第58話  銭

1546年(天文15年)2月下旬 越後 春日山城



「やはり、今年に入り、米の値が上がってきている様ですな。」


「うむ。米だけではない。卵や野菜等の値も少々上がってきておる。」


「これは長尾領だけの話ではありません。駿河、美濃、畿内なども同じような傾向にあるようでございます。」


ここは、春日山城の一角にある評定の間。

工房で造られた、美細な装飾が施された絨毯が敷かれ、大きな机と複数の椅子が置かれた、洋式の会議室である。美しい木目の重厚な机に、三十人程の内政官僚たちが向かい合い、活発な議論を繰り広げている。


主な参加者は、直江景綱、村井貞勝、蔵田重久、矢田清兵衛、上杉定実等の各局長に千代、近習たちに加えオブザーバーとして北条氏康が参加している。


本日の議題は〈長尾家の経済成長政策〉についてだ。


「中将様、お義父様が仰る通り、領内の物の値が上がってきております。少々気掛かりですが、放置しておいてよろしいのですか?」


諏訪ちゃんだ。確かに、手元の資料を見ても、去年に比べて全体の物価が5%程上昇しているのがわかる。

現在、長尾領は、養蚕、毛織物、畜産等の新産業が牽引する形で、空前の好景気に沸いている最中だ。人々の所得は増え、それに伴い建築業、外食産業等も勃興期にある。そんな高い経済成長の最中なのだ。


物価が上がるのは、当然なのだが…。


俺は、これまで貨幣経済を日本に浸透させるために大量の永楽銭を鋳造し、日本中にばら撒いてきた。

それは、日本に出回る銭の量が完全に不足していたためだ。

それが、長尾家も大きくなり、家臣へ支払う銭の量も相対的に大きくなった。

毎月膨大な銭を鋳造し、市場に流した結果、俺の予想より早く、市場の銭が適正な水準に到達している可能性もある。

いや、既に適正水準を超えて銭を供給してしまった可能性もあるか…。


必要以上に銭が市場に溢れたら、起こることは、その価値の喪失だ。


1文100円の価値があったものが、90円、80円にとその貨幣価値が下落するということだ。


今回の物価の上昇は

おそらくなら、好景気による正常な物価の上昇と考えられるが…。


うん。贋金作りからは、足を洗うか。


「そうだな。永楽銭の鋳造は、夏までとする。」


評定の間がザワついた。


「新次ろ…いや、殿!そんなことをすれば、幾つかの事業を止めねばなりませんぞ!」


確かに、親父殿が焦る気持ちもわかる。

景綱も眉間に皺を寄せ、難しい顔をしている。

治水等の公共事業に関わる職人や人足たちの給金の一部は、家で鋳造した私鋳銭が充てられていたからな。


しかしな…。


「お義父様。中将様は『永楽銭の鋳造は、止める。』そうおっしゃったのです。」


「ん?咲殿、それは同じことではないのか?」


「蔵田殿。殿は、おそらく次の段階に進むことを、決められたのであろうな。」


うん。諏訪ちゃんと氏康は、俺がやろうとしていることがわかっているようだ。この二人の経済感覚は、この時代では異色だな。


「相模守(氏康)の言う通り、長尾家の通貨政策を、次の段階に移行させる。清兵衛、例の物を。」


清兵衛が取り出した桐の木箱の中には、長尾家の家紋【九曜巴】を表面にあしらった、大きさ・材質の異なる4枚の貨幣が納められている。


「これは…」


「まさか、長尾家にて通貨を…」


「これは、美しい意匠ですね。」


「ほう。これは、中々の出来でございますな。」


そう、俺は今後、長尾家独自の通貨を鋳造し、日本に流通させるつもりである。

今まで鋳造してきた永楽銭は、明の永楽通宝の模造品に過ぎない。

その永楽銭は既に十分に日本中に行き渡り、日本に貨幣経済は浸透した。


俺は、そう判断した。


それならば、今後は次の段階として、長尾家独自の新たな貨幣を鋳造し、それを日本中に広めていく。


そもそもが、永楽銭では何かと不便なのだ。

まずは、貨幣の種類が一種類しかないこと。

永楽銭1枚の価値は、現代で言うなら、凡そ100円となる。

その一種類しかなければ、

例えば、一万円の買い物をしようと思えば、永楽銭が100枚、少し高額の10万円の買い物をしようものなら、1000枚もの永楽銭が必要となる。

この時代、大口の取引を行う商人たちは、どうしていたのか?

