第2話 教育問題

 みずきは、そのカンパには、お金を出す気にはなれなかった、中には、そんな女の子もたくさんいたようだ。実際に、妊娠した女の子というのが、普段はおとなしい子であったが、自己主張の強い子で、クラスの中ではあまり好かれる子ではなかったのだ。

 だから、普通であれば、まわりから助けてもらえるような女の子ではなかったはずなのだが、助けてもらえるというのは、

「相手に何か含みのようなものがなければいけないだろう」

 ということであった。

 そう、カンパしてもらったお金の中から、いくらか、抜こうとしていたのだ。

「いわゆる、

「中抜き」

 というもので、彼女たちからすれば、

「手数料だ」

 ということで、いくらでも言い訳はできるだろう。

 そもそもが、口外できない募金であり、特に学校側にバレれば、問題となり、最悪退学案件であろう。

「お金がなければ、堕胎もできないし、かといって、自分から、バレずにお金を作ることはできないし」

 ということであった。

 今の彼女がお金を集めようとするなら、普通にアルバイトをしても、とても集まるものではない。

 学校を休んで、その時間、ずっとアルバイトしても、足りるかどうか。

 親に言うなどできるわけはない。まず、間違いなく、彼女が考える、

「最悪の結果」

 しかもたらさないだろう。

 彼女は、頭が悪い方ではない。頭の回転もいい方だ。

 親は、

「私たちがロクな学校を出ていないので、娘には、いい学校を出て、幸せになってもらいたい」

 という思いを抱いていた。

 それはそれで悪いことではないし、気持ちも分かるというものだ。しかし、それだけに押しつけのような教育になり、子供が大いに反発するだけの親だったのだったのだ。

 そういう意味ではみずきの親とは正反対だった。

 みずきは、そんな親を、

「羨ましいとは思わないが、自分の親だったら、恨んだりはしないだろうな」

 と思っていた。

 やはり、

「なんといっても、他人事」

 なのである。

 だから、彼女に対して、

「可愛そうだ」

 とは思わない。

「自業自得なんだ」

 ということは間違いではなく、彼女の行動の半分は、

「親に対しての反発なのだろう」

 というところだけは、自分と同じなので、分からなくもないが、浅はかすぎるというものではないだろうか?

 しかも、子供は最初から作ろうとしたわけでもない。

 もちろん、結婚のために、既成事実として作ろうというのも、吐き気がするほど胸糞悪い気分にさせられるが、

「できちゃった婚」

 というのも、もっと腹が立つのであった。

「避妊くらいすればいいじゃない」

 というのが、すべてであり、それ以上でもそれ以下でもなかった。

「だって、気持ちいいもん」

 とかいう、

「お花畑」

 の中にいて、自分がそのお花畑にいるという自覚すらないという、能天気を通り越したやつに、誰がカンパなどするというのか。

 それこそ、

「そのあたりの野良犬にでもやった方がいいくらいだ」

 と、徹底的に、避妊もせずに赤ん坊ができてしまい。しかも、その子を安易に堕胎しようということに対して、

「お金を出すなど、ありえない」

 と思った。

「皆、どういうつもりで、お金を出すんだろう?」

 と考えたが、これに関しては、みずきにもすぐに分かった。

 それは、

「明日は我が身だ」

 ということを考えているからだろう。

「いつ、自分も、誰かの子供を宿して、堕胎しなければならない」

 と思っているからなのかも知れない。

 それだけ、自分たちも避妊もせずにえっちをしているのか、それとも、将来彼氏ができて、同じことにならないとも限らないということを考えていることだろう。

 いや、

「今回の件に限らず、ここで運を売っておけば、自分が今後何か窮地に陥った時、誰かが助けてくれる」

 ということにならないだろうか?

