第12話

 そうして、僕は十五分ほど悶々とした。だが、現実は非常なり。それほどの時間を費やしても、その「ミナミ」について思い出すことはできなかった。

「ごめん、無理だ…」

 遂に諦めた僕は、顔を上げた。

 皆月はすっかり飽きたようで、椅子を回転させながら、スマホをいじくっていた。

「おい…、人が頑張っている途中で、お前は…」

「馬鹿ねえ、ちゃんと仕事してるわ」

 皆月は僕の方を見ずにそう言う。だが、そのスマホに表示されていたのは、メッセージアプリの友達リストだった。いやいや、メッセージアプリを眺めることのどこが「仕事」だよ。

「お、あった」

 スマホの画面を眺めていた皆月は、そう声を上げた。

「これでしょ、『ミナミ』ってやつは」

 そう言って僕の方を振り返ると、スマホの画面をこちらに向ける。

 そこには、ある友達のプロフィールが表示されているわけだが、その名前は『minami』となっていた。つまり、「ミナミ」だ。

「え…」

 僕は素っ頓狂な声を上げた。

「皆月お前、ミナミってやつと知り合いなのか?」

 思わず、イッツアスモールワールド…と呟きたくなる。

 だが皆月は肩を竦め、小馬鹿にするような目を向けてきた。

「あ? 何言ってんの? これ、ナナシさんのスマホだけど」

「え…」

 固まる僕を見て、皆月は口元を隠し笑った。上品な風を装っているが、その手の下は、にんまりと歪んでいることだろう。

「机の引き出し開けてみたらあった。充電切れかかっていたから、USBケーブルでつないだの。ロックはかかってなかったわ」

「ああ、そう…」

「ってか、ナナシさん全然友達いないんだね。リストがすっかすか」

「勝手に見るなよ」

 身に覚えはなかったが、皆月に馬鹿にされるのが嫌でスマホを取り上げる。

 気を取り直して画面を眺める。まずすることは、「minami」というアカウントのプロフィールをチェック…ではなく、一度戻り、友達リストを確認することだった。

 なるほど、確かに友達は無いに等しい。いや、無いことは無いのだが、そのほとんどが有象無象の公式アカウント。一応、砂漠に落ちた一滴の水の如く、知り合いらしきアカウントはあったのだが、その全てが「退会」と表示されていた。

 いやいや、そんな…。

「ねえ、早くミナミのプロフィール開いてよ」

 血眼になっていて気付かなかったが、皆月が横から覗き込んでいた。

「名無しさんに連絡を取り合うような人間が少ないってのはもうチェック済みなんだからさ」

「うるさいな、電話帳にいるかもしれないだろう」

 …いや、今の時代、電話番号を交換し合うような奴なんていないか…。

 頬が熱くなるのを感じながら、僕は指を動かし、「minami」というアカウントのアイコンをタッチする。するとプロフィールを表示されるわけだが、ステータスメッセージには、「Love the life you live. Live the life you love.」と表示されていた。

 「みなみ」と書けばいいところをわざわざローマ字にしたり、「自分の生きる人生を愛せ、自分が愛する人生を生きろ」と書けばいいところをわざわざ英文にしたりするあたり、なんだか鼻につく。こいつは本当に僕の知り合いなのだろうか? と思わずにはいられなかった。

 さらにプロフィールをスクロールすると、最新のダイアリーが表示される。

 そのダイアリーには、あるカフェの看板の前で、ピースをしながら写る女の子が載せられていた。かなり若い子だ。髪の毛は茶色に染められていて、小ぶりの耳にはピアスが輝いている。鎖骨を強調したワンピースを身に纏い、右手には、その店で買ったであろうコーヒーの容器が掲げられていた。