銭を量りに乗せて、その重量からその価値を算出していたのだ。

実に、不合理かつ非経済的である。


新たに鋳造する新貨幣は4種。

大きさも材質も、それほど永楽銭と変わらない中央に正方形の穴を空けた銅貨が一文銭、今まで利用してきた永楽銭と価値としては同等、100円程の価値となる。


次の10文銭からは、穴は空いていない。

一文銭を一回り大きくした銅貨が十文銭。

裏側には、未だ存在していない春日山城の天守が刻印されている。

その価値は1000円相当となる。


そして百文銭、裏側に鳥居の意匠を刻印した銀貨となる。一万円相当だな。


最後が、百文銭を一回り大きくし、裏側に日本の象徴である富士山を刻印した一貫銀貨。

十万円相当の高額貨幣となる。商取引や海外との貿易に重宝するだろう。


これらの貨幣を、既に金貸業や貯金業務等の金融業まで手掛ける全国の日ノ本屋にて両替可能とする。

粗悪な鐚銭(びた)なら4〜6枚で新貨の1文銭と、正常な永楽銭なら等価で両替する。


俺が見ても中々の出来である。

工房の鋳造技術も、随分と上がったものだ。

長年、偽金作りで腕を磨いてきただけのことはある。


本来なら紙幣を発行したいところであるが、日本の貨幣経済はそこまで成熟していないだろう。


「確かに、素晴らしい出来ではありますが、されど朝廷や幕府から横槍は入らぬか?」


景綱の言う通り、その懸念はある。

長期に渡って日本の通貨政策を放棄し停滞させていた連中に、言われる筋合いは無いのだがな。


「当初は長尾領内の流通を目指すが、上杉君、仮に当家が新たな貨幣を鋳造したとしたら、朝廷や幕府はどう反応すると思うか。」


「うむ…実際に行ってみなければわからぬ話ではありまするが…おそらくは、大事になることは無いかと。不満が大きい様なら、新貨幣を少しばかり献上でもすれば、その不満も収まるかと。新貨幣の宣伝ともなりましょう。」


外交局長の上杉君には、主に京で朝廷や幕府との折衝を担当してもらっている。その上杉君の考えは貴重だ。


そして大方、俺の見込みとも同じだ。


そもそも、今の朝廷や幕府に、新たな貨幣を鋳造する財力も技術も信用すら無い。

その思考すら、存在しているか怪しいものである。だからこそ、500年もの長期に渡り、貨幣政策を放棄してきたのであろう。


「そもそも、今の長尾家に物申す気概が、今の公家や幕府に、ございますかな?」


「うむ。貞勝殿の言われる通り、そこまで気に掛けることも無いかもしれぬな。しかし殿、何故この時期に新貨幣を出す決断を?」


やはり、その辺は説明しなきゃ理解できないわな。現状うまくいっていることを、見直すとなるとな。


「俺は、蔵田家時代から大量の銭を日ノ本中にばら撒いてきた。それは、この日ノ本に流通する銭が需要に比べ圧倒的に少なかったからだ。しかし蔵田家から長尾家となり、当家が供給する銭の量が膨大な物となった。それをこのまま続けると、どうなると思う?」


「…なるほど、銭の価値が下がってしまうのですね。」


「ふむ。銭の供給過多により、銭の価値が下がる、という訳か。」


流石は、優等生の諏訪ちゃんと氏康君だ。


「それでは、今回の物価高は銭の価値が下がった結果、ということになるので?」


「親父殿、それはわからんが、その可能性も考えられる。実際に起こってからだと対処は困難となる。早めに、対処しておきたい。」


「そういう事ならば、商業局として異存はあり申さぬ。そもそも銭の問題は前々から商人達からも不満が出ておった。新貨幣が出回ればその不満も解消されよう。」


「銭の輸送費の大幅な削減に繋がり、商取引も円滑となりますな。政務局としても賛同致しまする。」


景綱や親父殿も納得してくれた様で良かった。日本も、何時までも他国の通貨を使う訳にはいかないからな。


新貨幣が日本に浸透していけば、今後の日本の経済成長の大きな助けとなるはずだ。


上手くいって欲しいものだ。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る