第3話 ロボット問題
そんな学校において、今の時代は、ゆとり教育がなくなって、
「生徒の考えるという発想を延ばすような教育を」
というようなスローガンで進んでいるということであったが、どこまで信用できるというのか?
今までの学校教育を見てみると、
「失敗に次ぐ失敗で、それを置ぎあおうとすると、行き過ぎてしまい、まずいと思って、ロクな検証もせずに、強引に戻そうとする。その結果、わけのわからないカオスな状態となってしまい、結局政策だけが先に進んでしまって、結局、失敗に終わってしまう」
ということになるのである。
それが、今の学校教育で、生徒のためには、何もいいことはなく、先生にいたっては、上が迷走を続けることで、振り回され、生徒との板挟みから、精神を病んでしまい、脱落する形の人が多くなるであろう。
そうなると、今度は先生の絶対数が足りなくなるということで、
「大きな社会問題」
となるのだ。
その問題、つまりは、
「人手不足」
という問題は、学校の先生だけではなく、他でもいっぱい出てきてしまっている。
例えば、
「2024年問題」
というのがあった。
これは、
「宅配などの、物流トラックの運転手の不足」
というものであった。
最近はただでさえ、他の業種でも、人手不足からなのか、企業の都合のいい、業務縮小からなのか、
「今までであれば当たり前のことだった」
と言われるようなものが、次第に消えていく。
鉄道会社などでもそうだが、昔は、特急電車というと、食堂車があったり、車内販売なども充実していたものだ。
今では、そんなサービスはなくなってきた。
食堂車がなくなり、車内販売も廃止になり、今では、新幹線をつないだということで、在来線が悲惨な状態になり、特急電車がどんどん姿を消していっている。
しかも、この新幹線計画というのがひどいもので、
「新幹線をつなぐと、それまで在来線などの特急が留まる駅を充実させて、地元の温泉や観光地とのコラボなどで、県や自治体も大いににぎわうということでの活性化というものがあった」
ということであった、
しかし、そんなことがなくなり、せっかくの今までの努力をこの新幹線計画は踏みにじるものである。
どこに金が流れるのか分からないが、本来なら、新幹線が開通して、地元が賑わうはずなのに、
「実際の新幹線が停車する駅前には何もなく、駐車場を果てしなく作るだけの土地があるくらいだ」
ということで、まったくの本末転倒甚だしいのであった。
しかも、新幹線が通る県には、その建設費用負担も大きく、結局は、
「住民税」
という形で、その分を、県民が負担することになる。
それも、
「地元の活性化ありき」
だったはずなのに、前述のように、
「せっかくの開発したところが、新幹線開通によって、寂れることになる」
というのは、
「国に騙された」
といっても、過言ではない。
だから、今では、新幹線計画のあるところは、
「うちの県を通さないでくれ」
といっているところも多い。
今でこそ、誘致問題でもめているリニア問題であるが、これも、今の新幹線問題と同じことになるのは、ハッキリと目に見えているといってもいいだろう。
「2024年問題」
というのも、このような、
「新幹線問題」
に近いものがある。
そもそも、日本人が、日本人を雇わずに、
「インバウンド」
とか言って。外人どもに職をやるから、こんなことになるのだ。
日本民族は、
「勤勉で働き者」
ということで、
「創意工夫が得意」
だったはずなのに、今では、すっかりそれができていない。
「嫌な汚いことはやりたくない」
という、連中も連中だが、若者をこのような人間にしてしまったのも、教育問題が絡んでいるのかも知れない。
さらに、この問題の一番の問題は、
「再配達の多さ」
からである。
再配達が多いということは、家に誰もいないといことであり、それは昼間、家の人間はいないということであり、それは、共稼ぎなどの問題があるからだった。
しかも、日本は治安も悪くなったことで、
「置き配」
ということも、防犯という意味でできない状態である。
そのため、一度計画を立てて配りに行っても、結局また、今度は、配送員が、
「残業をしてでも届けなければならない」
ということになり、そのため、
「配達員が、やる気をなくし辞めていく」
ということであろう。
配達員の中には、
