第38話

「僕は、アサのことが、好きだったんだよ」

 直球にそう言うと、皆月は噴き出した。

「単純だね」

「性欲過多な中学生だぞ? しかも、こじれた奴の心なんてそんなもんだろう」

 皆月に座られた状態のまま、僕は手を伸ばし、彼女の手から手紙を奪い取ろうとした。だが、彼女がそれを高々と掲げたために、指先は空を切る。

 ふわふわとした感覚のまま、僕は続けた。

「さっき言った通り、タイムカプセルには、将来の自分に充てた手紙を書かないといけなかったんだけど、僕は何も思い浮かばなかった。だから、アサへの感謝を書こうと思ったんだ。幸い、担任も中身を確認してくるようなことはしてこなかったから、思いの丈を、これでもかって綴ったよ…」

 そこまで言って、ふっと息を吐いた時、僕の目の前にラブレターが降りてきた。

 懐中電灯で照らされた白い便箋。そこに並んだ、ミミズが這ったような文字。

 もう羞恥心は無かったから、僕は奪い取るようなことはせず、涙の滲んだ目でそれを読んだ。

『アサへ…。これを読んでいる時、僕たちは大人になっているのでしょう。どんな姿になっているでしょうか? 髪は伸びましたか? 背はどのくらいになりましたか? 君が嫌いだと言っていた眼鏡は止めましたか? 僕は多分、コンタクトをした君も綺麗だと思うのです』

 臭い文章。やっぱり恥ずかしい。

『君への想いを書こうと思います。辛いとき、いつも一緒にいてくれてありがとう。僕に優しくしてくれてありがとう。僕は君のことが大好きだった。ずっと一緒にいたいと思っていた。でも、僕たちはきっと大人になって、別々の道を歩んでいるだろうから、僕は君の幸せを願っています。君は優しいから、きっと、良い大人になっているのだと思います。』

 手紙は、アサへの感謝。そして、大人になった彼女のことを思い浮かべているということが書かれていた。

 最初は恥ずかしいと思い、頬も熱くなっていたが、これが社会を知らない中学生の餓鬼が書いたものだと思うと、段々と馬鹿らしくなって、微笑ましく思えてきた。

 下唇を湿らせた僕は、調子を取り戻したように、更に読み上げた。

『そんなことは無いのだろうけど、絶対に無いのだろうけど、地球に隕石が落ちてきて、世界が滅びるくらい無いのだろうけど、ほんの少し、僕の浅ましい願望を語ろうと思います』

 息を吸い込む。

『あの日の約束を、憶えていますか』

 その言葉に、黙って聞いていた皆月が「ん…」と、何かに気づいたかのような声をあげた。

「約束?」

「…約束、みたいだな」

 記憶に心当たりが無くて、僕も首を傾げた。

 とにかく、続けて読む。

『夏祭りでのことを憶えていますか。とても暑い日でした。太陽がギラギラと照っていて、二人で歩いた神社までのアスファルトの道は、まるで蕩けたような感触でした。神社に着くと、一緒にサイダーを買いましたね。でも、炭酸が強すぎて、弾ける泡は、一層僕たちの喉に亀裂を入れるかのようでした…。その後には、かき氷を買いました。僕はイチゴで、アサはメロン。時々交換して食べ合って、色のついた舌を見せびらかしましたね』

 手紙に書かれていたのは、ある夏の日の思い出。小説を髣髴とさせる情景細やかな文章は、思い出す…というよりも、刻み込むという形で、僕の脳裏に当時の記憶を過らせた。

『同級生に見つかりました…。とても揶揄われました。だから僕は、君から離れようとしました。でも、君は僕の手を取って走り出しました。神社の裏、人目のつかないところまで、逃げていきました』

 段々と、鮮明になっていく。

 そうだ…、暑い日だった。八月だったと思う。何の祭りだっけ? 小高い山の中にある神社で開催されたんだ。いっぱい人が来ていた。僕はいかないつもりだった。でも、アサが誘ってくれたんだ。

 きっと、たこ焼きが美味しいと思うんだ…って言って。

『本当に、情けない姿を晒しましたね』

 そして、アサと一緒に屋台を回って、楽しんで、同級生に見つかって揶揄われた。

 参道から外れた、人気の無い祠まで逃げた時、僕の感情が爆発したんだ。

『僕は君の前で、泣きじゃくりました。子どもみたいに、わんわんと泣きました』

 どうして泣いたんだっけ?