 ということを考えているからであろう。

 そういう意味で、

「カンパを集めることをまるでアルバイト感覚でやっている」

 という人が出てくるというのも分からなくもない。

 みずきは、正直、

「確かに、堕胎しようとする人間も嫌いだが、人の弱みに付け込んで、カンパ役を引き受けようという輩は、もっと嫌いだった」

 というのも、

「あの人たちは、楽して金を稼ごうと考えているだけだからだ」

 と思うので、みずきは、

「避妊に対してお金を出すのも嫌だけど、あんなカンパ役の連中に、みすみす金を抜かれると分かっていて、お金を出すなど。本当に、野良犬にくれてやった方が、まだマシだ」

 と思うのも、無理もないことだったのだ。

 まわりの人がどれほどのことを考えていたのか分からないが、実際に、カンパしようという人は、想像以上に少なかったようだ。

 カンパ役の人たちは、昔の話も誰かに聞いていたようで、

「昔は、クラスメイトに頼めば、堕胎費用くらいは、いくらでも、カンパできたのに」

 と思っていた。

 だから、クラスで堕胎する人は一人ではなく、次から次に現れても、

「またなの?」

 とは言っても、2人目も、3人目も、同じようにカンパに応じてくれていたようだ。

「本当に今の時代は、世知辛い世の中になったようだ」

 とカンパ役は嘆いているが、自分たちも、その世代なのである。

 もし、立場が分かっていれば、

「自分もカンパなどしなかっただろうな」

 と感じることだろう。

「今と昔とでは、どっちが、堕胎する人が多かったんだろう?」

 と、カンパ役は考えていたが、時代の違いということもあり、

「あまり、それは関係ないのではないか?」

 と思っていた。

 カンパ役として集めた金を抜いているのだから、もちろん、

「数が多いに越したことはない」

 といえる。

 しかし、彼女たちも、何も、

「お金に困って」

 というわけではない。

 別に、そのお金がないならないでいいのだ。ないからといって、困るわけではない。

「じゃあ、なぜ、そんなことを?」

 ということであるが、実際には単純なことで、

「楽して金が手に入る」

 ということだったからだ。

 うまくいけば、堕胎しようとしている人からは、喜ばれ、カンパする人たちから、恨まれることはない、あくまでも、

「自分たちは堕胎しようとしている人たちの代理であり、カンパする人が何かを感じたとしても、その思いや恨みが向けられるのは、あくまでも本人であって、自分たちではないだろう」

 そういう意味で、

「楽して、金を設けられる」

 ということになるのだった。

 みずきとしては、そのあたりのことも分かっているので、

「カンパをしません」

 といっても、カンパ役で自分に交渉に来た人には、嫌な顔をされるかも知れないが、すべては、そこまでであろう。

 カンパに応じてくれた人、応じてくれなかった人という情報は、カンパ役の連中には、把握できているだろう。

 ノートにつけるくらいのことはしているに違いない。

 しかし、それを、依頼主に見せるなどは決してしない。別にそのことを、堕胎を考えている人からは、まったく気にはしていないからだ。

「まずは、無事に堕胎ができる」

 ということが大切であり、

「その目的が果たせるまでは、他のことはまったく考えられない」

 ということになるに違いない。

 カンパ役の連中が、このノートにつけているのも、

「何か悪だくみをしよう」

 などと考えているわけではない。

 そもそも、カンパしたしないだけで、何ができるというのか、何かの脅しにも何もなりはしないだろう。

 彼女たちがそれをつけているのは、彼女たちの中にも、

「今度だけのことではなく、堕胎など、それ以外のことでも、金が必要な人がどんどん現れるから、その時にまたカンパ役として君臨するためには、前にしてくれた人だけにお願いすればいい」

 というもので、

「堕胎でなければ、カンパしてもいい」

 という人もいるかも知れないので、その人たちは後回しにして、カンパしてもらえれば、儲けものとして、余分に入れば自分たちのものにして、もし足りなくても、

@努力はしたんだけど」

 といえば、お願いする方も、強くはいえないという立場から、

「いいのよ、ごめんね、骨を折ってくれて」

 と、彼女たちが、途中の中抜きを考えていたのが分かっているのか分かっていないのか分からないが、礼を言われることはあっても、文句を言われる筋合いはないというものであった。

