第63話 長征
1546年(天文15年)7月初旬 越中国
梅雨が明けて、初夏の日差しが身に染みる季節となり、俺は京への上洛を目指して軍勢を西に向けた。
北国街道を征くその軍勢は約3万、その殆どが正規兵を主とした精鋭である。
主力となるのは越後兵2万、それに信濃、越中、甲斐、上野、の常備兵の一部を加えた形となる。此度の上洛は波乱が予想されている為、余り領国の防衛を疎かに出来んからな。これが精一杯だ。
上洛に同行する軍長は千代、大殿、宗滴、氏康、晴信、越後の軍長は全員連れて行く。それ以外の軍長は皆留守番である。
皆悔しがっていたが、色々事情を説明したら納得してくれたよ。
此度は、留守居の者達も忙しくなりそうだからな。
京への進路としては、此度は敢えて陸路を征く事と成る。
せっかく大軍を動かすなら、海路より陸路を使った方が長尾家にとって良い宣伝となるからな。
越中→加賀→越前と北国街道を通り、近江を経て京に至る。その距離約450キロに及び、京に到着するまで、凡そ半月は掛かる長征となる。
その進軍は、長尾領である越中を越えるまでは比較的順調であった。
此度の経路となる、加賀、越前は曾ての同盟国であった能登畠山家と、朝倉家の領国となる。
畠山家と朝倉家との5年の盟約期間は既に切れている。
現状、両家と長尾家の仲は『ただ敵対関係には無い』と云うだけに過ぎない状態である。両家からも継続の申し出も無かったのは、恐らくは幕府の圧力が有ったのだろう。
更には盟約を結んだ当時の畠山家当主、名君と呼び声高かった義総( よしふさ)は昨年の5月に、病の為亡くなっている。
義総殿とは一度しか会っていないが、その評価に値する器量を持った人物だった。
惜しい人物を亡くしたものだ。
その名君の跡を継いだのが、義総殿の次男、義続だ。段蔵の報告によれば、義続は温井、遊佐等の重臣に押される形で、密かに反長尾に舵をきった様だ。
朝倉家は家中が長尾派と反長尾派とに割れているとの事である。
現状、その勢力は拮抗しており、何方に転ぶか予想は難しい。
要は、長尾領である越中を出て、加賀に入ったならば、もう其処からは敵地に等しいと云う事だ。
一応は、両家にも領内通過の許可は得てるが、当然油断する心算は無い。
上洛の経路には、多くの忍びを放っている。何か動きがあれば、その情報は速やかに段蔵から俺に伝わる手筈になっている。
家の軍勢を不意打ちするのは至難の業と言っていい。
最も、畿内の連中の思惑としては俺を畿内迄は引き摺り出したい様だ。
だとすれば、それまでは手出しは無いはずだがな。
こうして俺は、越中・加賀との国境である田近越を越えた。
1546年(天文15年)7月初旬 能登国 七尾城 畠山義続
「ふん。不愉快な事よ。」
「殿、もう暫くの辛抱で御座いまする。」
「判っておるわ。」
現在、我が領内をあの忌々しい長尾家の軍勢が通過しておる。
半商人風情の成り上がりが、舞い上がって上洛するとの事だ。
身の程知らずにも程があるわ!
まあ、良い。
京の公方様が、長尾家の討伐を決断された。それに追随するのは、我が畠山家に加え主筋に当る、河内・畠山家、細川京兆家、近江・六角、駿河・今川、常陸・佐竹、伊勢・北畠等、名門揃いよ。
成り上がり者など、相手にもならぬわ。
長尾勢が京に入れば、畠山家、細川家、六角家、一色家、若狭武田家に一向宗の門徒までが長尾勢に攻め掛かると云う。
畿内は長尾勢に取っては、正に死地と言って良いだろう。
当家は、時期を合わせて越中へ雪崩込むのみよ。
主力を欠いた長尾勢など恐れるに足りんわ。
越中も、随分豊かに成ったと耳にする。
其処を我が手にするのが楽しみでならんわ。
出来る事ならば、春日山辺りまで手を伸ばしたいものよ。
クククッ。楽しみでならんわ。
1546年(天文15年)7月初旬 越前国 一条谷城 朝倉孝景
「ふう〜。面倒な事に成ったの。」
先頃届いた公方様からの書状、その内容を思い浮かべると、思わず溜息が漏れる。
その内容は、今や飛ぶ鳥を落とす勢いの長尾家の討伐軍への朝倉家の参加要請だ。
儂は別に長尾家に対して思う所がある訳ではない。
どちらかと云うと一向宗相手に共闘した盟友とすら思っておる。
あの、神童のお陰で一向宗門徒は壊滅し越前は、随分と平和で豊かに成ったものだ。長尾家に感謝こそすれ、敵対する理由など無い。
しかもだ⋯⋯長尾家には、あの戦狂い、鬼宗滴までおるのだ。
あの、ジジイには儂が幼い頃から
『朝倉家に相応しき当主と成りなされ!』と、散々にしごかれてきた。
その余りに過酷な修行に一時は本気で他国への逃亡を考えた程だ。
いや、実際に実行しようとした所を、無駄に勘の鋭いジジイに取り押さえられたのだったか。
とにかく、あの鬼宗滴の居る長尾家と戦をするなど⋯⋯とても勝てる気がせんわ。
せっかく、鬼が長尾家に移籍して、やっと風雅で平穏な当主生活が送れる様に成ったと云うのに。
しかし、我朝倉家は幕府相伴衆に任じられる家である。公方様の要請も当然、無碍には出来ない。
家中の意見も割れておる。
現状公方派が4、長尾派が3、中立が3と拮抗しておる。とても直ぐに結論を出せる状況では無いのだ。
儂はどうすれば⋯⋯⋯
いっそ、、降るか。
思い悩んでいたその時、天啓の様な閃きが頭を過った。
うむ。長尾家は文治の家だ。
長尾家に降った所で、朝倉家の一門や家臣達、その民が、大きな犠牲を払う事は、まず無いであろう。
むしろ、その大半は喜ぶはずだ。
儂も息子もこの過酷な当主家業から引退して、平穏な生活を送ることが出来る。
考えてみれば、良い事しか無いでは無いか!
