第43話

「最悪の気分だ」

 そう吐き捨てると、皆月の横に座る。そして、膝に顔を埋めた。

「くそ、嫌なこと、思い出した…」

「じゃあ、それ教えて。メモとるから」

 皆月は淡々と言うと、ボールペンをノックする。

「ええと、二人くらいと話してたよね? あの最初の女の人は誰なの? ナナシさんとどういう関係なの?」

「ちょっと、今は無理」

 嫌な過去を思い出して、気分が悪くなっているんだ。今、アウトプットなんてしようものなら、ゲロどころか内臓が吐き出されてしまうような気がした。

「少し、休む」

「休む時間なんて無いでしょ。できる限り全員と話して、それから、全員の名前と、どういう関係だったかを思い出して」

「無理、行きたくない」

 僕はガキみたいに首を横に振った。

 そんな僕に、皆月は呆れたようなため息をついた。

「わかり切ったことでしょ。ナナシさんあんた、治安の悪い場所とわかっていて行ったくせに、いざ刺されたら悲劇のヒロインぶるタイプ?」

「わかっていても、心に来るものだよ」

 顔を上げた僕は、涙が滲んだ目を拭い、離れたところで和気藹々とする級友らの様子を見た。

「まあ、こんなものだろうな」

 僕は中学時代から、周りの者に邪険に扱われていた…というわけだ。

「ああ、そうだ…、どんどん思い出してきた…」

 確か二年の春くらいに、僕は伊村にこんなことを言われたんだっけか…。

『死人みたいな顔をしているね』って。

 何のタイミングで言われたんだっけ? 確か、何気ない日常会話の中だった。本当に、ふとしたタイミングで、そう言われたんだ。今思えば、それはイジリで笑いを取るようなものだったのかもしれないが、当時の僕にはかなり堪えて、以来あいつのことが大っ嫌いになったんだ。

 それだけじゃない。伊村と話していた女…、藤宮志保にも、こんなことを言われた。

『貧乏が移る』って…。

「…………」

 伊村に言われたことはどうでもいい。もう笑い飛ばしてやるよ。

 でも、藤宮志保に言われた言葉、「貧乏が移る」って、どういうことだ? そのまま捉えるとしたならば、当時の僕が、みすぼらしい貧乏人だったってことなんだが…。

 そう言えば、僕の幼少期って…、どんなものだったんだっけ…?

 確か…。

「それで? ナナシさんにしつこく話しかけていた人は誰?」

 記憶の糸を辿ろうとした瞬間、皆月の声が割り込んできた。

「あの身体つきの良い人。あの人だけは、なんか、ナナシさんのことをよく知っている風だったね。ってか、今も見てきているし…」

 顔を上げると、人混みの隙間から、島田はまだこちらの様子をチラチラと伺っていた。

「島田啓馬ね…」

 僕は彼の方を見ながらそう言った。

「僕のことをサンドバックだと思ってたやつ」

「サンドバック…」

 皆月は一瞬固まったが、意味を理解したのか、「ああ…」と洩らした。

「そんな回りくどい言い方しなくたって、『虐められていた』で十分よ。それで? いつ頃から虐められてたの? どんな感じの虐められ方をしてたの? それはどのくらいまで続いていたの? あと、さっきの会話の内容も教えて」

 僕はため息をつくと、頬を掻いた。

「よくもまあ、心に傷を負ったやつにそうずけずけと尋ねられるよな」

「仕事だから」

「あのなあ…」

 まあ、いいや…。

 喉の奥に苦いものがこみ上げるような気がしたが、唾と一緒に呑みこみ、言った。

「あいつ、結構上手いサッカー選手だったんだ。代表選手にも選ばれて、みんなの尊敬の的になる奴…。それを鼻にかけて、好き勝手やってたんだよ。人のこと蹴って、パシリに使ってた」

「ナナシさんってパシリだったんだね。何円むしり取られたの?」

「いや…、あいつは、金持ちのボンボンしか狙わなかったから、僕から金は取られてない。でも…、よく蹴られたり、殴られたりした。担ぎ上げられて、真冬の濁ったプールに突き落とされたり…」

 そこで、言葉が途切れる。

「なになに?」

 皆月が耳を寄せてきた。

 僕は仕方なく言った。

「その…、一回、裸に剥かれて、女子の前に放り出されたことあったわ…」

「へえ…」

 恥ずかしくて皆月の顔は見なかったけれど、きっと空を貫くくらいに、口角が上がっているのだと思った。

 僕は頭を掻いて、無理やり話を終わらせる。

「もういいだろ。とにかくあいつには、嫌なことばっかりされてきた。二年と三年の間はずっと…」

「それで? さっきは何の話をしていたって?」

「…………」

 もう口を開きたくなかったが、鬱憤晴らしのつもりで言った。

「僕に、謝りたいんだとよ」

「へえ」

 皆月の顔を見ると、やっぱり、その口元は三日月のように歪んでいた。

「良かったじゃん。もう苦しめられることは無いね」

 心にも思っていないことを、彼女は明瞭に放つ。

 僕はため息をつき、頬杖をついた。

「天罰の一つでも落ちたらよかったのにな…」

 僕の一言に、皆月は耐えきれなくなって吹き出す。

「なにそれ」

 僕は気にせず続けた。

「あいつ、スポーツ推薦で中心大学に行ったんだとよ。有名大学。小豆島のことを『アズキトウ』って読んでたやつがだ。楽でいいよな。玉遊びしてるだけで、有名企業への就職も決まってるって。まあ、それだけ恵まれているからこそ、クズで、人間だとも思っていない男に謝ろう…っていう心の余裕ができるんだろうけど…」

「九十分走り続ける地獄にぴったりの待遇だと思うけどね」

 皆月はそう乾いた声で言いながら、左手のメモに何やら書き綴った。それから、僕の真似をするように頬杖をついて、島田の方を見る。

「良い名前だね。あの人」

「え…」

「運のいい名前だ。あの名前にはきっと、栄えある過去が保存されてるんだろうね。そして、そういう過去を持つ人は大体、これからの未来も保証されている…」

 ペンを耳に掛けた皆月は、空いた手を掲げ、閉じたり開いたり、開いたり閉じたり。

「きっと、途切れることなく、幸運があの人にはやってくるんだよ」

「…そう」

「そしてナナシさんには、惨めな人生が待っていると」

「うん、知ってる」

「別に不平等じゃない。これが世界の仕組み。不平等が平等なんだと、私は思うけどね」

「よせよ」

 僕は皆月を手で制した。

「別に、世の条理を憎んでるわけじゃない。そう話を壮大にしないでくれ。気分が悪い」

「じゃあ何が言いたいの? さっきから恨めしそうに、周りを見ちゃって」

 皆月は仕返し…と言わんばかりに、僕の脇腹を小突いた。

 僕は横目で彼女を睨みながら、ぽつりと言った。

「ただ、あの中に入って見たくなっただけだよ…」

 別に、世の中が不平等だって構わないさ。幸せな奴がいれば、そうじゃない奴がいたってもいい。そうしないと、成り立たないんだろう? でも、僕一人くらい、「あっち側」に立ったって、変わらないと思うんだけどな…。

 当たりの多いくじを引いて、「アタリ」を引くだけ。

 綺麗な水で満たされた湖に、一滴だけ、泥水が落ちるようなもの。

 ただそれだけのことが出来ず、過去改変…だなんて脆弱な行為に走った過去の自分に腹が立つ…ただそれだけだ。

「ああ、帰りたい…」

 膝に顔を埋め、そう洩らした。

 その時だった。

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