第4話 未来の世界

 自分たちが、近い将来、そんな怖い状況に追いやられてはいるのだろうが、さすがに、

「自分たちの世代ではないだろう?」

 と思っているのは、何十代くらいまでであろうか?

「後50年作くらい」

 と考えれば、20代ではギリギリ怖いところであろうか?

 しかし、もっと考えれば、人間というものは、そのくらいまでいけば、身体が生身のものではなく、

「機械の身体」

 というものになっているかも知れない。

 ただ、これも、その身体を買うにも金がいり、超高級レベルで金を持っていないと、機械の身体など手に入れられるわけはないということになるだろう。

 もしそうなったとすれば、その人は、基本的に、人間という寿命というのはなくなり、「その機械の身体が、劣化しない限り、ずっと生き続ける」

 ということになったとすれば、今度は、

「別の身体を買うのにも、またお金がかかる」

 ということになるのだ。

 だから、自分が、

「その身体をいつまで保ち続けることができるか?」

 もっといえば、

「いくつの身体を手に入れられるまで、お金が残っているか?」

 ということが問題なのだ。

 問題は、そんな機械の身体を手に入れた時の自分が、

「ロボットなのか、人間なのか?」

 ということである。

 そんな時代になると、最初こそ、

「人間だらけの中に、ロボットがいる」

 という感じなのだろうが、そのうちに、

「人間は減ることはないかも知れないが、ロボットばかりが増える」

 ということになるだろう。

 何しろ、金のある人間は、機械の身体を手に入れるというわけなので、人間が寿命を迎えると、どんどん、機械人間が増えてくることになる。

 最初こそ、高価だったのだろうが、技術が発達してくると、大量生産が可能になり、それだけたくさんの機械の身体ができると、次第に単価が安くなってくるだろう。

 なぜなら、たくさん作ったのだから、それだけ使ってもらわないと、作っただけ、売れ残れば、損をするということになるのだ。

 だから、次第に、

「庶民の手にも届くようになる」

 ということで、これは、収容電気製品が開発されて、その売れ行きと似ているではないか?

 そう、いずれは、

「人間の身体というのも、電化製品にすぎない」

 ということになり、耐用年数が過ぎると、

「どんどん買いかえればいい」

 という時代がくるのだ。

 そうなると、どうなるかというと、機械人間が圧倒的に増えてくる。人間が少なくなってきて、下手をすると、

「ロボット世界」

 においての、

「絶滅危惧種になるかも知れない」

 そのうちに時代が進むと、

「どの動物が、高等動物だったのか?」

 というのが分からなくなるだろう。

「ロボットを作ったのは、どの種族なのか?」

 と言われている場合はまだいいが、それこそ、

「ロボットは神が作った」

 という神話ができてくれば、誰が、

「人間が最高の高等動物で、ロボットを作った」

 ということが、最高国家機密となり、人間も他の動物同様に、家畜となるか、ノラになるか?」

 ということになると、

「その世界におけるロボットは、今の人間と同じ世界や秩序を築いているのかも知れない」

 と思うのだった。

 ということになると、

「じゃあ、人間は、何か他の動物に取って代わったということも言えるのではないか?」

 と考えられなくもない。

 それを知っている人がいて、それが実は、最高国家機密だったということになっているということだったとすれば、

「国家ぐるみで、必死に何かを隠そうとしている」

 と思うと、

「実はこの世界で君臨している人たちは、その秘密を知りながら、秘密として守ろうとしている」

 と考えると、

「いろいろな国でいろいろな主義の国があり、それぞれに、戦争が行われているが、それは、定期的に戦争を起こさないと平和な時代であれば、この最高国家機密に触れるやつがいて、それをごまかすための、戦争だ」

 ともいえるのではないだろうか?

 もっとも、こんなバカげたことを考えるというのもおかしなことになるのだが、

「ありえない」

 ということではない。

 そう考えれば、いろいろ不可思議なことも説明がつきそうだ。

 まず一つ考えられることとして、

「ギリシャ神話」

 における、

「オリンポスの神々」

 というものに対しての考え方である。

 「全能の神」

 ということで、神々の世界に君臨している、

「ゼウス」

 というのがいるが、

「全能の神」

 でありながら、やっていることは、一番人間臭いというか、

「神として、あるまじき行為」

 というものだといえるのではないだろうか?

