第24話
「ちょっと、痛いって…」
腕を強く掴まれ、図書館へと引っ張られていく僕は、泣きそうな声で男に言った。
だが男は離す気配を見せず、さらに強い力で、僕の腕に指を突き立てた。
「お前逃げるだろ」
「逃げないって!」
僕の声を無視して、男は食堂の前を横切り、部室棟の隣にあった図書館に僕を連れて行った。
自動ドアを潜ると、否応なく僕を図書館に連れ込んだ。
入った途端、静寂が僕を取り囲む。その、少しでも音を立ててれば射殺されるかのような雰囲気に、僕は首根っこを掴まれた猫のように動けなくなった。
「ほら、早く」
男が声を潜めて言う。
視聴覚コーナーの前を横切り、自習スペースの前まで連れていかれた。
広い机には、四人の女子が腰を掛けていて、各々教科書やノートパソコンを開いて勉強に励んでいた。
「綾瀬、連れてきたよ」
その言葉に、四人が一斉に振り返る。一人は青色、もう一人は金色、更にもう一人は赤茶色に髪を染めていて、かなり人生を楽しんでいそうな、煌びやかな格好をしている。四人目だけだ。髪は黒色のままで、眼鏡を掛けて、穏やかな雰囲気を纏った女の子は。
どれが綾瀬さんだ? 頼むから、あの地味そうな子であってくれ…。
そう祈っていると、眼鏡を掛けた女の子が「あ…」と声をあげて、立ち上がった。
「トシキくん、連れてきてくれたの?」
神様はまだ僕のことを見捨てていなかったらしく、この清楚な雰囲気の彼女が、綾瀬さんだった。
ああ、そうだそうだ…。段々と思い出してきたぞ。うん。やっぱり、この人が綾瀬さんだ。
おとなしそうな見た目の割に、髪の毛を奇抜に染めた女子グループに属しているんだ。傍から見ても、彼女の存在は、蛾が飛び交う花園で可憐に蜜を吸う蝶だった。
「おう、ようやく捕まえられたわ」
トシキ…と呼ばれた男は、僕から手を離し、背中を強く押した。
僕は前のめりになりながら、綾瀬さんらの前へと躍り出る。
顔を上げると、少し戸惑った様子の彼女が僕を見ていた。
「あ、綾瀬さん…」
どうしよう? 何から話そう? 何をすればいいんだ? いや、まずは、謝るべきか…。発表の準備をしなくちゃならなかったのに、話しかけられなくて…って。
ライオンの前に放り出された気分のまま、腹を括った僕は、息を吸い込んだ。
「綾瀬さん、ごめ」
「こいつ? ホノカとペアで、準備全部すっぽかしてた男子ってのは」
僕が言うよりも先に、綾瀬さんの隣にいた、髪が青い女が言った。
その言葉を皮切りに、向かいに座っていた金髪の女が立ち上がり、遮るようにして僕の前に立つ。女はぎろりと僕を睨んだ。
「ねえ、人に迷惑を掛けておいて、なんで謝らないの?」
「ああ、いや、それは」
言おうとしたよ。でも…。
「ごめん」
「なんで私に謝るわけ? ホノカに謝りなよ」
ホノカ…とは、綾瀬さんの下の名前らしい。
「綾瀬さん、ごめん」
「面と向かって言いなよ」
僕の前に立ちふさがった金髪は、更にそう言った。
悪意を感じなくもなかったが、先に無礼を働いたのは僕の方なので、横にずれて、気が気でない顔をしている綾瀬さんを見てから、深々と頭を下げた。
「綾瀬さん、ごめんね。発表の準備、しなくちゃいけないのに、すっぽかしちゃって…」
「い、いや、こちらこそ、ごめんね。話しかけられなくて」
綾瀬さんはあまり怒っていないようだった。それがまだ、救いだった。
「それで、ええと…」
僕の顔を見た綾瀬さんは、顎に手をやり、何か思い出そうとする素振りを見せる。
「ええと、その…」
数秒の間を誤魔化すように言った綾瀬さんは、観念したように肩を落とした。
「あの、ごめん。君の名前、なんていうんだっけ?」
そのセリフに、赤茶色の髪をしていた女が軽く噴き出した。
「かわいそー。名前憶えられていないなんて」
「そういうミサキはどうなのよ」と、青髪の女が茶化すように言った。
「私? 私だって知らないよ。興味無いし」
赤茶髪の突き放すような言い方に、青髪、金髪、そしてトシキが一斉に噴き出した。
あまりにもの雑音の多さに、僕はその場から逃げ出したくなる。
ああ、そうだ。そうだよ…。名前が消えてしまう前も、僕は綾瀬さんの取り巻きが苦手で、彼女に近づくことができなかったんだ。
「そ、それで、君の名前は?」
綾瀬さんは、他の四人を気にしながら僕に聞いた。
僕は息を吸い込んだ。
