第13話

『…もしもし?』

 スマホから聴こえたのは、鈴を鳴らすような女の子の声。

 その声を聞いた瞬間、また僕の中で記憶が鮮明になっていくのがわかった。

 皆月は鋭い目で僕を一瞥すると、鼻を鳴らし、スマホを耳に当てる。

「もしもし、ミナミさん?」

『え、あ、はい』

 知らない女の声に、電話の向こうでミナミが困惑するのが分かった。

 皆月は物怖じすることなく続けた。

「二か月前、あんたのバイト先で一緒だった男のスマホからかけてるんだけど、憶えてる?」

『え、バイト…?』

「そうそう。冴えない顔してた男、いたでしょ?」

『あ、はあ…、そうでしたっけ?』

 電話越しにも、ミナミが首を傾げるのがわかった。

 僕の名を告げれば一発でわかってくれるのだろうが、生憎、前の名前はもうこの世に存在しない。

 皆月は、ミナミの記憶を刺激するように言った。

「皿洗いしてた男だよ。それで、あんたから話しかけて連絡先交換したの」

『う、うーん…、そんな人、いたような、いなかったような…』

 だが、ミナミは完全に僕のことを忘れているようだった。

 皆月は「降参だ…」と言いたげに肩を竦めると、通話中のスマホを僕に向かって放り投げた。

「あ…」

 僕は慌てて、スマホを掴む。

 見ると、皆月は腕を組んで、顎をしゃくっていた。

 お前が出ろ…。彼女はそう言っているわけだ。

「ああ、もう…」

 もうどうにでもなれ…と、崖から飛び降りるように、僕はスマホを耳に当てて、マイクに向かって話しかけた。

「も、もしもし、僕だけど…」

『あ…』

 僕の声を聞いた瞬間、ミナミは何か心当たりがあるかのような声をあげた。それから、「ああ、そうか、そうか…」と続ける。

『その声…、何処かで聞いたことがありますね』

 ちゃんと、僕の声が彼女の記憶を刺激してくれていることに安堵する。

「そうだよ。僕だよ。一か月前に、居酒屋でバイトしてた…。お皿洗いをしていた…。憶えているかな?」

 ダメ押しと言わんばかりにそう続けた時、スマホの向こうの彼女が、「あ」と声をあげた。余韻の残さない、確信を抱くような声だった。

 よかった…、思い出してくれたんだ。

 そう思った僕は、安堵の息を吐き、言葉を紡ぐべく息を吸い込んだ。

 それよりも先に、ミナミが言った。

『忘れましたよ。あなたのことなんて』

 一オクターブ下がった声。槍のような鋭さを持って、僕の鼓膜に突き刺さる。

『今更なんなんですか? 前は、ご飯に誘っても、話しかけても、ゴミを見るみたいな目で見てきたくせに…』

「あ…いや」

 思いもよらない言葉に、喉の奥で何かが詰まった。

 僕が固まっている間にも、スマホの向こうでは、ミナミがぶつぶつとしゃべり続けていた。

『さっきの女性は誰ですか? 当てつけですか? 本当に、趣味の悪い人ですね。気分が悪い』

「いや、そういうわけじゃ…」

 何とか絞り出した声も、蚊の鳴くようなものだった。

『せっかく今の今まで、あなたのこと忘れていたのに…。なんで電話かけてきたんでしょうか…。しかも、こんな朝早くに』

 それに関しては、申し訳ないと思う。

 ミナミは大げさにため息をついた。

『それで? 何の用ですか? 今更邪険に扱った女に電話を掛けてくるなんて』

「いや…、その…」

 彼女の反応を見て、僕がどんな人間だったのか? 彼女とどんな関係を築いていたのか…という疑問は拭われた。

 もう彼女に用はなかったから、僕は嘘をついた。

「元気にやっているかどうか…、気になったんだ」

 鼻で笑う声が聴こえた。

『ええ、元気にやっていますよ。あなたと違って』

 僕は静かに頷く。

『楽しい日々です。ですが、あなたのことを思い出すと途端に気分が悪くなるので、もう二度と電話してこないでください。もちろん、メッセージも』

 なんでブロックするの忘れていたんだろう…と、独り言のように言ったミナミは、次の瞬間には、通話を切っていた。

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