嬉々として言った。

「久しぶり、アサ…」

 喜ぶと同時に、祈っていた。

 僕のことを、思い出してほしい…って。

 今の僕には名前が無いけれど、僕の顔を見て、記憶を通して、五年前のあの日、手を差し伸べた男であると、気づいてほしい…って。

 きっと、気づいてくれるだろう…って。

「あの、誰ですか?」

 アサは怪訝な顔をすると、首を傾げた。

「あ……」

 喉の奥で何かが潰れて、熱いものがこみ上げるような感覚がした。

「ああ、ごめん、わ、わからないかな」

 あからさまに動揺した声で言うと、首を傾げる。

「中学生の頃、一緒だったんだけど…」

「あ、ええと、その…」

 ただ、あの頃の優しさは健在のようで、彼女は僕を失望させまいと、その絹のような頬に手を当て、考え込んだ。俯き、上目遣いで僕を見る。

「ええと…、その…、あれよね…」

 必死に、僕の名前を引き出そうとしていた。

「その…、あの…、だから…」

「うん」

 僕は拳を握ると、赤子が立ち上がるのを見届けるかのように、彼女の口から僕についての言葉が放たれるのを待った。

「うん、覚えがある。ええと…、同じクラスだった」

 そうだ。同じクラスだった。

「ま、前の方の席に座ってた」

 前の方の席に座ってたこともあったよな。

「え、遠足で、同じ班に…、なった、ような…」

 それはよく覚えていない。

「す、すごく、き、気さくな…」

 気さくだったのだろうか? あの頃の僕は。

「ええと、その…、うーん…、ちょっと待ってね」

 アサは身震いすると、かじかんだ白い指で、己のこめかみをトントン…と叩いた。

 トントン…、トントン…と叩いて、記憶を刺激する。

 うん、その調子だ。きっと思い出せるよ。きっと大丈夫。僕の名前がこの世から消え去ろうと、決して忘れることができない強固な記憶が、君の中には眠っているんだ。

 さあ、思い出しておくれ。

 あの日、僕に差し伸べてくれた手を。

 あの日、僕に語り掛けてくれた言葉を。

 そして、僕と触れ合った、唇を。

「ええと…、その…」

 だが、十秒経っても、二十秒経っても、そして、一分が経過したが、アサの口から僕についてのことが語られることは無かった。名前は消えているから、それを思い出せないのはわかる。でも、僕と過ごした過去さえ出てこないのはどういうことだろうか。

 もどかしくなって、僕は腕を広げた。

「アサ、ほら、僕だよ。僕」

「ご、ごめんなさい」

 アサは泣きそうな声をあげ、俯いた。

「私、あなたのこと、知らない気がするの…」

「え…」

 その言葉を聞いた瞬間、全身に鳥肌が立った。

 視界が一瞬暗転し、地面が泥のように柔らかくなった気がした。

 よろめいた僕は何とか踏みとどまり、脳に酸素を回すと、無理に笑った。

「あ、そ、そうなのか…」

 声がどうしようもなく震えていた。

「そっかそっか、残念だな…」

 あははは…とわざとらしく笑い、頭を掻く。無意識だったために、ガリガリ…と、頭皮が剥げるんじゃないか? ってくらい、強い力だった。

「まあ、そうだよな。五年も経っているんだから、そりゃ忘れるよな」

 まあ、仕方がないことなのだ…と自分に言い聞かせた。

 僕が助けてやらないと。

「僕だよ、僕…」

 若干の失望を抱きながら、僕は腕を広げて微笑んだ。

「中学生の頃、虐められててさ…。すごく情けない奴だった。だけど、君が助けてくれたじゃないか。放課後に、よくおしゃべりをして…」

 これはもう、答えを言っているようなものだった。

 彼女の中で見えなくなってしまった記憶に手を伸ばし、掴み、取り出し、眼前に突きつけて揺らしているようなものだった。

 頼むよ、思い出しておくれ。

 そう願った瞬間、困惑していたアサの様子に、変化があった。

 明らかに何かに気づいたように、一瞬目を見開き、でもそれを悟られまいと顔を伏せる。そして、何かを決心したように顔を上げ、あからさまな声を上げたのだ。

「ああ! うんうん!」

 そして、白い息を吐きながら言った。

「お、思い出した! うん、そうだったね! 確か、放課後に…」

「思い出したか」

 僕は安堵の息を洩らし、握っていた拳を緩めた。

「よかったよ、思い出してくれて…」

 息を吸い込む。

 募る話があるんだ。今じゃなくても良いから、後で会うことはできないか?

 そんな言葉を喉の奥で作りながら、僕は改めてアサの顔を見た。

「…………」

 その瞬間、まるで足元に奈落が発生して、僕を終わりの無い底へと引きずり込むかのような感覚が全身に走った。

 それは、アサの顔ではなかった。

 いや、ふっくらとした頬とか、通った鼻筋とか、柔らかなまつ毛、笑った時にきらりと光る白い歯なんてものは間違いなくアサのものだった。僕の目の前にいる者は、間違いなくアサの顔をしていた。でも、その笑顔から漂うものは、五年前のあの時に感じたあの柔らかな熱ではない。むしろ反対の、この冬にも勝る冷たさ。

 粘土をこねくり回して、鉄板の上に貼り付けて取り繕ったかのような、何とも腹立たしい顔をしていた。

「懐かしいねえ。かっこよくなっちゃってたから、忘れてたよ~」

 アサは可愛らしい笑みを浮かべながらそう続けた。

「今は何やってるの?」

「おい、アサ…」

 僕は、海から上がった時のような鈍い感覚を抱いて、言った。

「お前、やっぱり僕のことわかってないだろ」

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