第29話 【二〇一八年 一月二十二日】
お腹が空いたら、コーヒーを流し込んで凌いでいたのだが、それもついに限界を迎えた。
「…………」
強烈な空腹には勝つことが出来ず、僕はゆっくりと身体を起こした。
無理な体勢で眠っていたおかげで、全身の筋肉が凝り固まり、少し動かしただけで、関節が乾いた音を立てた。
口がどうしようもなく乾いていて、気持ちの悪い甘さが舌の付け根に広がっている。
這うように台所に移動した僕は、顔を洗い、それから、口を濯いだ。
ほんの少しだけ動く余裕を取り戻すと、冷蔵庫の扉を掴み、開ける。
中は、空っぽだった。いや、空っぽってわけじゃない。バターとインスタントコーヒーはある。肝心のパンが無かった。
毎日皆月が盗み食ってたんだから、そりゃそうか…。
怒りは湧いてこなかった。残り数を把握せず、惰眠ばかり貪って買い足さなかった僕に落ち度がある。
この身体の重さで、買いに行く気力は起きない。でも、お腹は空いている。
ああ、もう、仕方がないや…。
寝ぼけていたのか、それとも、ただの馬鹿だったのかはわからないが、僕はとんでもないことを思いつくと、震える手を冷蔵庫に突っ込み、バターを取り出した。
銀紙を剥いて、芳醇な香りが漂う小麦色の塊を露出させると、さながら最中を食べるように、一口、齧る…。
脂っこく、甘じょっぱい味が口一杯に広がった。濃厚な香りが喉の奥に滑り込み、渇いた胃の表面を撫でていく。空腹が煙に巻かれたように、消えていく…。
その時だった。
玄関の扉が勢いよく開いた。
僕は肩を跳ねさせ、首がねじ切れんばかりの勢いで振り返る。
北風と共に、そこに立っていたのは、顔を赤くした皆月だった。
彼女は、扉を開けた先に僕がいたことに少し驚いた様子を見せ、そして、僕がバターの塊を咀嚼していることに気づき、顔を顰めて軽蔑を表現した。だが、その三秒後には、何故か憐れむような顔になる。
「なんか、ごめん…」
「な、なにが」
まずいところを見られてしまった僕は、慌ててバターを背後に隠す。
「ってか、皆月、どうしたんだ? 今は夜だぞ」
「いや…、今朝、あんたのパン食べきっちゃったから」
皆月はそう言って、右手に持っていた何かを投げる。
緩やかな弧を描き、軽い音を立てて床に落ちたのは、六枚切りの食パンだった。バーコードには、この近くのスーパーのロゴが入ったテープが貼られてある。
「餓死されても困るから、届けに来ただけ」
「あ、ああ…」
「まあ、もう手遅れだったみたいだけど」
その言葉に、僕は口に溜まった脂肪分を慌てて飲みこんだ。
風が入り込んでくるから、皆月は後ろ手で扉を閉める。靴は脱がず、壁にもたれかかった。
「どう? 動く気になれた?」
まるで、人間に見つかってしまったゴキブリにでもなったような気分だった。
ここまでか…と諦めた僕は、ため息をつく。
「まあ、寝て起きたら、気分は良くなったよ。お腹空いたし」
「ああ、そう」
まるでどうでもいい…とでも言うように頷く。
「じゃあ、それ食べて、また明日からよろしくね」
それだけを言った皆月は、ドアノブを掴み、閉じたばかりの扉を少し開けた。
隙間から風が吹き込んでくる。それには白いものが混じっていて、僕の頬に触れた瞬間、水に変わった。
雪…。ちらついているのか。
「外、寒いのか?」
「まあね。だから、早く帰って寝る」
「明日も来るのか?」
「もちろん。仕事だから」
「なんか、悪いな…」
「仕事だから」
皆月はふんっ鼻を鳴らし、更に扉を開けた。
風がさらに強くなり、皆月の黒髪がバサバサと揺れる。スカートがめくれ上がり、彼女の下着が見えたことは言うまでもない。
皆月は何てことないように裾を抑えると、言った。
「悪いと思うなら、新しい過去を…」
「それはダメだ」
その手には乗るまい…と、僕は皆月の言葉を遮っていた。
「僕の過去は、絶対に、取り戻す…」
「どうせ悲惨なものしか残ってないでしょ」
「かもしれない」
ミナミとの電話、綾瀬さんと、その友人らとの交流を通して、自分が惨めな人間であることを知っていた僕は、そこは否定せずに頷いた。
きっと、僕の過去はあまり良いものじゃないのだろう。これから復元を進めていったとして、立て続けに惨めな気持ちになるだけだ。
でも…と言って、顔を上げる。
「一つくらいは、あってもいいだろ。誰かに誇れるような過去が…」
妄言ともとれることを聞いて、皆月な数秒の間、能面のような顔で固まった。
そして、精いっぱいの侮蔑を込めて、鼻で笑う。
「見つかると良いね。たかが一つくらいは…」
そう皮肉を言った皆月は、踵を返し、出て行った。
例にもれず、扉は不貞腐れたように閉められ、振動が床を這う。外では風がその勢いを増し、軋むような音が続いていた。
視線を落とした先には、食パンが梱包された袋。指で押し破り、一枚取り出す。
そして、懐中電灯の電池を取り換えるみたいに、口に押し込んだ。
うん、何の感動もない味だった。
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