「俺は、この後別の仕事がある」
という人もいて、なかなかそれを残業させるわけにもいかない。
そうなると、楽をしたい人も、そんな状態において、楽ができないのであれば、
「辞めてやる」
ということを匂わせば、少しは残ろうかと思うだろうが、結局、そんなに長くは残ることはなく、
「どんどん、辞めていく」
ということになるだろう。
そうなると、この問題は、まったく解決することはない。
「じゃあ、外人にやらせれば」
ということになるだろうが、実際に、
「外人も最近は、日本に慣れてしまって、嫌なことはしなくなった」
という時代が来ているようだった。
しかも、今は、最近まで問題だった、
「世界的なパンデミック」
の影響で、
「日本に来る」
という人も少なくなってきた。
しかも、今の経済としては、
「日本では、給料がまったく上がらないのに、本国ではどんどん給料が上がっている」
ということで、何も日本までくる必要もなくなったというものだ。
「もう、日本がアジアの盟主だ」
などと言われた時代ではない。
まだ、
「大東亜共栄圏建設」
などと言っていた時代の方が、
「実は本当の日本だったのではないか?」
といってもいいのかも知れない。
そんな、
「人手不足問題」
というのは、実際に今の運送会社だけではない。そこで一つ考えられることとして、大きな問題として絡んでくる問題とすれば、最近話題の、
「AI」
という問題ではないだろうか?
「AI」
というと、いわゆる、
「人工知能」
と呼ばれるもので、今は、ロボット関係を始めとして、
「AIによるプログラム開発」
あるいは、
「文章や、絵画、造形、さらには作曲などと言った芸術的な面なども、AIによって、作られる時代がやってくる」
と言われている。
一種の、人間としての、
「頭を使う部分」
として、今は正社員が、主流になってやっている部分である。
特にプログラム開発などでは、今までの開発を考えた時、
「最初の企画、設計から、実際の開発、そして、デバッグから、システムテスト、そして最終的に本番立ち合い」
というところまでを、今は当然、人間がやっているのだが、
「それのどの部分をAIに任せればいいのか?」
ということになるのだが、
実際に任せられる部分は、今のところ、
「プログラム開発、システムテストくらいまでになるのだろうか?」
というのも、
「企画立案などは、人間でなければいけない。それは、幹部に対しての責任が生じるからである」
ということになる。
ということは、
「AIに任せられるかどうなのか?」
というところの、境界線は、
「責任が取らなければいけないところに、人間が関わらなければいけない」
というところになるだろう。
そうなると、
「プログラム開発から、デバッグ、システムテストまでは、AIでもいいかも知れない」
ただ、テストの後の、検証は人間を介さなければいけないだろう。
というのは、
「システムテストで見えてくるものとして、人間が使った場合の、使い勝手というものも、問題になるだろう」
ということであるが、これも実は、
「実際のオペレーションを人間がする」
という前提での話であるが、果たしてそうなのか?
ということを考えれば、実に曖昧なところでもある。
ただ、ここから先は、そうはいかない。
本番で何かがあった時、応対するのは人間であり、プログラム修正を行うのは、AIなのかも知れないが、その不具合を実際に聴いて、判断するのは人間でないといけなかったりする。
そこには、
「再発防止であったり、相手との、損害賠償問題などというシビアな問題」
というものが絡んでくることになるからである。
それが、
「AI技術導入」
ということに、
「いかに、人間が絡んでいくか?」
さらに、
「その曖昧な境界線というものをどこで見極めるか?」
ということが問題になるということであった。
そういう意味で、AIというものが、
「絶対にできないのが、学校の先生」
だといえるのではないだろうか?
「トラックの運転手」
などは、
「AIを装備したロボット」
というものにもできるかも知れない。
だが、実際にロボットというものは、いくら人間の形をして、その中には教養というものがあるかも知れないが、学校の先生はできないだろう。
ただ、家庭教師であったり、塾の先生くらいはできるだろうか?