「…………」

 三秒見ただけで目を焼かれるかのような、輝かしい写真。

 僕はその童顔に見覚えがあった。

「あー…」

 脳がピリピリと痺れるのを感じながら、額をぴしゃりと叩く。

「なるほど、思い出してきた」

 過去は消えても、脳には記憶が刻まれている。それを参考に、過去の復元を行う…。

 皆月が言っていたことが、今ようやく、身をもって理解できた気がした。

「それで? 彼女はどんな子なの?」

「居酒屋でバイトをしていた時に知り合ったんだよ」

 僕はそう言って、トーク画面を開いた。

「確か、一か月前だったよな。居酒屋でバイトしていたんだ」

「ナナシさんって、根暗の割に居酒屋で働いていたんだ。意外だね」

「根暗じゃないってことだよ。そうさ、僕は居酒屋でバイトができるほどイケてたんだよ」

 と、友達が全くいないメッセージアプリのことは棚に上げ、得意げに言う。

「とはいえ、皿洗い係だったよ。表には出てない。裏方」

 確か、短期だったと思う。二週間でやめたんじゃなかったっけ? まあ、このことは言わなくてもいいだろう。

「短期なの長期なの? 出来る限りはっきりさせてくれないと。何日から何日まで働いてた? シフトはわかる?」

「短期だよ。多分探せば、雇用契約書がどこかに残ってると思う…。シフト表もどこかに残っているんじゃないかな? 前の僕が捨てさえしてなければ…」

「じゃあ、また後で探して見ようね」

 ふと見ると、皆月は机のノートパソコンに向き直り、キーボードを叩いていた。どうやら、蘇った僕の記憶をメモに取っているようだ。

 エンターキーを押した皆月は、首だけで僕の方を振り返る。

「それで? その女の子は、あんたとどういう関係なわけ?」

「うーん…、それは」

 名前と顔を見たことで、記憶が戻り始めた…と言っても、詳細なことは思い出せなかった。ただ、その子が女の子であり、居酒屋でバイトをしている時に知り合った…ということのみ。まるで、夢で見たことを、起きてからノートに記そうとしている感覚だった。

「でもなんか、凄く、可愛らしい子だなあ…って思ったような気がする…」

 目を瞑り、天井を仰ぐ。

 藍色の闇に浮かび上がったのは、黒髪ショートで、童顔の女の子。居酒屋のロゴが入ったエプロンを身に着けて、必死に接客をしている。

「うん、可愛かったと思うよ」

 うん、可愛かった。

「確か…、向こうから話しかけてくれたんだ。連絡先を交換して…、それで、ちょっと嬉しくなって…」

「うわ、気持ちわる」

 はっきりと言われる。

「そうだよな」

 僕は皆月に同調した。決して、恥ずかしさを紛らわせるために言ったわけじゃなく、自分でも気持ち悪い行為だと思ったからだ。多分、僕の名前と過去が消滅してしまったことで、自分の過去の行いを客観的に見ることが出来るようになったからだと思う。

「たかが女の子と連絡先を交換しただけだよ。取るに足らない。それなのに、当時の僕は何を考えていたんだ? 韃靼海峡でも渡った気になっていたのか?」

 鼻で笑いながら、皆月の方を見る。

 彼女はぶつぶつと呟きながら、パソコンにメモを取っていた。

「ナナシさんは、友達が少なくて、女の子と触れ合った経験が無いから、連絡先を交換しただけで相手のことを好きになってしまう…と」

 カタカタ…と、心地よいタイピング音が部屋に響いていた。

 皆月舞子は得意げな顔をして振り返った。

「まあ、こんな感じ。こうやって断片的な情報をかき集めて、どうしても埋まらないところは、文脈を読んで埋める。過去の復元の手順はこんな感じに繰り返していくの。一年間ずっと」

 恨みがましく「一年間」と言われたことは無視をする。

「間違いじゃないけど、恣意的というか、作為的というか…」

「それで、そのミナミちゃんとはどんなやり取りをしたの?」

 そう言われて、また記憶を辿る。だが、ここでまた、頭蓋骨と脳みその隙間に、煙が溜まるかのような、ぼんやりとした気にさせられた。

「やっぱり、よく憶えていないな…」

「ふーん」

 皆月はなぞる様に頷くと、顎でしゃくった。

「だったら、電話しようか」

「電話?」

「相手の態度で、どんな関係かわかるでしょ? ただの仕事の連絡を取り合う関係なのか、それとも、時々遊びに行く友達のような関係なのか、はたまた、肌を合わせるような関係なのか。大人同士なんだから、そのくらいの関係になってたっておかしくない」

「い、いや…」

 歯に衣着せぬ皆月の言い方に、僕は頬が熱くなるのを感じた。

 動揺を悟られまいと、首を激しく横に振る。

「きっと、大したことのない関係だよ。多分、なんとなく連絡先を交換しただけさ」

「だから、それを電話して聞けっての。第三者の証言が無い事には、正確な復元なんてできるわけないでしょ」

「きっと僕のことなんて憶えてないだろ…」

 俯いてそう絞り出した、その時だった。

 汚い舌打ちが僕の耳を貫いたかと思うと、椅子が激しい音を立てて倒れた。

 顔を上げた次の瞬間、皆月のスカートが舞い上がるとともに、下方向から放たれた蹴りが、僕の鳩尾に突き刺さった。

 息が詰まる。

 僕は声にならない悲鳴を上げて、床に倒れ込んだ。

 僕を見下ろした皆月は、顔を顰めて吐き捨てる。

「電話せずとも結果が目に見える」

 そして彼女は、床に落ちたスマホを拾い上げた。

「あ…、待てよ」

「うるさい、この抜け殻」

 僕の制止を無視し、彼女はスマホを弄った。

 次の瞬間、スピーカーとなったスマホから、軽快な呼び出し音が響き渡った。

 その音を聞いた途端、僕は金縛りのように動けなくなる。

 一秒、三秒、五秒、七秒と呼び出し音は鳴り続け、そして、十秒後に途切れた。

『…もしもし?』

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