第26話

 四時間後…。

「良かったね。二時間もかからなくて」「これで単位は安泰だね」「それじゃあ、私はバイトがあるから」「あんたシフト入れすぎ」

 資料を完成させた僕たち…ではなく、彼らは、昼下がりの図書館の前で別れることとなった。

「もう迷惑かけんなよ」

 トシキがそう言って、僕の背中を叩く。

「…うん」

 痺れるような痛みを感じながら僕は頷くと、彼らに背を向け、逃げるように歩いて行った。

 何あいつ? 最後まで感じの悪い奴だったね。マジできもいわ…。

 カクテルパーティー効果って奴だろうか? 彼らが話す声が、ちくちくと首筋に突き刺さるのが分かった。

 拭うようにうなじを掻き、校門を潜って道路に出ると、アパートの方へとつま先を向けた。

「ねえ!」

 歩き出そうとした瞬間、高い声が僕を呼び止める。

 振り返ると、息を切らした綾瀬さんが立っていた。

 黒髪で眼鏡をかけた綾瀬さん。吹き付けた風が彼女のロングスカートを揺らし、陽光が頬を白くなぞっている。

 綾瀬さんは息を吸い込み、唾を飲み込むと、言った。

「さっきはごめんね。私の友達が。嫌だよね。頑張って作ったのに、否定されたら…」

「………ああ」

 何を言うのかと思えば、そんなことか。

「ええと…、その…、な、ナナシくん?」

 確かめるように言うから、頷く。

 綾瀬さんはほっとした顔をして続けた。

「ナナシくんの発表資料、良かったよ。凄く、見やすかった…」

 それはお世辞だろうか? それとも皮肉か? 見やすいくらいに、スッカスカだったって。

「どっちかの資料を選んで使おう…だなんて、意地悪なこと言っちゃってごめんね。まだ時間あるんだから、十分作り直す時間はあるよね。原稿なんて読むだけなんだから、リハーサルなんて時間かける必要ないし…」

 コツコツ…と、ブーツを踏み鳴らし、綾瀬さんが僕の方へと歩いてくる。

「本当にごめんなさい。あなたのこと勘違いしていたの。ちゃんと動いてくれているって、知らなかったから…」

 白い息を吐いた彼女は、僕が持っていた鞄を指さした。

「今からでもいいなら、一緒に資料、完成させない? やっぱり二人でやった方が良いと思うの。図書館も開いてるし…、別に、カフェでもいいし…」

 ナイフでも仕込んでいるかのような冷たい風が吹きつける。

 舞い上がった塵が目に入り、一瞬、薄暗闇が広がった。

 目を擦って顔を上げると、そこに立っていたのは、綾瀬さん。

 彼女は力を抜くように、ふっと笑った。

「だから…」

「その必要はない」

 その可愛らしい顔面を殴りつけるように、僕はそう言っていた。

「もう、あの資料で行こう」

 髪をかき上げたついでに、なんだか痒くなった額をガリガリと掻く。

「あの資料で良いよ。あれでいい」

 綾瀬さんは少し面食らったような顔をしたが、気を取り直した。

「それでいいの?」

「うん」

「そっか…」

 太陽の光が強い。おかげで、彼女の残念そうな顔がはっきりと見える。

「じゃあ、それで行こうか。本番、頑張ろうね!」

「いや、本番…。僕はいかない」

 俯いたまま、消え入るような声で言った。

 爪は皮膚に押し当てたままで、ガリガリ…ガリガリ…ガリガリ…と、掻き続ける。そのうち、焼けるような感覚が広がっていき、ようやく手を離す。

「どうでもいい。僕はやらない」

 顔を上げると、綾瀬さんは目を丸くし、固まっていた。

 我に返ったように瞳孔を動かすと、首を傾げてほほ笑んだ。

「え、どういうこと?」

「これ以上君に迷惑をかけるわけにはいかないからね。本番、僕は授業に出ない」

「いや、ちょっと待ってよ。発表は二人一組で…」

「当日、体調不良だ…とでも言って休むよ。さすがに先生も、ペアがいないからって点数を与えないことなんてしないだろ? 貰えなかったら、僕が徹底的に抗議するから。君だけが単位を取れればいい」

「そんな、回りくどい…」

「そうだな、回りくどいよな…」

「だったら、一緒に、発表をしようよ」

 落ちたものを掴むみたいに、綾瀬さんが言った。

 僕は首を横に振る。

「気分が悪い。もう帰る」

「ちょっと!」

 彼女の冷えた手が、僕の腕を掴んだ。

「ごめんね! 私もあの子たちにきつく言えなかったから…。本当にごめん。こんなことで自暴自棄にならないでよ…」

 その手を、振り払う。

「事実だよ」

 視界に白く霞がかる。

「あいつらの言った通りだ。君に声を掛けなかった僕が悪い。勝手に資料を作り始めた僕が悪い。その資料の出来が悪かった僕が悪い」

「それは…」

 心のどこかで、「まだ否定してくれるだろうか?」と期待したが、そんなことは無く、綾瀬さんは言葉を詰まらせ、たじろいだ。

 自分が全部悪い癖に、まるで人を責めるような口調。そして、勝手に期待して、勝手に失望している。

 チッ! と、唾を含んだ舌打ちが、白い空に吸い込まれていった。

「それじゃあね。頑張って」

 綾瀬さんは「あ、ちょっと」と、まだ引き留めようと声をあげたが、僕は走り出し、角を曲がった。軋む脚に、羞恥心と後悔が纏わりついていた。それを踏み潰すように、振り払うように、歯を食いしばって加速する。

 走って、走って、走って…。

 まるで、水底に潜る様に、静かな路地を駆け抜けた。

 どのくらい、走っただろうか?

 十字路を横切ろうとしたとき、横から車が走って来た。

 あ…と思った瞬間、空間が裂けるような甲高い音が響き渡る。

 足が竦み、躓いた。

 そのままの勢いで転んだ僕は、電柱の傍にあったゴミ回収スペースに、頭から突っ込む。

 どすんっ! と鈍い衝撃が全身を走り、鼻の奥を生ごみの臭いが貫いた。

「…………」

 静まり返る路地。僕の心音だけが、激しく頭蓋骨の内側で響いている。

 助かった…と安堵した瞬間、罵声が聴こえた。

「このクソ野郎! 気を付けろや!」

 顔を上げると、軽トラックの窓が開いて、四十代くらいの男が顔を出した。

「死にたいなら迷惑かけずに死にやがれ!」

 顔を真っ赤にしてそう叫んだ男は、アクセルを強く踏み込むと、人を跳ねんとする勢いで走り出した。

 生ごみと排気ガスの入り混じった悪臭が、その場に残る。

「…………」

 小さくなっていくナンバープレートを眺めながら、僕は鼻で笑い、ゴミ袋にもたれかかった。

 柔らかくて、案外心地よかった。

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