「…僕の、名前は…」
だが、やはり思い出せない。
「ナナシだよ」
だから、皆月舞子が僕を呼ぶときの名を使った。
「変な名前なのね」
そう言って鼻で笑ったのは、赤茶髪の女だった。
僕という人間が、自分よりも格下であると決めつけたその女は、腕を組むと、自習スペースの奥…グループ学習室の方を顎でしゃくった。
「とにかく、時間無いんだから、早く発表資料完成させなよ。私たちも手伝ってあげるから」
その言葉に、他の青髪、金髪、トシキも、うんうん…と頷く。
「この馬鹿のせいで、綾瀬が単位落とすかもしれないんだ。早く完成させないとな」
「い、いや、大丈夫だよ」
僕の方をちらっと見た綾瀬さんは、首を横に振って、束ねた髪を揺らした。
「もうほとんど完成させているから…、ミサちゃんらが手伝ってくれなくても大丈夫。そんなことよりも、みんな自分の勉強があるでしょう?」
「打ち合わせだってしないといけないんだから。ね?」
青髪の女は腹立たしいウインクをして言うと、綾瀬さんの腕を掴んだ。そして、グループ学習室の方へと引っ張っていく。
呆然と二人の背を見ていると、また、トシキが僕の背中を叩いた。
バチンッ! と、痛々しい音。実際に、皮膚に焼けるような激痛が走った。
「おら、お前も行くんだよ。下手な発表して綾瀬に恥かかせてみろよ。どうなるかわかってんだろうな?」
そして、豚を柵に押し込めるように、僕の背を押した…。というよりも、突き飛ばした。
僕は転びそうになりながらも、綾瀬さんが入っていたグループ学習室へと早足でいった。
部屋に入ると、中央に円形の机があった。また叩かれたくはなかったので、さっさと手前の席に腰を掛けた。
僕の後ろに、トシキが立つ。
バチンッ! と嫌な音。今度は肩に痺れるような痛みが走っていた。
「それで、どうするよ? まずはどれから始める」
「とりあえず、これが資料だね」
綾瀬さんは慌てて言うと、鞄からノートパソコンを取り出し、開いた。
電源ボタンを押し、起動するまでの間、彼女は僕とトシキを交互に見て、気が気でないような顔をしていた。
「もうほぼ完成しているから…」
その場凌ぎのようなことも言う。
「すごい。一人で資料作ってたの?」と、青髪。
「ナナシとは大違いじゃん」と、金髪。
「ってか、資料作らないで、何やってたの?」と赤茶髪が立て続けに言った。
今に泣きだしそうな僕に降り注ぐ、冷たい言葉の雨。
それに傘を差しだすように、綾瀬さんが声をあげた。
「ほら、これ。見て」
向かいの僕に見えるよう、パソコンの向きを動かす。
そこには、パワーポイントで作成された資料の表紙が表示されていた。
どこかのカフェで撮っただろう、アイスクリームとサクランボ、さらにはクッキースティックが添えられた、着色料たっぷりのメロンソーダの写真。その上には、オシャレなフォントで、「威武火市青須子町 かふぇさんぽ」とあった。
「一人で資料を作るから、歴史とか調べてると大変だから、好きなカフェについて紹介することにしたの…」
綾瀬さんはスライドを高速でめくりながらそう言った。
「もうほぼ完成してるの。あとはまとめのセリフを考えるだけで…」
「あ」
綾瀬さんの言葉を遮って、僕は声をあげていた。
青髪、赤茶髪、金髪、そしてトシキが、一斉に僕を睨む。
「なに? 急に。なんか文句でもあるの?」
「ああ、いや…、別に」
喉の奥まで出かかった言葉は、その威圧によってぺちゃんこに潰されてしまった。
目を伏せた瞬間、後頭部をゴツン! と殴られた。トシキだ。
「おら、気になるから言えよ」
「あ、うん…」
飲みこんだ言葉を、無理やり引きずり出される。
「実は…、綾瀬さんのスライドを見て思い出したんだけど、実は僕も、発表資料を作っていたんだよ…」
「あ?」
赤茶髪が声を裏返した。
「何言ってんの?」
「だから、僕も発表資料を作ってたんだよ」
そうだ。思い出した。
僕は綾瀬さんとペアになったものの、彼女を取り巻く者たちが怖くて、話しかけることが出来ずにいた。だからと言って何もしないわけにはいかないから、僕なりに資料を作っていたんだ。もし、話しかけられないまま当日がきても、何とかなるように…。
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