第6話 昔懐かし尊し縁(えにし)
ある日曜日の昼過ぎ。
食器やフライパンを洗って、新作ドリンクの下ごしらえを終えてからリビングに戻ると、
「兄さん」
テレビの正面、二人掛けのソファに座っていたノエはぽんぽんと自らの太腿を叩いた。
「ほら」
再び太腿をぽんぽんと叩き、にっこりと笑った。
これは、俺は何かを試されているのか?
そう思いつつもノエの笑顔に抗えず隣に腰を下ろし、ノエの脚に頭を乗せた。
もしこの行為がノエの意図するところでなかったとしても、兄が妹に膝枕をしたりされたりするのは至って普通のことだ。
そんな危惧はしていたが、ノエの顔を見上げると満足そうにしていたので杞憂で済んだらしい。
「今度は一体、なんのあれだ?」
尋ねるとノエの手の平が俺の頭に乗せられ、沿って動いた。
「膝枕占いです」
なんだそれは。
思いつつも、そう思うこともいつものことなので出かかった言葉を飲み込んだ。
ノエの体温は俺よりも少し高くてとても心地良い。
目を閉じてノエに集中すると、ノエが俺の髪を指で弄び始めるのが伝わってきた。
「兄さん、髪伸ばさないんですか?」
「どうした急に?」
「このまえ、わたしたちがまだ星稔本家に居た頃の夢を見たのを今、ふと思い出しまして。昔は伸ばしていたじゃないですか?」
「伸ばしていたというか、伸ばさせられていたというか」
星稔の本家に生まれた者には大小合わせて七つの慣わしがあり、そのうちのひとつに十になるまでは女子の姿で生活しなければならないというものがある。
しかも整える目的以外で髪を切るのも禁止されていたので非常に長く、夏場は熱が籠って地獄のようだった。
言ってしまえば因習である。
「子供のときならまだしも、今の俺の形(なり)じゃあ、似合わないだろ」
「そうですか? 兄さん、今でも似合うと思いますよ?」
そう言ったノエの声は半笑いだった。
「笑ってんじゃねぇか」
「だって、想像してしまいまして」
「っはは」
俺も今の自分が髪を伸ばした姿を思い浮かべ、笑いが零れてしまった。
再び目を開けてノエの顔を見上げると、ノエの細めた目と目が合った。ノエはにへぇと笑い、その愛らしさに少し見惚れてしまい、照れ隠しのために目を閉じる。
ノエの柔らかい手に撫でられる感覚や伝わってくる心臓の鼓動は、そしてノエの背負う星は俺を心身共に落ち着かせる。
深い世界に落ちて行くようでいて、青空を漂う雲に浮かぶようでもある。
昨日の夜はしっかりと眠れた。それも八時間の快眠だった。
だというのにノエの手によって、俺は睡眠へ誘われてしまう。まるで魔力でも宿っているかのように。
両親は俺を愛してくれた。
祖母は少なくとも俺には嘘を吐かない人だったので俺を普通に扱った。
だが、それ以外の親戚や赤の他人は、他人の心の裡を覗き見るような俺を気味悪がり煙たがった。
その頃の俺にとっての光は、陰りのないノエの星だけだった。
少なくとも物心が着いた頃には、星なんて感じられなかった。
いつの間にか、それこそ流れ星が現れて消えるくらい気づかないうちに俺は星を感じられるようになり、その星の性質や調子の変化で嘘がわかるようになっていた。
他人からは嘘だとわかるのになぜ嘘を吐くのかがわからないとずっと思っていて、他の人には星が見えないことに気が付くまでに随分と時間を要した。
あれは又従兄の嫁だったか、はとこの嫁だったか。
男関係の嘘を徹底的に看破し、離婚に至らせてしまったことがあった。
いや、正確には違うな。
離婚したのは嘘を看破した俺を、あの女が引っ叩いたからだ。
元々親戚連中の嘘を指摘していた俺は、特に若年組からは疎まれていた。しかし家の名前を何より重視する年輩組は、本家筋の俺に手を挙げる嫁を許さなかった。
それからは色々とあり、あの女は星稔から距離を取った。
それ以前にも小さなトラブルはあったが、皆が皆本家筋の俺に強く出られず、あの女だけが俺を真正面から罵った。
「イカレてる!」
それは俺個人への言葉だったのか、星稔一族に対してだったのか、俺が嘘を看破したことに対してのものだったのか、俺を叩いたことへの年よりグループからの避難に対してのものだったのか、あまりよく覚えてはいないがそのとき俺がその女に帰した言葉ははっきりと覚えている。
「俺は普通だ、おかしくなんてない」
女がもう一度俺を引っ叩く素振りをみせたが、手のひらが俺に届くより先に、下男に取り押さえられた。
取り押さえられながら俺を睨む顔が、最後に見たあの女の顔だ。
それから一年ほどして俺は女装の戒めから解放され、そして祖母の部屋に呼ばれた。
祖母自体は一族の者とよく関わっていて、俺もノエも可愛がられてはいた。しかし当代である祖母の部屋に入ることが許されたのは、付き人の下女と、祖母に呼ばれた者だけだった。
