第9話

「つまりもう、似たものを作るしかない」

「似たものを…?」

 彼女が言わんとしていることは理解できた。だが、ぴんと来ず、僕は言葉をなぞった。

 皆月はさらに噛み砕いて説明をした。

「消えてしまった過去を、一から書き直すの。あんたが生まれた日、あんたが通っていた幼稚園とか、小学校とかの出来事…。クリスマスの日はどんなことをしただとか、親とはどんな関係を築いていたのか? だとか…。そうやって作った、元の情報に限りなく近い過去を、もう一度あんたの肉体に書き込むの。そうすれば、あんたは名前を取り戻せる」

 なるほど…。

「そんなのでいいのか?」

 すると皆月舞子は、頬を少し膨らませた。

「例えば、源氏物語の原本はもう存在しないでしょう? 今、世に伝わっているのは全部写本。でも、私たちは『源氏物語』というお話を知ることが出来る…。まあ、専門家に言わせたら、違うらしいけど…」

 それから、皆月舞子はこうも続けた。

「大阪城だって、きっと昔の姿を忠実に再現しているんだろうけど、再建されたものでしょう? 実際の大阪城がどんなだったかは誰も知らない…。でも、今日もあそこに建っている城は、豊臣秀吉が建築した立派なお城だ。いやまあ、エレベーターがあるのはいかがなものかと思うけど」

 とにかく! と言って、スカートの裾から覗く太ももを叩いた。

「私が今からやらなければならないのはそう言うことなの。あんたの過去を、一から書き直す」

「ああ、なるほど…」

 僕は頷き、俯いた。

 消えてしまった過去を、完全に復元することは不可能。だから、極力消えてしまう前の形に近づくようにしながら書き直す…。

「まあ、なんとなく理解できたよ」

 要するに、写本を作るってわけだ。

「でも、どうやって? 原本は残っていないのに…」

 胸に浮かんだ疑問を皆月舞子にぶつけると、彼女はまた顔を顰めた。

「あんた、ほんと鈍いね」

「いや、それは…、過去が消えているから…」

「脳がダメなのね」

 僕の言い訳を一蹴した後、答えてくれる。

「確かに、『記録された過去』は消えたけど、『痕跡』は消えたわけじゃないからね」

「…なるほど」

 わかっていないのに頷く。当然皆月舞子にはお見通しのようで、彼女は僕を睨んだ。

「このサービスは『過去改変』なんて謳っているけど、実際に改変されるのは、自分の認識だけ。例えば、『貧乏な家に生まれた』って過去を、『裕福な家に生まれた』ってものに書き換えたところで、その過去を認識できるのは本人のみ。周りから見れば、そいつは相変わらず貧乏性で、実際に金持ちになっているわけでもない…」

「ああ、『痕跡』ってそう言う…」

 僕の横槍に嫌な顔をしつつ、皆月は頷いた。

「あんたは今、自分の名前と、過去を認識することが出来なくなっているだけ。でも、あんたがこの世界で生きた痕跡はちゃんとこの世に残ってるの」

 そう言うと、彼女は、とんとん…と床を足で叩いた。

「このアパートだって、あんたが借りたんでしょう?」

「ああ、うん」

「これも、痕跡だ。あんたが生きた痕跡だよ。だからね、過去を復元するべく、私とあんたがやらなくちゃいけないのは、あんたに関連するものに片っ端から当たっていって、あんたがどんな人間なのか? どんな人生を送ってきたのか? と探ることだよ」

「うーん…」

 お金持ちになったことになっているが、実際にお金持ちになっているわけじゃない。

 存在が消滅したということになっているが、実際に消滅したわけじゃない。

 わかるようでわからない、漠然とした話に、僕の脳は沸騰しつつあった。

 黙りこくっていると、皆月が言った。

「そうやって駆けずり回っていたら、そのうち思い出すと思うよ」

「え…」

 顔を上げると、彼女は僕の方を見ながら、己のこめかみをとんとん…と叩いた。

「再三言うけど、人が自己を認識するときは、己の名前に保存された過去を読み込んでいるの。でも、その過去が消えてしまったから、あんたは自己を認識することが出来ていない…」

 皆月舞子は首を横に振った。

「でもね、これは記憶喪失とはまた違うよ。あくまで自己の認識ができないないだけ。記憶はちゃんと、あんたの脳に保存されている…。きっと、自分の過去について調べていたら、そのうち脳に保存された記憶の方で自己を認識できるようになるから…」

「…………」

 やはり、何を言っているのかわからなかった。

「そ、そうか…」

 だが、皆月舞子の機嫌を損ねるのが嫌で、わかった風を装う。

 彼女は「嘘つくな」と言って、僕の脛を蹴った。

「要するに、今やるべきは、自分探し。その繰り返し。そうすれば、いつかは、あんたは自分の名前と過去を取り戻す」

「ああ、うん」

「わかった? 私の話」

 皆月はそう言って首を傾げた。

 僕はぎこちなく頷く。

「なんとなくはわかった。つまり、僕と関係のあるものを片っ端から探って、僕の過去を忠実に再現し、書き直すってことだろう」

 皆月舞子は頷かなかった。構わず、僕は聞いた。

「それで、その復元作業を続けたとして、どのくらいで完成するんだ?」

「そうだね…」

 皆月は顎に手をやると、天井を仰いで考えた。

 ちらっと、黒い目が僕を見る。

「大体、三年くらいかな?」

「三年?」

 茫漠とした時間に、僕の声が裏返る。

「嘘だろ? 三年もかかるのか?」

 すると、彼女は首を横に振った。

「嘘、一年」

「嘘?」

 血管が痙攣するように震えるのが分かった。

「お前、いい加減にしろよ。なんでそんなことを…」

 人を舐め腐っている、女子高生のコスプレをした女に一喝しようと息を吸いこんだが、風船の空気が抜けるように、身体の力が抜けた。

「…い、一年? 一年もするのか?」

 最初に言われた三年に比べれば大分少なかったが、それでも、一年もこの状態というのは気が遠くなった。

 皆月舞子は椅子を揺らしながら頷いた。

「だってそりゃ、一から書き直すんだから、そのくらいの時間は必要でしょう? しかも、こういうことするの初めてだから、もっと時間がかかる可能性だってあるし。二年、三年、もしかしたら、四年…」

 そして、椅子を止めると、背を丸め、上目遣いに僕を見た。何か企みを含んだ、艶っぽい目だった。

「そこでよ。提案」

「提案…」

 思わず身構える。

 皆月舞子は己の胸に手を当てた。

「いい? 私は今から約一年もの間、ナナシさんに付きっ切りで復元作業を行うの」

「…ああ、うん、確かに」

「確かに、私はあの店から大金を貰っているし、必要経費は申請すればもらえるけど、それをもってしても、一年も働き続けるのは割に合わない。現実的じゃない」

 あんたも嫌でしょ? と言って、彼女は僕の胸を指した。

「私みたいな面倒な女と一緒にいたくないでしょ」

「いや、そんなことは…」

「あらそう? 私はあんたみたいな根暗と一緒にいるのは嫌よ」

 相手を不快にさせまいと思って否定したのに、強烈なカウンターが返ってきて、僕の胸に突き刺さった。

 この野郎…って思う。

「まあまあ、そんな怖い顔しないでよ」

 悪びれる様子も無く、皆月はへらっと笑い、己の眉間をトントン…と叩いた。

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