うむ。降ろう。そうしよう。
しかし、反対しそうな連中も家中には居る
そう、現在の公方派、儂の愚弟にして大野郡司・景高、景鏡親子を中心とした連中だ。
景高には謀反の前歴もあり、今も朝倉家当主の座を狙っておる野心髙き困った身内である。当主なぞ、そんな良いものではないぞ。
弟にその器が有るなら、当主の座など喜んで譲ってやるのだがな。
さて、邪魔者をどうするか?
流石に、殺すは気が引けるが⋯
うむ…神童殿に書状で相談してみるか。
うむ。そうしよう。
出来る事なら、あの鬼ジジィには二度と会いたく無かったが⋯致し方無し。
長尾に降ったなら、ジジィと離れた任地を希望するとしよう。
春日山は随分と雅な街と聞く、隠居するなら最適かもしれぬな。
1546年(天文15年)7月中旬 越前国 敦賀
「旦那様、敦賀湊は随分と賑わっていますわね。」
「あれに見えるは当家の帆船ですね。」
「こん所まで来られるなんて。少し前迄は、思いもよりませんでした。本当長尾家に嫁いで良かったです、中将様。」
嫁達が楽しそうに、話している。
これから、いよいよ本格的に敵地に入るんだがな⋯流石である。
越前の西の端であるこの敦賀まで来れば、行程の三分の二は経た事となる。
此処まで10日程の行程だった。京迄は、後4日で到着の予定だ。
やはり、交通手段が未発達の、この時代の移動は大変だ。
現代なら半日の移動で済むのが、半月近く掛かるのだ。
幸いにも、加賀、越前は何事も無く無事に通過する事が出来た。
問題があったとすれば、加賀と越前の地元の住民が長尾家の軍勢を見ようと沿道に詰めかけて、少し行軍の妨げになったぐらいのものだ。
多くの住民が、沿道から手を振り歓声を上げ歓迎してくれた。
俺や嫁達を見て黄色い声を上げる若い女性や野太い声を上げる男達が大勢いた。
中には、直接ファンレターや贈り物を渡そうとする者まで現れ、対応に苦慮した程だ。
まあ、家の【越後戦記】を始めとする各種情報戦略の成果である。
致し方無いと割り切って、柄ではないが精一杯の笑顔を振り撒いて手を振っておいた。
政治にしろ戦にしろ、大勢を味方にした者が勝利する。民を顧みない為政者は、いつかは、その代償を払う事と成るだろう。
さて、畿内でふんぞり返っている連中は、果たしてどうだろうな。
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朝倉 孝景(あさくら たかかげ)
越前朝倉家10代目当主。宗滴との二人三脚で、朝倉家の全盛期を築き上げた名君ですね。
その治世は、この時代には珍しく平穏で、都からも多くの貴族、文化人らが畿内の戦乱を逃れ一乗谷に避難しています。お陰で一乗谷は京風の文化、知識が流入しこの時代有数の城下町と成っています。
孝景さん自身もそんな公家や文化を積極的に保護し発展に尽力しています。
外交面でも優秀で幕府からもかなり厚遇され、頼りにされているようで孝景さんの時代にかなり朝倉家の社会的地位が向上されたと言われてますが、幕府に良いように利用された側面もありそうです。
文治の政治家としての評価は非常に高い方ですが、戦の方は殆ど宗滴じいに任せきりだった様で、殆ど出陣した記録は残っておりません。
ひょっとしたら、何か幼い頃のトラウマでも、あったのかもしれませんね〜
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