 そんなカンパを行っているのだが、みずきは、クラスの中でも、シビアな方だった。

 いつも冷静で、誰かに肩入れするというようなことは絶対にないだろうということをまわりの人は感じているだろうと思われていた。

 実際にもそうで、それは、クラスメイトだけではなく、先生にも思われていた。

 だから、先生のほとんどは、

「あの子だけは、実にやりにくい」

 と思っている人は多いだろう。

「何を考えているのか分からない。いつも無表情で、喜怒哀楽がハッキリしているわけではない」

 ということであった。

 それを思うと、

「少々のことをしても、叱ったりするのが怖いくらいだ」

 とそれぞれに思っていたことだろう。

 もちろん、そんなことは、口が裂けても言えることではないが。

 だから、先生によっては、みずきのような生徒を別に嫌わない人もいた。

 そんな先生は、二人ほどいて、一人の先生は、

「おじいさん先生で、授業中は、ほとんどがカオスであった」

 といえるだろう。

 まるで、

「自習時間」

 とでもいうようなカオスな時間。

 先生は、一人で授業をしているのだが、生徒はまったく授業を聞いていないどころか、好き勝手に遊んでいる。

 一見、異様な光景であるが、学校では、別におかしな後継というわけではなく、

「昔から、普通にある光景」

 といってもよかったのだ。

「そんな先生、普通に毎年いたわ」

 と、どの世代の人に聞いても、そういうだろう、

 ということは、そんな先生は、どの学校も類に漏れず、少なからず、一人はいたということだろう。

 しかも、二人はいなかったような気がする。それがなぜなのか分からないが、まるで、

「学校の七不思議」

 というか、

「学校あるある」

 というべき、

「都市伝説」

 のようなおのだったのかも知れない。

 そんなことを考えると、滑稽にも思えるが、

「そんな生成が一人はいることで、見えない力が働いているのか、教育側の何かの均衡のように思えてならない」

 といってもいいのではないだろうか?

 そんなことを考えていると、

「なるほど、そんな先生であれば、みずきのような生徒であっても、普通に接してくれるだろう」

 といえるかも知れない。

 別にその先生は、

「自分の保身」

 というものを考えているわけではない。

 先生たちが考えている保身というのは、

「少なくとも、今の自分の立場が崩壊しなければそれでいい」

 というものであった

 ほとんどの先生は、まだ、

「先生になった時のプライド」

 であったり、信念のようなものが残っているのかも知れない。

 しかし、おじいさん先生くらいになると、もう、そんなプライドや信念というものは消えていて、

「もう、プライドなんかなくていいんだ」

 という悟りのようなものを一度は潜り抜けてきたのかも知れない。

 きっと、その先生はいうだろう。

「プライドというのは、いくつも薄い皮が重なって、まるでティラミスのようになっているのかも知れない」

 と思っていて、

「その中に、いくつかの厚い皮があって、そこを越えなければいけない」

 と、本人は、まるで断層を想像しているのかも知れない。

 だからこそ、

「時間がかかる」

 というもので、まだ、30歳くらいまでの先生であれば、

「その境地に至ることは難しいだろう」

 と思っている。

 確かに、

「自分も、30代くらいまでは、まったく境地などというのがあるということも知らなかったし、ただ、底辺で蠢いているという感覚しかなかった」

 と思っているのであった。

 生徒と正対しなければいけないのは、先生の宿命であり、どう接していいのか分からない時は、宿命がついてくるくせに、接し方が分かってくると、今度は、直接接しなくてもよくなってきた。

「世の中、こんなものかも知れないな」

 と、苦笑いをするが、

「学校のカリキュラムを考える人たちが、そんなことも分からないのだから、そりゃあ、学校問題というのは、永遠に平行線だわ」

 と思うのだった。

 ここでいう平行線というのは一本ではない。

「先生と生徒」

「先生と、保護者」

「現場の先生と、教育委員会の官僚組」

 という、いくつもの平行線が渦巻いている。

 これらが平行線である以上、どうすることもできないというのが、学校問題というものだろう。

 そんな先生というものが、現場で生徒と面と向かっている。そして、生徒や保護者と一番接しなければいけない世代の先生は、いつも五里霧中で、目の前の難問をいくつも抱えている。

 そう、

「問題というのは、受け持ちの生徒の数だけあるのだ」

 といってもいい。

 何と言っても相手のあることである。

 一般の企業であれば、特に、ルートセールス先であれば、

「いくつもの得意先を抱えていて、営業も大変だ」

 ということになるだろう。

 しかし、得意先であれば、それぞれに優先順位というものがついている。

 得意先が、100あったとしても、そのうち半分近くは、

「訪問をしなくても、勝手に注文が入ってくる」

 というようなもので、ほとんど、フォローを考えなくてもいい。

 残り、50といっても、その中で、半分チョットは、月に数回くらいいけばいいようなところで、チェーン店だったりして、本部のバイヤーとの接商で、事足りるということになる。