 自分のわがままから、人間のオンナに片っ端から手を付けてみたり、それを知った女神たちが嫉妬から、人間界に災いをもたらしたり、さらには、ゼウスが、

「自分のいうことをきかない人間を、部下である神に命じて、一つの国を滅ぼさせる」

 というようなことを平気でしているということを、神話として書いているではないか。

 神話などというと、本来なら、神は全能であり、人間をおつくりになったということで、崇められるはずの存在なのだが、実際には、崇められるどころか、それは、

「人間をまるで自分たちの道具のように手玉にとる」

 というのである。

 しかも、自分たちのわがままという都合でそんなことをするのだ。

 誰が、許せるというのか?

 ということである。

 もし、この話に信憑性があるとすれば、実は、この事実を信じることはしないが、

「神というのは、怒らせると、何をするか分からない存在だ」

 ということで、神の世界に踏み入れようとするのを、わざとこういう恐ろしい書き方で、戒めているのかも知れない。

 これが聖書の世界になると、

「バビルの塔」

 の話のように、

「神に近づこうとすると、どうなるか?」

 ということへの戒めになるのだ。

 そもそも、同じ流派が、別れて行っただけとすると、その描き方には、違いがあれど、言いたいことは同じなのだろうと思うと、

「人間を作った神の世界に踏み込んではいけない」

 ということが、機械の世界では、

「人間の世界に踏み込んではいけない」

 という発想になったとしても、それは無理もないことである。

 そんな世界において、

「人間と神」

 の関というのは、どういうものだったのだろう?

 ひょっとして、本当に神というものが存在していて、時々、神が人間の姿となり。警鐘を鳴らしにきたのだろうか?

 それでも人間が戒めをきかないので、その話を神話として残すことで後世への戒めとしたのだろうか?

 もっとも、聖書などによれば、幾度か神は、人間社会を壊そうとしている。

「ノアの箱舟」

 のような大洪水にしても、

「もし、似たような大洪水がないと、あそこまでの発想は思いつかないだろう」

 ということになる。

 ということは、

「本当に、あの大洪水はあったというのか?」

 とそれとも、

「神が降臨され、あの話を書き残すように言われたとすれば、話としては、繋がるのかも知れない」

 しかし、あまりにも、今の時代が、

「本当にあの時代の大洪水が起こりそうな気がしてくることから、本当に恐ろしい時代になった」

 といってもいいだろう。

 それを思うと、

「未来を予見していることでの警鐘」

 ということを、いい意味で解釈すれば、考えられないこともない。

 しかし、警鐘を受けたとしてどうなるというのか?

「ノアの箱舟」

 のようなことを、もう一度すればいいというのであろうか?

 あの話は、まるで

「オオカミ少年」

 の話であるかのように、

「誰も信じなかった」

 ということから、助かろうとして、我先にということで争いが起きなかった。

 しかし、あの話を知っている今の人類であれば、どうだろう?

 やはり、

「そんなバカなことはないだろう」

 と思うであろうか、

 中東などのように、強烈な信者が国家を作っているようなところでは、

「神の存在」

 を信じているであろうから、どういう行動をとるかということは、その宗教の教えによって異なるであろう。

 しかし、今の日本ではどうだろう?

