第7話 【二〇一八年 一月十八日】

 三日後のことだった。

 誰かが、玄関の扉を叩く音で目が覚めた。

「…………」

 目を開けると、煙草のヤニで汚れた天井が見えた。

 息を吸って、吐いて…。血が巡る度に、寝ぼけた脳が冴えてくるのがわかる。

 身体を起こし、目を擦っていると、再び扉を叩く音がした。その、借金取りが押しかけてきたかのような音に、僕は驚いて身を凍らせる。

 息を潜めている間にも、扉はずっと叩かれ続けた。

「…………え」

 誰だ? 誰が、扉を叩いているんだ?

 確かに、今日は真崎さんの言っていた姓名変更師がやってくる日だけど…、客商売なんだから、こんな乱暴に叩き方をするはずがない。そもそもインターフォンあるし…。というか、今は朝の六時半だぞ。非常識にも程がある。

 ということはつまり、あの扉の前にいるのは、非常識な奴…。

 そこまで想像した僕は、粘っこい唾を飲みこんだ。

 脳裏を過るのは、刺青をしてサングラスを掛けたがたいのいい男。

 ありえない話じゃない。名前を失う前、僕はもしかしたら、相当なやんちゃをしていて、多方面から怒りを買っているのかも…。

 とにかく僕は立ち上がると、足音を立てないようにしながら、扉へと近づいて行った。

 ドアスコープ越しにそいつの顔を確認するつもりだったのだが、三歩踏み出したところで、床板が甲高い音を立てて軋んだ。

 あ…と思った時には、もう遅い。その音は薄い扉の向こうのやつにも伝わったようで、次の瞬間、一層激しく叩かれた。

 ドンドンドンッ! と、重々しい音が、朝の冷え切った大気を震わせる。

 これ以上は近所迷惑にもなると思った僕は、歩を速めて扉に近づくと、ドアスコープを確認する余裕も無く、サムターンキーを捻った。

 ドアノブを掴んだ時、チェーンをした方がよかっただろうか? と思ったが、もう引き返すことはできない。そのままの勢いで開いた。

 その瞬間、隙間から銃口が突き出て、僕の心臓を撃ち抜く…。

 なんてことは無く、隙間から出てきたのは、白い手だった。

 細くて、皺の無い、綺麗な手。

「え…」

 想像とかけ離れたものの登場に、僕は固まる。

 その手は扉の縁を掴むと、引いた。

「もう、早く開けてよ」

 開け放たれる扉。

 そこに立っていた者を見た時、僕は再び、変な声を上げた。

「あ…」

 そいつは女だった。若い女だ。

 汚れ一つないきめ細やかな肌に、猫を髣髴とさせるぱっちりとした目。鼻は程よく高く、頬の輪郭は柔らか。背は僕よりも低い。一六〇センチくらいか? 後ろで束ねられた黒髪が、東から差し込む紫色の陽光を反射して煌めいていた。

 そして、その女の格好にも、僕は驚愕した。

「え…、高校生?」

 その女は、見覚えの無い高校のブレザーを身に纏っていたのだ。この極寒の中、スカートを膝よりも高く上げ、裾からはしなやかな脚が伸びており、その白さたるや、まるで朝日のよう。

「え、ええ…」

 誰だこいつ…。僕にこんな知り合いがいたのか? まあ、僕を訪ねてくるってことは、知り合いなんだろうな…。全く身に覚えが無いけど…。

 五秒悩んだ末、僕は彼女のことを知っている風を装い、片手を挙げた。

「や、やあ、久しぶり。よく来たな」

「はあ?」

 女の子は眉間に皺を寄せ、声を裏返した。

「あんた何言ってんの? 初対面でしょうが」

「え…」

 しまった。判断を間違えたか…。

「ああ、ごめん、そうだったね」

 素直に間違いを認め、彼女に謝る。だが、すぐに違和感に気づき、顔を上げた。

「え、じゃあお前、誰だよ」

 なんで、初対面のやつが、僕の部屋を訪ねてくるんだ…。

「はあ?」

 女の子はまた眉間に皺を寄せた。今度は、首も傾げていた。

「真崎さんから聞いてないの? 今日来るって」

「え…、真崎さん?」

 彼女の口から、僕の担当だった姓名変更師の名前が出たことで、女の子の正体を理解した。

 半歩下がると、震える指を彼女に指す。

「え、じゃあ、君が…、僕の過去を復元してくれる…」

「他に誰がいるわけ?」

 女の子は少々鼻につく口調で言った後、薄い胸に手を当てた。

 瞬間、切り裂くような風が吹いて、彼女の黒髪を揺らした。

 白い息を吐いた女の子は、寒さに右頬を引きつらせながらも、名乗る。

「改めまして。私の名前は、皆月舞子。真崎さんに依頼されて、消えてしまったあんたの名前を復元するべくやってきた姓名変更師ね」

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