 自分が、惨めだと思ったんだ。

 いつも独りぼっちで、人とまともに話すことが出来ない。何をやっても失敗して、周りに迷惑をかけるか、笑われるかしかできない情けない僕。

 そして、そんな僕をいつも庇ってくれるアサが不憫で仕方が無くて…。

 そのアサに迷惑をかけている僕が、たまらなく、憎いと思ったんだ。

『でも、アサは僕のことを慰めてくれました』

 そこまで読み上げた時、僕の喉の奥に、苦いものがこみ上げた。

『そして…』

 続けて言おうとした瞬間、僕の唇に、当時の感覚が宿った。

 僕の口は「あ」という言葉を放とうとしたまま固まる。

「…ちょっと、何やってんの? 早く読んでよ」

 突然動かなくなり、そして喋らなくなる僕に、皆月は苛立ちを隠さずに言った。

 脳みそに電気を当てられたように我に返った僕は、息を吸い込み、続けた。

『僕に、キスをしてくれました』

 手紙に書かれていた衝撃の事実に、皆月が「へえ」と、面白そうな声をあげる。

 僕は反射的に、唇に触れていた。

「…キス、キスか」

「ナナシさんもやるんだねえ」

 下世話な話に、皆月は僕の頭を叩いた。

「そうだな…」

 僕は便箋に綴られた『キスをしてくれました』という言葉を憮然と見つめ、そう洩らした。

「うん、キスをしてくれたんだ」

 それは、本当に唐突に訪れた幸福だった。

 あの時、僕は泣いてた。アサに迷惑をかける自分が心底憎くて、慟哭していたんだ。

 アサは困ったような顔をしていた。そして、泣き声を塞ぐように、悲しみを包み込むように、僕の唇に、その薄い唇を重ねていたんだ。

 キス…というには、荒っぽい、歯と歯のぶつかり合い。それでも、輪郭を伴った熱は、僕を優しく抱きしめてくれた。もう少し、生きてみようって、思わせてくれた。

『キスをした後、君はこう言いました…。もし、この先の将来、お互い寂しい思いをしていたのなら、一緒になろう…と。それなら、もう寂しいことは無いでしょう? と』

 頬が熱くなる。春の日差しに触れたかのような熱だった。

『嬉しかったです。本当に幸せでした。でも、僕は恥ずかしがり屋だから、頷くことはできませんでした。ただただ、顔を真っ赤にして、固まるだけでした。そんな僕に、君は微笑みかけてくれて、じゃあ、約束だね…と言ってくれました』

 そこまで言った僕は、思わず皆月の方を振り返った。

 どうだ? 見たか? 僕の人生も捨てたもんじゃないだろう?

 そう目で訴え掛けたが、皆月は鼻で笑うだけだった。

 とにかく、僕は残り少なくなった文字を読み上げる。

『そして時は過ぎ、僕たちは大人になりました。こんなことは無いのだろうけど、きっと君のことだから、いろいろな人に囲まれて幸せな人生を送っていることなのだろうけど、僕は少しだけ、君が一人ぼっちでいるところを期待してしまうのです。くどいようですが、絶対にそんなことは起こっていないのだけど、僕は君と一緒になりたいと思ってしまうのです。もしそれが叶わないのなら、いや、きっと叶わないのだけど、その時は、笑い飛ばしてください。嘲笑ってください』

 譛晄律螂亥、乗ィケより。

 と、手紙は意味不明な文字の羅列で終わっていた。

「って、感じだな」

 僕は手紙をぱたん…と閉じた。

「いやあ、恥ずかしいね。ガキの妄言。本当、苦い思い出だよ」

「その割に、口元が笑ってるのね」

 皆月はため息をつくと、手紙が入っていた封筒を掲げた。

 それを引っくり返した瞬間、ぽとっ…と小さな何かが、僕の目の前に落ちてきた。

 懐中電灯で照らされた瞬間、澄んだ銀色に光ったそれは、指輪だった。

「笑える」

 僕は鼻で笑うと、指輪を摘まんだ。

「この辺りはよく覚えていないけど、きっとショッピングモールの雑貨屋とかで買ったんだろうな…、この安っぽい指輪を」

「純情なのね。涙が出そう。出ないけど」

 皆月はなぞる様に言うと、腰を上げた。

 スカートの裾に付いた土を手で払い、傍らに放置されたカプセルを覗き込む。

「ってことは、この中に、アサちゃんの手紙も入っているわけか…」

「いや、それは…」

「大丈夫だって。どうせバレないから」

 言うが早いか、皆月は懐中電灯でカプセルの中を照らすと、細腕を突っ込み、まるでセール品を物色する主婦のような勢いで弄った。

「おい…、やめとけよ。さすがに、プライバシーの侵害っていうか…」

「だったら止めてみなさいよ」

 僕の言葉が建前であることを知っていた彼女は、笑みを含んだ声で言った。

 僕は身体を起こすと、土も掃わず皆月に歩み寄る。

 手を伸ばし、皆月の華奢な肩を掴もうと思ったのだが、彼女が掘り起こした手紙の山の底に、白い封筒があることに気づいた。

 懐中電灯の光に照らされて、白く輝く封筒。

 宛名は「西城朝子」とあった。

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