第42話
その時だった。
僕の視界に、男の顔が割り込んできた。
「え…」
思わず声が出て、半歩下がる。
二十代とは思えない老けた顔をしていて、服もジーパンにスカジャンと、時代を感じさせるものとなっていた。一瞬は学校の先生かと思ったが、先生というほどは老けていない。髪を赤茶色に染めている…。
男は「うーん」と唸ると、顎の髭を撫で、何か思うような顔をしている。
男に見られるのが耐えられなくなって、僕は聞いた。
「あの、何か…」
それでも男は何も言わず、十秒ほど僕の顔を見つめ続けた。
そして、一言。
「お前、オレが虐めてたやつか?」
「え…」
僕を、虐めていた男…。それを聞いた瞬間、まるでビルの屋上から落ちたかのように、全身が強張り、皮膚が粟立った。冬だというのに、全身が熱くなり、汗が頬を伝う。
「え…、え、え?」
思い出したくない。こいつだけは思い出したくない…。
アラートでも鳴らすみたいにそう思ったが、僕が耳を塞ぐよりも先に、彼は名乗った。
「俺だよ俺。島田啓馬。憶えてるだろ?」
島田啓馬。
その名前が、殴るような勢いで飛んできて、僕の鼻先に激突する。鼓膜を介さず皮膚に染みこみ、脳ミソに伝わった。
その瞬間、皮膚を虫が這うような感覚と共に、忌まわしい記憶が蘇った。
「あ…」
笑い声。にやけ面。赤い血…。
ふらふらと後ずさった瞬間、踵がタイルの段差に引っ掛かり、よろめいた。
転びそうになったところを、島田啓馬と名乗った男が掴んで止めた。
「大丈夫か? 悪いな、驚かせちまって」
僕の腕を強く掴んだ彼は、慈悲を感じさせる声でそう言った。
「あ、ありがとう…」
だから僕は、思わず感謝を述べてしまった。
「久しぶりだね…、島田くん…」
島田啓馬は、僕を虐めていた奴の一人だった。
サッカー部に入っていて、凄く筋肉質な身体をしていた。確か、一度県代表に選ばれたんじゃなかっただろうか? 実家も金持ちで、爽やかな顔をしていた。でも、性格は凄くきつくて、機嫌が悪いときは人に暴力を振るっていた。その素行の悪さは度々問題となっていたが、本人はまったく気にしていなかった。
僕は彼の、鬱憤晴らしの捌け口となっていた。
何かにつけて殴られた。教室にいる時、廊下を歩いている時、放課後帰ろうとしたとき。その丸太のような脚で、身体中のあちこちを蹴られたんだ。一度、打ち所が悪くて、骨にひびが入ったこともあった気がする。
そう言えば、最初に僕を虐め始めたのも、こいつだった気がする。
そして、こいつのせいで、僕は他のやつにも蔑まれることになったんだ。
一番思い出したくなかった記憶。
一番、再会したくなかった男。
それが、今僕の腕を掴んでいる、島田啓馬という男だった。
「なに、どうしたの?」
僕は彼の目を見ず、捕まれていない方の腕で頬を掻きながら聞いた。
「また、殴る気?」
「ああ、いや、その気はない。悪かったな」
てっきりまた馬鹿にされるものだと思っていたのだが、彼はあっさりと首を横に振り、手を離した。そして、情を感じさせる力で、僕の肩を叩く。
「中学生の頃、暴力振るって悪かった。もう、反省してる」
あっさりとした口調。本心かどうかわからない。
でも、僕の顔を覗き込んでまでこれを言ったってことは、そういうことなのだろうか…。
「それで、本当に失礼なことを聞くんだけど、お前の名前って…」
「あ、啓馬君だ!」
彼の言葉を遮って、女二人が割って入ってきた。
はっとした島田啓馬は、僕から目を逸らす。
その瞬間、僕と彼との間に、見えなくも分厚い壁が立ちふさがったような気がした。
「ああ、天瀬と篠田か。久しぶりだな。いまちょっと…」
「ねえ、今何してるの?」