 昔の、隠れキリシタンのように、

「たとえ殺されても、死後の世界で幸せになれる」

 という発想を持っているような人間はいないだろう。

「宗教の自由」

 といっても誰も、ほとんど、宗教を信じていない。

 それは、きっと、

「悪徳カルト宗教」

 というものが、今の時代に暗躍をしているから、こんな世界になっているのだ。

 しかも、今は戦争もなく、平和な時代であるから、余計に、

「平和ボケ」

 もある。

 しかし、特に今は、政治と絡み合って、悪徳なことを、まるで政府に認められたかのように、

「いや、認めている形になっている」

 というようなこの時代では、どうしようもないといってもいいだろう。

「宗教と政治」

 これは、今も昔も変わっていないのだ。

「オオカミ少年」

 の話もそうであるが、

 昔から、バカげているという話は、一周されて終わりなのだが、もし、ノアの前に現れた神様が、もし、ノア以外の人を選んでいたらどうだろう。

 ノアだったから、相手を神様の化身だと思ってのか、それとも、ノア以外の笑っている連中が相手でも、すぐに神様だと信じることができたのだろうか?

 というのも、もし、ノア以外の人が選ばれて、その人が箱舟を作り始めれば、ノアの立場を、その人が踏襲することになる。

 ということは、その人が箱舟を作り始めて、ノアはそれを見て、笑っているということになるだろう。

 ここは、あの物語では、重要な意味を成すわけである。

「どういうことなのか?」

 というと、まずは、

「神様がノアを選んだことが正解でなければ、それまでの人間は、ノア以外、罰当たりな連中ばかりで、神様が地表を滅ぼそうと思われたというのも間違いではない「

 ということになり、

「神様は、やはり偉大だ」

 ということになるのだ。

 そして、

「大洪水を起こしたのか?」

 それとも、

「大洪水が起こるということを、神様が予見できたということなのか?」

 ということで、発生した大洪水であったが、それにより、

「神様の思惑通り」

 地表の生物は死滅してしまった。

 そして、水が引いてきて新たな世界ができてきたわけだが、考えてみれば、

「大洪水を起こさせる神様なのだから、水が引くまでにそんなに長く彷徨わせるということは、本当は神が起こした洪水ではなく、たまたま起こった大洪水に、神様が便乗したのかも知れない」

