第8話

「改めまして。私の名前は、皆月舞子。真崎さんに依頼されて、消えてしまったあんたの名前を復元するべくやってきた姓名変更師ね」

「あ、はい」

「よろしく!」

 僕を見据えた女の子…じゃなく、皆月舞子は、白い歯を見せてニヤッと笑った。

 僕もなんとなく頭を下げ、彼女に応える。

「よ、よろしくお願いします。僕の名前は…」

 癖で名乗ろうとしたが、やはり、名前は出てこなかった。

 尻切れで終わってしまった自己紹介だったが、皆月舞子は気にした様子はなく、僕の胸を小突いた。

「じゃあ、今日からあんたの名前は、ナナシね」

「え…、ナナシ?」

「そ。あんたを呼ぶときに、名前が無いと不便でしょう? 仮の名前だよ」

 ナナシ…、ああ、「名無し」ってことか。

「それより、早く入れてよ。寒いんだから」

 皆月舞子は大げさに身体を震わせると、ローファーを履いた足で、扉を蹴った。

 ガンッ! と、嫌な音がアパートの通路に響き渡る。

 いろいろ言いたいことはあったが、これ以上近所迷惑になるわけにもいかないので、僕は一歩下がり、履いていたサンダルを脱いだ。

 顎で、廊下の方をしゃくる。

 皆月舞子はにやっと笑い、部屋に一歩踏み入れた。

「お邪魔しまーす」

 扉を勢いよく閉め、花火の最後の一発の如き轟音を響かせると、ローファーを脱いで上がり框に足を掛ける。

 壁に背をもたれた僕は、彼女の全容を眺めた。

 改めて見たとしても、彼女がブレザーを身に纏っている…という事実は変わらなかった。どこからどう見ても彼女は高校生で、どこからどう見なくても、彼女は未成年だった。

「なに?」

 僕の視線に気づいた彼女は、顔を顰めた。

 変態…と思われても嫌なので、僕は聞いた。

「いや、君、高校生だろ?」

「お、ありがとー」

 何故か感謝される。

 ニヤッと笑った皆月舞子は、僕の胸を小突いた。

「もう成人してるよ。お酒も飲めちゃう」

 よく見ると、左手に提げた鞄も、スクールバッグを思わせるデザインをしていた。

「この格好の方が、いろいろ都合が良いからね」

 そう意味深なことを言った皆月舞子は、僕を差し置いて廊下を突き進み、まだ布団が敷きっぱなしになっている居間へと入っていった。

 まだいろいろ聞きたいことはあったが、ぐっと飲みこみ、僕も廊下を進み居間に入る。

 皆月舞子は、丁度僕の椅子に腰を掛け、ひと段落したかのようなため息をついていた。

 鞄を足元に置くと、カモシカのような脚を組んで。頬杖をつく。

 上目遣いに、僕を見た。

「じゃあ早速、お仕事の話をしていこうじゃない」

「あ…」

 彼女の傍若無人な態度のおかげで、すっかり忘れていた。

 僕は布団を適当に畳んで押し入れに戻すと、座布団を引き寄せて座ろう…としたのだが、椅子に座った彼女に見下ろされるのが嫌で、壁にもたれかかった。

「やめてよ、見下ろすの」

 僕に見下ろされるのに顔を顰めつつ、皆月舞子は話を始めた。

「じゃあ、まずは…、ナナシさんも心配している、過去の復元について」

「あ、うん」

 僕は大げさに頷き、気を取り直そうとした。

「どうなんだ? 直るのか?」

「直らない」

 即答だった。

「嘘だろ?」

 足元がぐにゃりと歪むような感覚。膝から崩れ落ちた瞬間、皆月はため息交じりに言った。

「半分嘘」

「は?」

 苛立ちの籠った視線を皆月に向けると、彼女は鼻で笑い、肩を竦めた。

「直らないって言えたら、どれほど楽だっただろうね」

「どういうことだ?」

「それを今から説明する」

 皆月舞子は足元にあった鞄を引き寄せると、金具に触れ、開けた。中から取り出したのは、黒色のノートパソコン。机の上にあった小説を端に追いやって置くと、開いて起動した。

 黒い画面に浮かぶ、「now roading」の文字。それを横目に、皆月は言った。

「真崎さんにも言われたでしょう? 直ることには直るけど、かなり難しいって」

「ああ、うん、言われた」

 そして、真崎さんじゃ直すのが難しいから、君にお鉢が回ってきたと…。

 丁度その時、心地よい音と共に皆月舞子のパソコンが起動し、取っ散らかったデスクトップが表示された。

 彼女は小さなため息を吐くと、タッチパッドに触れる。

「真崎さんから送られてきたビタースイートを確かめたんだけど、もう酷いのなんの。九十五パーセントもの過去が破損してたわけよ」

「九十五パーセント…?」

 でもあの人、八十五パーセントって…。

 僕が何を考えているのか悟ったように、彼女は鼻で笑った。

「昔から、無能なくせに見栄張る人だったからね、いつかこういう失敗があると思ってたけど、まさか本当に起こるとは…。まあ、美人さんだから、いざとなれば客と寝ればいいっていうのが羨ましいね…」

 頬杖を突き、息を吐くように侮蔑の言葉を口にする。

「まあとにかく、あんたの過去の、約九十五パーセントが破損してたわけ。しかも、バックアップはとっていないときた…」

「バックアップ?」

 初めて聞く言葉に、僕は声を裏返した。

「ビタースイートって、バックアップとれるの?」

「とれる。というか、取るのが基本。だってそうでしょう? こういうことがあっても、バックアップを取っておけば、そっちの方を出力すれば解決するじゃん」

 ああ、確かに…。

 僕の顔を見て、皆月舞子は、面白そうに笑った。

「もしかして、初耳?」

「初めて聞いた」

「うわあ、説明不足」

 顔を顰める。

「どうせ、手間と予算ケチってそうしなかったんだろうね」

「そんなに金掛かるのか?」

「そりゃそうよ。だって、ビタースイートは、人の皮膚に押し当てるだけで、その肉体に付けられた名前を読み込む画期的な機械なんだから…」

 天井を仰いで言った皆月は、薄い唇に指を当て、にやりと笑った。

「そのお値段は、秘密」

 それから、背もたれに体重を預けた。

「バックアップは取ってないと来た…。まあ、データの破損なんて今まで起こったことが無いからねえ、気持ちはわからんでもない」

「それで? どうするんだよ」

 バックアップを取っていないことを今更嘆いても仕方がなかった。

「別のやり方があるんだろう? バックアップが無くたって、僕の過去を復元する方法が」

 皆月舞子は僕の方を見ると、露骨に顔を顰めて言った。

「もう作り直すしかない」

「作り直す? どういうことだ?」

「そのままの通りよ。理解できないわけ?」

 皆月舞子は語気を強めると、肩を竦める。

「いい? あんたの名前には、あんたの過去が保存されていた。それはバックアップを取っていない限り唯一無二だ。それが消えたの。あんたの過去はもうこの世には存在しない。どこにも、無い…」

 そして、こう言い切った。

「つまりもう、似たものを作るしかない」

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