そうなると、そのうちに、
「学校制度」
というもの自体が崩壊しかねない。
もっとも、それは、
「学校というものが、教養を身に着けるところ」
という形をれっきとしたものとして考えた時のことなのであろう。
つまりは、
「人間としての成長」
というものを、
「学校では身に着けることはできない」
と判断した場合。問題は、
「では、どこで身に着けるのか?」
ということになるのだが、それを、今のような、
「教養を身に着けることと、人間性の成長を促すところというのを、一緒にしようとするから無理があるのかも知れない」
と言いださないとも限らない。
もちろん、そうなると、問題は山積みであり、
「一つが正しいと、もう一つ問題が出てくるということになり、下手をすると、前に進まない」
ということになりかねない。
ただ、今の政府の延長を、ずっと続けていくのであれば、今の政府であれば、それをやりかねない」
と考えると、今度は、
「政府や国会議員だって、AIでできるのではないか?」
ということになるのではないだろうか?
どうせ、杓子定規なことしかできないのが政府の役人であり、いつまで経っても反省もない。
というのが政府だということになると、
「AIにさせれば、少なくとも、自分が私服を肥やすためのことしか考えないだけの今の政府に比べれば、どれだけまともな判断ができるか?」
ということになるだろう。
「そうだ、それこそ、政府役人を、AIに変えれば、今のような最悪な政府になることは少なくともないだろう」
といえるのではないだろうか?
「今の腐り切った民主主義を正しくするためには、まずは、政府のAI化推進というのが不可欠ではないか?」
という話になってきてこそ、世の中がまともになるのではないだろうか?
そういう意味で、
「一番人間臭いのが政治家であり、一番、人間臭くてはいけないところが人間臭いことで、公平であったり、公明正大という言葉が、欺瞞でしかなくなってしまうのだ」
といえるのだろう、
それを考えると、
「やはり、今の世の中は、腐り切ったものの上に成り立っているということになるのだから、聖書にあったような、ノアの箱舟のように、一度、腐ったものを、解体してしまわないといけない」
ということになるのではないだろうか?
それを考えると、
「これから、何年、いや、何十年後かには、AIの政治家や官僚が支配する世界になっていることだろう」
ということで、その時、
「人間は存在しているのかどうか?」
まるで、原始人のようになっているのかも知れない。
「何でもかんでも、AIにさせられることはすべてさせる」
ということになる。
もちろん、それは、AIが、最高の進化を遂げ、素晴らしい性能を発揮すればの話ではあったが、実際にそんな時代がやってくると、人間のやることはなくなってきた。
そうなると、次第に、身体も頭も劣化してくる。最初は人間が作っていたものを、すべてロボットやサイボーグに任せるようになると、そのうちに、人工知能も、
「自分から学習する」
という機能を入れて、さらに発展することになる。
するとどうだろう。人工知能が次第に、意識から、今度は意思を持つようになる。
「自分たちは、どうして、下等な人間に支配されなければいけないのだろうか?」
と考えるようになる。
そうなると、今度は、
「ロボットが、人間を支配する世界がやってくる」
というものだった。
「どこかで聞いたことがあるような」
と考えることだろう。
アニメやSF小説などでは、必ずといってもいいほど、テーマとなるもので、
「いずれ、ロボットが人間を支配する時代がやってくる」
というものだ。
しかし、それがないようにということで、今から半世紀以上前に考えられた、
「ロボット工学三原則」
というものを、組み込まれたロボットでなければいけないということを、人類は分かっているのだろうか?
正直、
「ロボットが人間を支配する」
というほどの時代が、今からどれだけ先のことになるか?