 ということになると、話の内容は変わってくる。

 神様は、人間を助けようという意思はあるが、

「そんなに大それたことはできないので、せめて種の保存ができるくらいのことはしてあげた」

 ということになるのか、それとも、

「人類が死滅してはこまるので、何とか一人だけでも助けようとしたのか?」

 というだけのことだったのかも知れない。

 こちらは、

「人類のため」

 というわけではなく、

「神々の都合」

 ということだろう。

 それでも、

「オリンポスの神々に比べれば、まだマシだ」

 といえるだろう。何しろ、

「自分たちのわがままであったり」

 たとえば、

「不倫の証拠を消したい」

 というだけで、一つの人間の国家を滅ぼすことができるだけのことをするのだから、ノアの神が、洪水を起こしたのでないとすれば、

「オリンポスの神は、ノアの神よりも力があるというべきか、自分たちの都合で、どれほどむごいことができるのか?」

 ということである。

 つまり、

「ノアの箱舟」

 の真相のその裏には、オリンポスの神々にあるような、

「自分たちの都合をいかに正当化し、世界を滅ぼすことに勝手な理屈をつけられない立場にあることで、あのような話にしなければいけなかったのか?」

 ということである。

 つまりは、

「ノアの神」

 というのは、

「オリンポスの神々」

 と、まったく変わらない、人間のことなどどうでもよく、最終的には自分たちだけの都合でことを起こすというもので、戒律などを定めたのも、

「人間をうまく操るため」

 ということであろう。

 そんなことを考えていると、神様なんてあてにならない。全能の神と言われているのが、人間に対して、

「何をするか分からない」

 などということであれば、本当にロクなものではないだろう。

 また、これは、

「全体を滅ぼす」

 ということではないが、

「秩序も何もなくなってしまった街」

 というウワサを聞きつけた神が、その街を滅ぼそうとした時、その悪い連中に拘束されていた家族をまず救い出すということをしたのだ。

 その時に、神は救い出した家族に、

「何があっても、決して後ろを振り向いてはいけない」

 とくぎを刺して、家族を安全な場所に導こうと歩いていたのだが、そこで、その途中に、後ろから、轟音が響いてきたことで、奥さんが振り向いてしまったのだ。

 旦那は。

「見るな」

 と言ったが遅かったようで、奥さんはそのまま砂になってしまったということだったのだ。

 これは、聖書にだけ言われることではなく、全世界に残っている神話であったり、寓話などに残っているもので、いわゆる、

「見るなのタブー」

 と言われるもので、

 例えば、日本であれば。

「浦島太郎」

「舌切り雀」

「鶴の恩返し」

 などがそれで、

「ギリシャ神話」

 であれば、

「パンドラの匣」

 などがその例としてあることだ、

 すると、この、

「見るなのタブー」

 があった場合というのは、たいていの場合、

「見るな?」

 と言われたものを見てしまい、ほとんどは、死んでしまったり、石になったりするのであるが、生き残った人間も、不幸にしかならないということだ。

 つまりは、

「してはいけない」

 と言われたことをしてしまうと、神様のバチが当たるという、いわゆる、

「戒め」

 なのである。

 このお話を、

「ソドムとゴモラ」

 というのだが、

 その時の村を、ソドムの村というのだが、そこを一瞬にして破壊したのは、

「核兵器」

 ではないか?

 と言われている。

 もちろん、本当にそうなのかどうか、分かるわけはないが、

 人間が、いかに、

「神の前では無力なのか?」

 ということを描いている。

 そして、もう一つ言えるのは、

「ソドムの村」

 では、

「決して、後ろを振り向いてはいけない」

 という

「見るなのタブー」

 であったが、

「ソドムとゴモラ」

 の話に使われたものが、核兵器のような人工的なものではないとすれば、それが、

「自然現象」

 と言わるかも知れない。

 いや、ひょっとすると、神様が使った、

「核兵器」

 というのは、実は自然現象なのかも知れない。

 それを考えると、

「神様が地表を滅ぼそうとして使用したものは、実は、すべてが自然現象ではないか?」

 とも考えられる。

 たまたま起こった自然現象を、本当は神などいるわけはないのに、

「神の仕業」

 ということで、人間界の戒めというものに使うため、

「あたかも、神のお考えによって、滅ぼされた」

 ということでの、未来に対しての、警鐘ではないだろうか?

 そんなことを考えていると、

「人間は、それだけ、自分たちに未来はない」

 ということを思っていたに違いない。

 それだけ、昔の人は、何よりも人間を信じられなかったということであろう。

 だから、神を想像し、人間ではなしえないことをなしえる存在として君臨させたのではないだろうか?

 しかし、今の時代になって、さらにひどい状況になってきた。

 それは、やはり、

「歴史に学ばない」

 ということなのだろう。

 それとも、それだけ、

「運命は代えられない」

 ということで、

「どんなに過去を勉強していて、分かっていても、同じことを繰り返してしまうのが歴史だ」

 という。

 いい例がヒトラーではないだろうか。

 彼は、ドイツ第三帝国において、独裁者として君臨した。

 その時、第二次世界大戦を引き起こしたというところでは、ある意味仕方のないところもあったのかも知れないが、やはり、大きな失敗は、

「ソ連侵攻」

 だっただろう。

 最初は、電撃戦がうまく行っていたが、急に襲ってきた寒波のために、ドイツ軍は動けなくなった。

 本来なら、撤退しないと危ないのに、

「現状死守」

 という厳命が出たことで、ドイツ軍は総崩れとなった。

 そんな中において、ドイツ軍が、冬将軍にやられたことは、ヒトラーも分かっていたのではないか?

 彼は、ナポレオンも研究していて、よく勉強もしていたはずだ。

 それなのに、なぜか、ナポレオンと同じ轍を踏んでしまい、敗戦に向かって、舵を切ってしまったのだ。

 もっとも、それは、同盟国である日本にも言えることで、

「日本とすれば、完全勝利などありえない」

 と思っていた。

「だから、初戦における、半年くらいで、勝利を重ね、相手が戦意を喪失するほどの、大勝利を収めることで、いい条件で講和を結ぶ」

 と考えていた。

 それ以外に道はないと思っていたのだ。

 しかし、実際に戦争に入ると、計画通り、連戦連長となるのだが、あまりにも計画通りに勝ちすぎたので、今度は、やめられなくなってしまった。

 ここでやめてしまうと、今度は、国内から、暴動が起こるかも知れない。

 日露戦争の時、講和条約で、

「賠償金が取れなかった」

 ということで、

「日比谷汪街道焼き討ち」

 という大事件が起こったではないか。

 今回は、日本国内を戦争一色の状態に国民を煽ってしまったのだから、ここで践祚を辞めてしまうということは、政府批判にそのまま結びつくと考えていたとしても、無理もないことだ。