 つまり、

「優先順位をつけられる」

 ということである。

 むしろ、この

「優先順位をいかにつけるか?」

 ということが売上アップ、つまり、営業成績にいかに盈虚するかということである。

 しかし、それは、

「一般企業へのセールス」

 というものにいえることであり、

 何といっても、

「学校の先生」

 ともなると、

「相手は、一般の生徒」

 であり、

「優先順位をつけるなどあってはならない」

 ということになる。

 ただ、これも、先生が悟りを開くまでに思うことであり、一度悟りを開いてしまうと、

「先生にだって、優先順位をつけることがある」

 というものだ。

 それは、優先順位を決めて、交通整理をするということで、

「決して、生徒に対しての優先順位ではない」

 ということである。

 そのことさえ分かれば、少しは気が楽になるというもの。

 ただ、これも、個人差があり、

「このことに気付く年齢」

 というのもあるというものだ。

 それに若い頃に、精神的に耐えられなくなり、病んでしまって、先生を辞めないといけないような精神疾患に陥り、

「再起はできない」

 というレッテルを貼られ、今は仕事にもつけず、障害者として認定を受け、

「障害年金」

 というものを貰って生活しなければいけなくなってしまったという人も結構いるということは分かっている。

「実に世知辛い世の中になったものだ」

 といえるだろう。

 実際、今の時代では、

「教師が一番、ブラック企業」

 と言われていた。

 数十年前は、

「不良問題さえなければ、公務員だから、生活も安定」

 などと言われていた時代もあったが、それもとんでもないことの時代となってきた。

 そもそもを考えると、

「教師の仕事自体が、自転車操業のようなものだった」

 といってもいいかも知れない。

 何もない時は、落ち着いているが、何かあった時は、ハンパではない、何と言っても、相手のあることだからである。

 だから、

「自転車操業」

 というのだ。

 しかし、それよりも何よりも、そもそもの問題は、

「政府の中途半端な政策が招いたツケというもの」

 のである。

 それが何かというと、今から、約40年くらい前、つまり、昭和の終わり頃にはじまったもので、いわゆる、

「ゆとり教育」

 に端を発する。

 元をただせば、この制度が始まったのは、それ以前からあった、

「不良問題」

 であった。

 その頃は、

「受験戦争」

 が過激になってきた時代で、学校というものが、生徒を成績で縛り付け、世間が、型に嵌めた、いわゆる、

「学歴社会」

 と作ってきたのだ。

 これも、元々は、敗戦後の日本を復興させるために、

「一定の学力を持った人間を育てる」

 ということで、

「詰め込み教育」

 というものが始まったもので、それが、

「落ちこぼれ」

 というものを作り、昭和の時代に言われていた、

「腐ったミカンの理論」

 というものが当たり前のように言われてくると、不良が暴れるなどが起こってくる。

 その解決法として、

「社会人が週休二日であれば、学校でも導入すればいい」

 などという、安直なことを政府が考えるから、今度は、

「年内にカリキュラムが終わらない」

 あるいは、

「しわ寄せが学校に及ぶ」

 などという問題から、今度は、また、ゆとりをいきなり辞めるということになり、まるで、

「好景気の後に大恐慌があり、また好景気があり」

 という戦後からの高度背長期に近い状況を思い出す。

 もっとも、今の時代は、

「不況、さらに不況、どこまで行っても不況」

 という状態で、さらには、

「物価だけが上がり、給料が上がらない」

 ということから、

「スタグフレーション状態」

 ということに経済は落ち込んだのだ。

「教育問題も、浮き沈みの最後には、ずっと、沈んだままになるのではないだろうか?」

 ということになると考えられる。

 それもすべてが、

「政府の責任だ」

 といっても過言ではないだろう。

 何しろ学校というところは、上から決まったカリキュラムを行うということで、カリキュラムを決める方も、それを実行する学校も大変なのは、分からなくもないが、それに振り回されるのは、学生である。

 何と言っても、教育というのは、

「国民の三大義務:

 であり、

「権利」

 でもある。

 つまりは、

「勤労」

「納税」

「教育」

 である。

 この場合の教育は、

「教育を受けさせる義務」

 ということで、これが、いわゆる、

「国民の三大義務」

 である。

 しかし、さらに、日本国憲法第二十七条一項は、

「すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負う」

 と記されている、

 では、次に、三代権利というものもあるのだが、それぞれ、

「生存権」

「参政権」

「教育」

 であり、権利としての教育というものは、

「教育を受ける権利」

 のことをいうのだ。

 だから、

「義務教育」

 という言葉があるのだが、これは、あくまでも、教育を受けるのが、権利であり、ウケさせるのが、義務だということになるのだ。

 つまり、義務を受けるということは、義務ではなく権利なのだ。

 国民は。権利のことを、

「義務」

 であるかのように思っている人がいるのではないか。

 確かに、生存権は、権利である。

 しかし、今の世の中、それがまともに機能していない。憲法25条では、生存権のことを、

「すべての国民は、健康で文化的な最低限どの生活を営む権利を有する」

 と言われているが、実際には、めちゃくちゃである。基本的には、生活保護などのことを言っているが、ちょっとでも、収入があれば、そこから引かれたり、クーラーなどの、今の時代、熱中症に不可欠であったり、テレになどの情報源を贅沢品として、その保証金を減額したりするではないか。

 確かに、国民の税金が使われてはいるが、それくらいのことは、

「政治家が、税金を使って、自分のために、公然と家族旅行に使ったり、公務と称しての遊びに使ったりすることがまかり通っている時代なのだから、これくらいの生活保護を受けていても、国民の誰もが許すに決まっている。なぜなら、

「明日は我が身」

 なのである。

 特に、今のように、いつ、

「世界的なパンデミック」

 に襲われたりするではないか。

 かと思えば、バカなソーリが海外においての自分の人気取りのためだけに、戦争をしている国に、ポンと金を出すのだ。国民のほとんどが、パンデミックの影響で苦しんでいるのにである。

「まあ、あの男も終わりだろう」

 と言われている。

「マイナカードのトラブル続き

 さらには、

「異次元の少子高齢化問題」

 ということでの、中途半端なやり方は、完全に自分の首を絞めることになるだろうからである。

 もし、それがならなかった場合は、

「野党の責任」

 である。

 それだけ野党は、まったく仕事をしていないということになり、それこそ、

「税金泥棒」

 と言われ、その責任は重大である。

 実際に、野党が弱くなったのは仕方のないことだったが、そのせいで、余計に政治が混沌とし、分からない秘密の部分が増えたことで、

「政治に興味のない人が増えたのだろう」

 つまり、どこに入れていいか分からないと思ってしまうと、投票率は下がる、そうなると、与党が強いのは当たり前のことで、それこそ、

「組織票」

 がモノをいうというわけだ。

「政教分離」

 といっておきながら、

「与党の片方が、宗教団体でできているんだから、話にならない」

 ということになる。

 それを思うと、

「政府に教育問題を解決などできるはずがない」

 ということである。

 そんな教育現場に身を置かなければいけない学生も先生も可哀そうなもので、

「教育を受けさせる義務」

「教育を受ける権利」

 両方は、冷静に考えれば、矛盾しているのではないだろうか?

 そもそも、

「教育を受けるというのは、権利であり、権利というものは義務ではないのだから、果たさなくてもいいはずだ」

 と考えるだろう。

 しかし、肩や、

「教育を受けさせるというのは、義務であるから、こっちは、絶対にしなければ、違憲となってしまう」

 ということのなる。

「じゃあ、この場合、権利と義務とでは、どっちが強いというのだろう?」

 ということになると、判断が難しいということになるのではないだろうか?

 確かに、

「義務教育」

 というのだから、義務が強いのだろう。

 ただ、そうなると、

「権利」

 というのは、欺瞞でしかないということになるのか、それとも、

「権利というのは、義務というものの裏返しということで、権利があれば、基本は、それを行使しなければならない」

 ということになる。

 生存権というのは、もちろんのこと、

「すべての国民は、健康で文化的な最低限どの生活を営む権利を有する」

 ということが当たり前だといっても、それができない環境にあるわけだから、それをできるようにするには、誰かが、それができるようにしないといけない。それが政府や自治体の仕事であり、義務に近いものだろう。

 そう考えると、

「権利の裏側には、それを行使させるために、義務を負う人間や団体がある」

 ということになるというものだろう。

「そういう意味で、参政権というものも、本来なら、選挙に行かなければ罰則をつけるくらいにしないといけないはずなのに、それをしないのは、組織票を持っているところが、投票率が増えては困ると思っているので、敢えて、投票しなければいけないようにされては困るということで、投票させないようにしているのかも知れない」

 ということになるのではないだろうか?


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