祖母の部屋は和室で、小さなちゃぶ台と座布団、行灯に屏風、丁寧に畳まれた布団と化粧台に大きな桐箪笥、弦の描かれた押入れの襖、そして占いのための水晶玉がひとつあった。
入ったことはおろか、中を覗くこともしたことがないためどんなものかと思っていたが入ってみればたいしたことはない、普通の部屋だった。
「座りなさい」
促されるまま畳に正座すると、祖母は厳かに表情を引き締めた。
「まずは、十歳の誕生日おめでとうございます」
続いて祖母は畳に手を突き、頭を三十度ほど傾けた。
「ありがとうございます」
釣られて緊張し、同じ所作をして答えた俺に祖母は優しく笑った。
「ふふふ、そんなに畏まらなくてもいいわよ。挨拶は形式だもの。だけどこれから話すことはとても大事なことだから、しっかりと覚えてちょうだい」
「大事な、こと?」
「そうよ。これからするのは星稔一族の歴史と私やお前の妹の火乃恵(かのえ)、そして星稔家の女子に受け継がれる、特別な力の話」
俺はそこで初めて星稔の占いの力のことを知り、為政者とは距離を置く定めにあることとノエには強大な素質が眠っていることを聞かされた。
それと同時に、俺の星を感じる力は星稔のものではなく俺独自のものなのだと察し、親戚連中が俺を良く思っていない理由もまた理解した。
「強い力は孤独を生み、ときに力の主を蝕む」
それはノエのことを指した言葉だったが、俺自身にも深く刺さる言葉だった。
「だから兄のお前が妹を守り、助け、普通の世界に導いてやりなさい。ただ、傍にいてやるだけでいい」
そう告げられた。
――俺は普通だ、おかしくなんてない。
ノエを普通の世界に導くのだから、俺は普通でなければならない。
祖母の部屋で最後に俺が発したのは、こうだった。
「もちろん、俺がノエをこの世すべての悪意から守って見せるよ」
俺はノエを放さない。
孤独の力と孤独の力。
そのふたつが傍にいれば孤独ではなくなり、純粋な力となる。
純粋な力ならば、何者にだってなれるのだ。
そうすれば俺もノエも普通の世界で生きられる。
俺は幼いながらにそう悟り、満面の笑みで祖母の部屋を後にした。
部屋を出る寸前ふと見やると、祖母の星は弱々しくて淡いものだった。
※
「お義兄さんずるぅーい!」
「まったくだぜお兄様よぉ、何様のつもりだぁ? いやお兄様なんだけどよ」
IQの低そうな声が二種類聞こえた気がして、意識がだんだんと覚醒してきた。
懐かしい夢を見た、と目を閉じたまま夢のことを考えていると、
「あたしと変わってくださいよぉ」
身体を揺すられてゆっくりと目を開くと俺を見下ろしている顔が三つあった。
ひとつは愛らしいノエの顔であり、残りの二つはノエの非公式ファンクラブの会長・花恋(かれん)。そして副会長の恵(めぐみ)だ。
「なんでお前らがここにいる」
「ふっふーん、なんとですね、今日は我らがノエちゃんに占いをやるからと御呼ばれされたんですよ! これはもう脈ありですよね! お義兄さんの公認が頂けてもいいと思うんですよ、あたし的には!」
「な、オ、オレだって呼ばれたんだぞ? お前だけ公認をもらうなんてズルいだろ、お兄様。オレにも公認を」
前髪を掻き上げるとLEDの光を銀色に光る指輪が目に止まった。寝ている間にノエに付けられたようだ。
少し指輪を眺め、手を下ろして体を起こす。
「ははっ」
馬鹿なやり取り普通を感じ、思わず笑いが零れてしまった。
「誰が『我らがノエ』だ。いつお前らのになった」
ノエを抱き寄せ、
「ノエは俺のだ」
無意識にしたり顔になるのを感じながら恵と花恋を見やると、なんとも形容しがたい顔を向けてきた。
なんだその顔は。
「兄さんっ!」
ノエは頬を紅潮させ、顔の前で指をもじもじさせていた。
「お兄様さぁ、ノエちゃん独占は国際法違反だぜ?」
「なんだその悪法は」
「ノエちゃん成分をあたしにもーっ!」
花恋は俺とノエの座るソファに寄るとノエの膝に飛びついた。
「ふへへ、ノエのちゅあんの、膝ぁ!」
「やぁ。兄さん、助けてくださぁい」
「へへへ、良い匂ぉい」
「おい花恋、ファンクラブ会長として恥ずかしくないのか! ノエちゃんから離れろ!」
恵が花恋の襟首をつかんで引き離すと、花恋はデレデレとした締まりのない表情をしている。
非公式ファンクラブの二人、恵と花恋は一周まわって中の良さそうな口論を初め、ノエは俺の腕の中に納まっている。
普通の幸せとはこういうのを言うのだろう。
「それでノエ、今日はどんな占いをするんだ?」
「はい、今日もまた兄さんに手伝って貰いたいことがあるんです」
「ああ」
妹のワガママを聞いてやるのが兄として生まれてきた者の運命というやつだ。
俺は恵に蹴りを入れて下らない言い合いを終わらせ、
「勿論、俺にまかせておけ」
ノエの願いを快諾した。
〈昔懐かし尊し縁(えにし)・終〉
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