 だから、大本営は、

「情報統制」

 と行い、負けているにも関わらず、

「勝っている」

 と触れ回り、士気を落とさないようにした。

 というのが、情報統制にたいしての、

「言い訳」

 であったが、果たしてそうであろうか?

 というのも、

「情報統制をしなければ、国民は暴動を起こして、政府も軍も先ゆかず、対外戦争ばかりか、国民まで敵に回すことになる」

 ということであった。

 少なくとも、ウソをついてでも、戦争継続がなければ、政府も軍も終わってしまうからだ。

 そして、実際に、

「日本は敗戦しかない」

 と考えた時、政府も軍も、

「これまでのウソがばれるのが怖くて、それであのような、一億総火の玉というような、国民全員の玉砕ということを考えたのではないだろうか?」

 そうでもなければ、引き際くらいは考えるはずだが、それを一切考えないということは、そういう見方も出てくるということではないだろうか?

 本当は戦争において、政府も軍も、

「国民のため」

 最後まで戦ったとは思いたい。

 ただ、一つ言えることは、

「天皇制継続」

 という、

「国体維持」

 というものだけは、本当のことだったのだろう。

 とにかく、ドイツにしても、日本にしても、過去を十分に勉強はしていたはずなのに、肝心なところで、最初の計画を見失ってしまった。

 ヒトラーの場合は、

「ソ連占領」

 というのは、最初からの大きな目的だったということで、どうしても、引くに引けないということだったのかも知れない。

 どちらにしても、一度踏み外せば、そこからは、谷底を転がるように落ちていくというのが、教訓であったことであろう。

 こんな状況を考えると、

「正義は必ず勝つ」

 ということを、戦争が表しているという教育になるのだ。

 つまりは、

「枢軸国は悪者だ」

 ということで、

「ナチスや、日本軍のやったことを徹底的に悪いことであると宣伝し、戦勝国を祀り上げることで、自分たちもかなりあくどいことをしているにも関わらず、その正当性を訴えているのだ」

 ということだ。

 それが、あの、国際軍事裁判であり、

「勝者による裁き」

 という、歪で茶番な裁判が行われたのであった。

 だから、日本においての、教育も、

「正義は必ず勝つ」

 ということで、大日本帝国は、

「悪い国」

 という教育を受けることになるのだが、歴史を知っている人は、どう思うだろう、

 それは、ナチスドイツにおいても同じである。

 確かに、それは仕方のないことだったのかも知れないが、

「ではイギリスがやったことも許されるのか?」

 ということである。

 第一次大戦の頃から、欧州からは、植民地の民衆を、ヨーロッパの戦争に半ば強引に借り出しているではないか。

 戦争においては、

「悪も正義もない」

 といえる。

 つまりは、

「戦争においては、強い奴が勝つ。つまりは、バカを見るのは、弱い立場の人間である」

 ということであった。

 それを思うと。

「戦争ほど愚かなものはない」

 といえるが、だからといって、過去の戦争を見ないというのでは、本末転倒である。

 戦争がどのようなものかということを考えると、

「戦争がいかに愚かであるか?」

 というのは、教育上必要かも知れないが、

「勝者による裁き」

 によって、処刑された人を、悪いと一刀両断にするのは、いけないことだ。

 そこから圧力がかかっているのか分からないが、戦後、半世紀以上も経って、まだそんなことを言っている政府は、それこそ、

「歴史を勉強していない」

 ということになるのだ。

 だから、自分たちの利権でしか動かない、

「能なしの政府」

 というのが出来上がるのであった。

 聖書や、ギリシャ神話などは、そんな過去の過ちを正しく示してくれているのであろうか?