僕のことなんて眼中にない…というよりも、旧友との再会に興奮した二人は、食い入るようにそう言っていた。
島田啓馬がちらりと僕を見る。
「ああ、その…、今は大学生だよ。中心大学」
「え! そうなの? 有名なところじゃん」
「いや、そんなことは…」
「偏差値高いよね、そこ。あれ? 啓馬君ってそんなに頭良かったっけ?」
「いや、それは…、その」
島田啓馬の顔がみるみる焦りに染まっていく。そして、ちらちらと僕を見続けた。まるで、部屋の隅に見つけたゴキブリの行方を気にしながら、殺虫剤を取りに向かっているかのような顔だった。
「スポーツ推薦だよ。だから、別に、勉強ができるってわけじゃない」
「すごーい! サッカー続けてたんだ!」
島田啓馬を取り囲んだ女らは、くどいくらいに手を叩き、歓声をあげた。
「レギュラーとれてるの? 確か、ポジションはキーパーだったよね」
「ああ、うん、何とかレギュラーには入れてる。でも、今はディフェンダ―でやらせてもらってるよ…」
「すごいなあ。将来も安泰なんじゃないの?」
「ああ、まあ…」
頬を掻く島田啓馬。
「一応、サッカー続けてれば、乙夜電機に就職できるようにはなってる」
「すごーい! 有名なところじゃん! お給料も良いんだろうなあ」
「まあ、良いとは聞くよな…」
そこまで言った島田啓馬は、唾を飲み込んだ。
「ごめん、ちょっと後にしてくれないか? 今は、あいつとしゃべりたくて…」
そして、まだ何かを話そうと口を開いている女の子らを制する。
彼が僕の方を振り返ろうとした寸前、僕は歯を食いしばると、踵を返して歩き出した。
「あ、ちょっと待って」
島田啓馬が走って来て、僕の腕を掴む。
「行かないでくれ。ちょっと話を聞いてくれないか」
「何を話すんだ?」
僕は彼の方を振り返らず、突き放すように言った。
「ごめん。謝りたいんだ…」
島田啓馬は、馬鹿の一つ覚えみたいにそう言った。
「あの時のオレは馬鹿だったよ。だけど、高校行ってしごかれて、目が覚めたんだ。あの時、俺がやったことは最低最悪の行いだったよな」
なあ…と言って、僕の腕をさらに強く握る。
「本当にごめん。実は俺、今日は来るつもり無かったんだけど、でも、もしかしたらお前がいるかもしれないって思って、謝りたくて…」
「ああ、そう…。確かに、僕は虐められた」
まだ記憶は完全に戻っていない。でも、こいつが僕に最悪の屈辱を与えたことは事実。そして、こいつに対して抱く、煮えかえるような憎悪は拭うことはできなかった。
「本当に、ごめん。悪かった…。それで、お前の名前についてだ…」
男は、先日僕の身に起こった悲劇に気づいているようだった。
「お前の名前、なんて言うんだっけ? 本当に失礼な話だけど、忘れちまったんだ。教えてほしい。それでも、もう一度…」
「僕に名前なんて無いよ」
次の瞬間、僕は勢いをつけて腕を振り、彼の手を払った。
汚いものに触られたみたいに腕を押さえ、後退る。
「謝ってくれて、ありがとう。でも、もう十分だ。それ以上は要らない」
「でも…」
「いいから、要らない」
言ってやりたいことは山ほどあったが、それを音にして放つのが億劫だった。
「それじゃあ」
僕は島田を突き放すと、そそくさと人込みから抜け出した。
そして、皆月のもとへと戻る。彼女は、中庭の蘇鉄の下に座り込み、欠伸をかみ殺していた。
僕に気づくと、軽く手を挙げた。
「おかえり。どうだった」
「最悪の気分だ」
そう吐き捨てると、皆月の横に座る。そして、膝に顔を埋めた。
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