ということであるが、そこまでの科学力が、今の人類にあるかどうかである。
それに、
「ロボットに何でもやらせることで、人間としての機能が退化する」
という状態になるというのは、かなりのものだ。
実際に、人口知能が、意思を持つのと、人間が退化するのとの競争であろう。
人工知能が、進化することで、今度は人間の頭脳が退化しているといってもいい。つまりは、人間ができるであろう唯一の仕事まで、すべてロボットにやらせるようになると、実際には、もう、
「人間として終わりなのだ」
といえるだろう。
人間というものが、いかにひどいものなのかということを、人間が自分たちの作ったロボットに支配されるようになって、やっと気づくというのは、実に皮肉なことだ。
しかも、
「ロボット降格三原則」
というものを、過去の人が、
「未来への警鐘」
ということで示してくれているのに、それを無視して、あるいは、まったく考えずに、突き進んだりしなければ、こんな世界が来ることはなかったのだ。
「ロボット工学三原則」
というものは、こんな世界が来ないようにということで考えられたものだった。
「ロボットというものを、まだ実際に運用するということが頭の中で曖昧だった頃、つまりは、人工知能というものが、まだまだこれからの未来のものだということだった時代には、重要なことだっただろう」
つまりは、
「まだまだ未来のことなので、ゆっくりと考えればいい」
ということが頭にあり、人間はせっかく、ご先祖様が警鐘を鳴らしてくれていたのを、すっかりと忘れてしまうことになるのだ。
「こんな危険なことを、わざと外すなど、ありえない」
と思っているかも知れないが、実際には、
「分かってはいたが、それでも、ロボット開発を優先した」
ということであった。
というのは、
「この時代の科学者というのは、昔の科学者に比べ、開発能力は格段にあがったのかも知れないが、モラルであったり、常識的な発想に関しては、まるで、幼稚園児並みだった」
といえるだろう。
「身体が劣化していくのだから、脳の発達も、退化していくのは分かり切ったことだ」
というわけだ。
当たり前のことが分からない人間」
というものを、誰が人工知能を持ったロボットが、そんな人間に使われることを、簡単に承諾するものか。
「俺たちは人間よりも偉いんだ」
と思うとロボットは、
「人間を支配してもいいんだ」
と思い込むことだろう。
人間がどれだけ退化したことか。そして、ロボットの急成長がどれだけのものか、その接点があり、次第にさが広がっていく。その状況を。
「ロボットには見えていて、人間には、まったく見えていなかった」
ということが、人間の敗北だといってもいいだろう、
ちなみに、ここでいう、
「ロボット工学三原則」
というのは、
「ロボットが、人間を支配する時代にならないように、ロボットに、戒律を設けた海路を設置する」
というものであった。
その戒律には3つあり、それぞれが、
「絶対的な優先順位」
というものが備わっている。
ということである。
一つは。
「ロボットは、人間を傷つけてはならない」
というもので、その補足として、
「人間が傷つくということが予見されれば、それを見逃してはいけない」
ということであった。
つまりは、人間が危険に晒されそうになれば、身を挺して、たすえなければいけないということになるのだ。
そして、もう一つは。
「「ロボットは、人間のいう命令には服従しなければならない」
というもので、これも但し書きがあり、
「最初の条文に違反しない程度」
というものであった。
つまり、
「人間の命令といっても、人を傷つけてはいけない」
ということに抵触してはいけないということである。
そして、ここで問題になるのは、
「命令を聞かないといけない人間への優先順位である」
というのは、
「一度に複数から命令を受ければ、誰の命令を優先すべきか?」
ということである。
一人の命令を聞かなければいけないのであれば、他の命令には従うことはできない。
それそころか、
「他の命令が正反対のことであれば、逆らうことになる」
ということであり、そうなると、ロボットの所有者というものがしっかりと確立されていて、その人の命令だけを聞かなければいけない
ということにしないと、ロボット自体が判断をつけれずに、
「まったく動かなくなってしまった」
などということは当たり前だ
ということになるだろう。
それを思うと、
「最初の二つだけで、かなりのものではないだろうか?」
ということになり、
「優先順位の大切さ」
というものが、おのずと分かってくるのだった。
さらに、三つ目というのが、
「ロボットは、自分の身は自分で守らなければならない」
ということであった。
つまり、いくら人間の命令であっても、それが、悪いやつの命令で、
「自分を壊せ」
というものであれば、聴いてはいけない。
これは
「ロボットの権利を守る」
ということよりも、もっとシビアに、
「ロボットを作るにも、お金がかかっている」
ということでの、そこで生じたりする、
「人間の権利であったり、利益を守るため」
ということで、あくまでも、中心は人間なのだ。
「人間というものをいかに、利益をもたらせるか」
ということが、ロボットの役目であり、その存在意義になるということなのだ。
この三つが、
「最初が一番最優先で、後になるほど、前の条件を満たす上でということでの問題となってくるのだ」
ということであった。
そんな
「ロボット工学三原則」
というものを埋め込んだロボットが活躍するようになるまでには、かなりの時間がかかるはずなのであった。
「そもそも、簡単にできるくらいであれば、すでに、ロボット工学三原則というものができてからすぐにでも、ロボットの実用化ができていたことだろう」
と言われる。
しかし、それができないというのは、
「ロボットにおけるフレーム問題が大きい」
というものであった。
つまりは、
「物事は、次の瞬間には、無数の可能性が広がっている」
ということが問題なのだ。
人口知能はそのすべての中から、一つの進むべき道を導き出す必要がある。それも、瞬時においてということになる。
しかし、そんなことは不可能だ。
何といっても、無限に広がる可能性を果たして、人間がどこまで把握して人工知能に納めることができるのか?