「宗教の聖典なのだから、それは当然のことだろう」

 と果たして言い切れるのだろうか?

 というのも、

「ノアの箱舟」

 にしても、

「ソドムとゴモラ」

 にしても、

「破壊、しかも、徹底的な破壊」

 が描かれている。

 その元が何だったのかということをも、まったく描かれていない。

 それを思うと、

「人間というものは、その正体を隠すものなのか?」

 と考えると、

「本当に神などがいるわけではなく、人間が犯してしまった、取り返しのつかないことを、神のせいにして、逃れようとしているだけだ」

 とも考えられなくもない。

「だから、神話において、地上を滅ぼしたものは、ただの自然現象でしかない」

 といえるだろう。

 神様の存在が、本当なのであれば、これだけ長い人類の歴史の中で、本当の神というものの存在が、もっとたくさん残っていてもいいだろう。

 しかし、そこで残っているのは、あくまでも、すべて、人間の節目においてだけであり。その瞬間が、教訓として残されることで、その時に、便宜上、神という存在をその時々で、創造する必要があっただけだということであろう。

 人間が神を恐れていたというのは、本当かも知れない。

 それは、

「自分たちが神を人身御供にして、自分たちの過ちを未来に残さないようにしたのが、今も残る昔からの聖典なのかも知れない」

 といえるのではないだろうか?

「もし、神が存在しているということであれば、あれだけたくさんの宗教があるというのもおかしなものだ」

 といえるのではないだろうか?

 というのは、

「そもそも、人間は一つだったはずなのだが、ある時を境にm世界にバラバラに散った」

 ということを示しているのが、

「バベルの塔」

 の話である。

「自らが神に近い存在である」

 ということで、ニムロデ王という王様が、果てしなく高い塔を立てて、自分が神になったかのように君臨しようと考えた時、彼が弓を天に向かって打った時、神が怒って、塔を破壊した。

 ということになっている。

 その時に一緒に神は、王の民を、すべて言葉が通じないようにして、民は、そこから全世界に散っていったということになっている。

 これが、今の全世界で起こっている、多民族化であり、数多くの言語が、存在していることへの言い伝えであったのだ。

 だから、それは、そのまま、

「数多くの宗教の存在」

 というものを、

「いかにも」

 という形で言い表しているというものである。

 それを考えると、

「いかにもと言われることを信じ、それぞれの宗教を熱心に信仰する」

 というのも、当たり前のことなのである。

 この時代の歴史を考えると、

「やはり、神というのがいるいないは別にして、神というのは、人間に言われているほど影響を与えていないのかも知れない」

 といえる気がするのだ、

 裏を返せば、それだけ、人間は、神というのを、自分たちの都合よく使っているだけではないかといえるのではないだろうか?

 これが、

「神話」

 というものであり、

 人間というものは、そういう意味で、

「洗脳されやすいものだ」

 といえるだろう。

 ただ、過去の人間が、果たして自分たちだけで、そこまで考えたのかどうかというと難しい。

 そこには、宇宙人であったり、話に出てくるような、神のような存在が本当にあり、彼らにもその話が都合よく書かれるように、

「人間を洗脳した」

 といえるのではないだろうか?

 そんなことを考えていると、

「今の人間も、知らず知らずのうちに、何かに洗脳されていて、この正しいと思われるこの世界が本物だと思い込んでいるだけかも知れない」

 正しいというものが、本当に目に見えているものだけでしかないということを、誰も当たり前のように分かっていないことで、人間を洗脳しようとしている、人間、いや、神様や宇宙人からすれば、難しいことではないだろう。

「洗脳」

 というのは、

「人間が人間に施す」

 ということは簡単にできることであり、そこで生まれた副産物が、神なあのではないかと思うと、

「人間ほど恐ろしい動物はいない」

 といえるだろう。

「人間が一番の高等動物だ」

 というのは本当なのだろうか?


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