第37話

『アサへ』

 白い紙。淡々と引かれた罫線。無機質な便箋を見た時、真っ先に目に飛び込んできたのは、拙い文字だった。それを見た途端に、僕の心臓が爆発するかのような脈を打つ。

 アサへ…。

 僕の名前か? いや違う。読めるからな。じゃあ別のやつに宛てて書かれた手紙だ。僕が書いたのか? それとも、誰かのものが紛れ込んだ?

「………」

 その瞬間、また、脳みその表面に電撃のようなものが走った。手紙を握る指先がチクリと痛み、レモン汁を塗りたくった紙を火で炙ったかのように、見開いた視界に、何かの光景が浮かび上がる。

 一瞬にして身体から冷や汗が噴き出し、肌を伝う。

「なに…? アサ? 誰?」

 皆月が横から手を伸ばし、僕から封筒を取り上げようとした。

 寸前、僕は封筒を高々と掲げ、彼女の指に触れないようにした。

「あ? 何やってるの?」

「皆月、この話は無かったことにしよう」

「は?」

 突然態度を翻す僕に、皆月は眉間に皺を寄せた。

「その手には乗らないからね。どうせ、悲惨な過去でも思い出したんでしょう?」

「その通りだ…。嫌なことを思い出した」

「何を今更。嫌なことの一つや二つ増えたところで、変わらないでしょうが」

 じれったそうに言った皆月は、高々と掲げられた手紙に手を伸ばす。だが、そこは男と女との身長差で、彼女の指は空を切った。

「もう!」

 立ち上がった皆月が地団太を踏む。

「今更臭いものに蓋をしたってしょうがないでしょうが。良いから、早くその紙寄こしてよ。過去の復元の参考にするんだから」

「ごめん、本当に勘弁して」

 僕は手紙を背中に隠すと、半歩、彼女から距離を取った。

「…本当、浅はかだった。いやまあ、嫌な思い出でも綴られていることは想像できたんだけど…、実際嫌な思い出だったけど、まさかこっち系だとは…」

「こっち系ってどっち系よ!」

 皆月はごもっともなツッコミをかました。

「いいから、早く手紙を見せて。でないと…」

 言い終わらぬうちに、皆月は僕と三歩間を詰めると、その細脚を振り上げた。

 硬いローファーの爪先が、僕の股間に食い込む。瞬間、脳に刻まれたあらゆる記憶にも該当しない激痛が腹の底で弾け、全身へと広がった。

 呻くことすらできなかった僕は、夜だというのに白く褪せた空を仰ぎ、倒れ込む。

「でないと、股間蹴るからね」

 事が終わった状態で、皆月はそう言った。

 それから、動けないでいる僕に馬乗りになると、軽く痙攣する手から、紙を取り上げた。

「あ…」

 ダメだ…、見ちゃダメだ…。

 その一心で手を伸ばしたが、蚊を殺すかのように叩き落とされた。

「観念しなさいっての」

 皆月は舌打ちをしてそう言うと、改めて、取り上げた紙を開いた。

 読みやすいよう、懐中電灯で照らし、僕にも聞こえるよう大げさな声で蘇る。

「アサへ」

「ラブレターだよ」

 観念した僕は、せめてもの抵抗として、彼女が読み上げる前にその手紙の梗概を語った。

「当時好きだった女の子に、恋文を書いたんだよ」

 幸い、性器に宿る激痛にかき消され、羞恥心は無かった。

「段々と思い出してきた…。将来の自分に手紙を書けって言われたって、将来の自分になんて期待していないし、そもそも、生きているかどうかわからないんだ。だったらせめて、好きな女の子に想いを綴った方がよっぽど生産的だって、当時は思ったんだ」