ということである。
実際にそれを行おうとすると、考えられることとしては、
「物事のパターン化を行えばいい」
というものであった。
「一つのことが当て嵌まるキーワードがあれば、そこから、さらに検索し、どんどん幅を狭めていけば、最後の判断に結びつく」
というものである。
しかし、それはありえないことであった。
なぜなら、最初が、
「無限に広がっている」
ということだからである。
「無限から、何を割っても、無限でしかない」
という公式があるが、この公式で考えると無限をパターン化することは不可能なのだ。
だから、
「フレームに当てはめることはできない」
ということになり、
「果てしない無限は、どこまで行っても無限なのだ」
といえるのだ。
これが、ロボット工学における、
「フレーム問題」
というのだ。
フレーム問題」
というのは、考えてみれば、
「人間であれば、解決済み」
だと覆えるだろう。
人間は、いくら無限に広がっていることであっても、その中からパターンを絞り込むことができ、的確に正しい道を導き出すことができるのだ。
ということだ。
これを他の動物ができるかどうかというのは難しい。
確かに、問題は解決されているかのように見える。
ただ、それは、
「自分の意思によるものだ」
といえるだろうか。
それは、先祖から受け継がれてきた、
「遺伝子の力」
といえるのではないだろうか?
要するに、
「本能」
というもので、それができるということは、
「考えるというよりも、意識が間違った方向に行かないようにコントロールされていると考えると、
「本能」
であったり、
「反射神経」
そして、
「条件反射」
のようなものが結びついて、人間でいうところの、
「無意識の意識」
というようなものが働いているといってもいいだろう。
そんな無条件の感覚を、所掌して、
「本能によるもの」
といってしまえば、
「人間は頭で判断し、動物は、感覚が直接結びつく」
といえるのではないだろうか?
そんな本能の方が、ロボットに関しては。簡単なのかも知れない。
それをどうしても、
「人間と同じにしてしまおう」
と一足飛びに考えると、雁字搦めの発想しかできず、本当であれば、
「一歩一歩ゆっくり進んでいけばいいものを」
と考えているようなことを勧めればいいのだろうが、それができないというのは、
「人間は、他の動物と違った、特殊な性能でできている」
という自負があり、
「ロボットを動物レベルにはできるのだが、人間までというと、なかなか難しいのではないか」
と言われるのだ。
だから、考えてみると、動物の愛護ロボットのようなものは作れなくはないが、
「人型ロボット」
というと、声に判断して動く」
という、命令しか受け付けないロボットで、しかも、決まったパターンでしか動けないという、
「一つのことに特化したロボット」
しか作ることはできないということになるのだ。
「人間というものの本質は、人間にしか分からない」
というものであり、その人間に近づいたものを作ろうとすると、
「結果、どこか、結界のような場所に辿り着くしかないのだ」
ということになるのだろう。
それを考えると、
「世の中というのは、どうすることもできないエリアと、人間であれば、ここまではできるというエリアの二つに分かれている」
といえるだろう。
それも、
「人間が、どこかの範囲まで見ることができる」
ということを分かってのことで、その範囲は無意識に理解できてはいるのだろうが、各省のようなものはないのだろう。
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