「へえ」

 からかうような、皆月の相槌。先にネタバレを食らったことに、彼女は面白くなさそうに手紙を揺らした。そして、ピンク色の舌が、下唇を舐めるのが分かった。

「ええと、なになに? アサへ。この手紙を読んでいる頃には、僕たちは大人になって…」

「待って、待って…、本当に待って。読み上げるのだけはやめて…」

 羞恥心がイチモツの痛みを上回り、僕は柄にもなく連呼した。

 それでも皆月は「どんな姿になっているでしょうか? 髪は伸びましたか?」と続けようとしたから、僕はその枝のような足首を掴んだ。

 すかさず、彼女が足を引き、僕の手を踏みつける。

 そこでようやく、僕の黒歴史を高々に読み上げる声は止んだ。

「それで、何? この手紙は」

 最初から最後まで読み上げる気が無かったかのようで、皆月は便箋を振りながら聞いてきた。

「このアサってやつは誰? ナナシさんとどういう関係なの?」

「唯一、僕に優しくしてくれた人…」

 僕は息を吐きながらそう言った。

「なんとなく思い出した。中学生時代の僕の人生は、本当に悲惨なものだったって…」

「今も悲惨でしょうが」

「まあそうなんだけど」

 そこは清々しく認めたうえで、いまいち調子が上がらないまま続ける。

「友達なんていない。いっつも独りぼっちだった。どちらかと言えば虐められていたし…。いや、虐められてばっかりの日々だったし…」

「それで、虐められているところを、このアサちゃんが助けてくれたんだ」

 先を予想した皆月が、僕の言葉を遮る。

「いや、そういうわけじゃないけど、まあ、そういうものかな…」

 段々と股間の痛みが治まってきたから、僕は息を吸い込んだ。

 脳に酸素が回った瞬間、おぼろげだった記憶が鮮明となる。

「…うん」

 瞼の裏に浮かんだのは、黒髪の女の子だった。

 きめ細やかで白い肌をしていて、少しぶかいセーラー服を身に纏っている。赤いフレームの眼鏡の奥にある瞳は、聡明…という言葉をこれでもかと詰め込んだかのように深い黒色をしていて、控えめのまつ毛がその美しさをふちどっていた。

 この女の子が、僕が手紙を書き、タイムカプセルに託した、「西城朝子」という女の子だった。僕は彼女のことを、「アサ」と呼んでいた。彼女が「子」という文字が嫌いだったからだ。

「どんな女の子だったの?」

「そして、凄く賢い子だった…」

 この脳に刻み込まれている記憶を、僕は指でなぞる様にして言った。

「賢い子? 優等生だったの?」

「優等生だった。テストでもやらせたら、いつも百点を取っていたな…」

 まあ、中学生のテストだから難易度は低いのかもしれないけど…と付け加える。

「眼鏡を掛けていて、物静かな雰囲気を纏っていて、本当、勉強できますよ…って体現したような容姿をしていたね…。作文コンテストがあったら、いっつもあの子の名前が挙がってた」

「へえ…、私も負けてないよ」

「だからと言って、君みたいに天狗になっているわけじゃなくて…、むしろ目立つのを嫌って、答案とか、表彰状とかはいつも隠してた…」

 まあ、周りにはなんとなくバレていたけど…と付け加える。

「そして、凄く優しい子だったんだ」

「優しい子…。優しい子ねえ」

 何か思うことがあるかのように、皆月は僕の言葉をまねた。

「僕はよく人に揶揄われていたんだけど、アサは決して、その場で僕を庇ってくれることは無かった。でも、僕が一人でいると、必ず寄ってきてくれて、いっぱいお喋りをしてくれたんだ。お菓子もくれたこともあったな…。勉強も教えてくれたし、時間があるときは、近くの駄菓子屋で一緒にサイダーを飲んだりした…」

 口にすると、記憶は鮮明によみがえった。

「…そうだ。うん、アサだ。あの子は優しい子だった」

「人前で助けてくれなかったのに?」

 皆月は鼻で笑い、水を差すように言った。

 僕は反論する。

「それでよかったんだよ。あの子は賢い子だったから、僕を助けると、自分の立場が危うくなるのを理解していたんだ。僕だって御免だよ。僕なんかのせいで、あの子が周りから攻撃されて、顔が曇るところを見るなんて…」

 そもそも、僕は救済なんて望んでいなかった。だから、彼女が僕に手を差し伸べてくれるのは、願ってもいない幸運だった。

「それに、アサは僕のところに来たときは、必ず謝ってくれたんだ。『見て見ぬふりしちゃってごめんね』…って」

「ああ…」

「それで、十分さ。僕は嬉しかったんだよ」

 大丈夫? 守ってあげられなくてごめんね…。

 そう言って寄ってくるアサと一緒にいると、転んだ後に抱きしめられたかのような…、絆創膏を貼ってくれたかのような…、そんな温かい気持ちになれた。

「うん、アサは、優しかった」

 まるで、湯呑の淵に触れた指先のように、心が温まってくるのが分かった。

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