第24話 越後の乱②
1543年(天文12年)3月 越後 春日山城
越後が長尾派と反長尾派である上杉派との内乱状態となって間もなく1年が経とうとしている、この一年少なくとも長尾領にとっては比較的平穏だったといえる飯山城を落とした古賀京志郎が5千の兵とそのまま飯山城に留まり上田長尾家と信濃勢を牽制し与板城の直江景綱の元に援軍として送った朝倉 宗滴率いる兵5千にはそのまま中越の国衆と揚北衆の抑えとして残してある。
そして春日山城に残る後詰の兵7千と、佐渡の五島平八率いる越後水軍5千が越後周辺の制海権を握る、この状況に上杉方は拳を振り上げたものの動くに動けない状態に陥ている。
こちらからは無理に攻め込むつもりは無い、時間が経てば経つほどに苦しくなるのは敵勢だ、昨年中に敵勢力の領地にばら撒いた噂は忽ちの内に広まり今も長尾領に流れてくる難民は後を絶たない、勿論俺はそんな難民を温かい食事と新たに用意した難民用の長屋で暖かく迎えた、中には村ごと村人総出でこちらにやってきた者達もあった程だ、その噂をまた上杉方の国衆の領地に流す、それがさらなる難民を生み出す、上杉方の国衆には溜まらないだろう、それに追い討ちを掛けるように行われた主要街道と湊の封鎖、それにより満足に兵糧や塩の調達も出来なくなった、上杉方と言っても所詮は小勢力の集まりに過ぎない、経済的余裕等それ程無いのだ、既に幾つかの国人衆から降伏の書状が届いている
許す上での此方の出した条件は
治める領地を長尾家の直轄とする事と兵権の返上だ
それを飲めば府内に屋敷を与え長尾家の直臣として取り立てるといった感じである。
先祖伝来の土地を何より大切にする国人衆達にはとても受け入れ事の出来ない条件なのは判っている、それでも余程追い詰められていたのか少数ではあるがその条件を受け入れる国衆も出てきている
良く考えれば俺の出した条件はそれ程悪い物では無いのだ、領地持ちの国衆とはいえ土地を持つと言う事はその土地とそのと土地に住まう民を護ると言う責任も伴ってくる、当然周りの敵対勢力から土地や民を護る必要性が出て来る、その為武装して軍を組織しても銭は掛かるし戦に敗れれば一族郎党皆殺しの憂き目に会う事などこの乱世では日常茶飯事に起きている事だ。
俺が要求している事は現代に例えるなら、いつ倒産するか判らないような中小零細企業に大企業の傘下に入れと言っている様なものだ、そうすれば厳しい生存競争に晒される事なく煩わしい財務や税務からも解放される。土地は失うが収入も増えるし命の危険はぐっと減る
一族の者の雇用も俺は保証している、俺なら大企業の傘下に入るがな
そんな上杉勢との睨み合いが続いている中だが、俺はただそれをぼーっと見てただけじゃない、せっかく春日山城下に7千もの大軍を展開しているのだ、ただ睨み合っているだけでは勿体ない、せっかくなので府内の在る高田平野を流れる関川の河川改修をこの機に行ってしまう事とした、関川は別名荒川と呼ばれる程毎年の様に反乱を繰り返して住民を苦しめて来た暴れ川である、その河道も複雑に蛇行して高田平野を流れており現状広大な湿地帯を形成している、この関川を制する事が出来れば長尾家は広大な耕作地を手に入れ住民も水害に悩まされる事は無くなるだろう、俺は山本勘助、と先日旗下に加わった水越勝重を呼んでその工事を命じた、勘助辺りは俺の無茶にも慣れたものだが勝重には
『あんた戦の最中にこんな事してていいの?』的な眼で見られた
斥候はちゃんと放ってるからいいんだよ!気にするな。
そんな乱の最中に行われた大工事だが当初3年はかかると見られていた工期がなんともう直ぐ終わりそうなのだ、工事を任せた勘助や勝重の計画や指示が的確だった事も大きいが、シャベルやスコップといった道具の発達、工房で新たに開発した
混凝土(コンクリート)の存在も大きい、そして何より兵士の士気が高かった兵士を3組に別けてそれぞれの成果を日毎に競わせた、勝者にはその日の食事のおかずが1品増えたり酒が供された、それを日、月、単位で競わせて優秀な者には賞金や昇給を与えたのだ、結果工事は予定より倍以上のスピードで進み最早完成間近な所まで来ている。
やっぱり仕事のヤル気って大事だよね
乱が終われば信濃川流域の河川改修も行うつもりだ、現状の新潟平野は殆どが広大な湿地帯だここを流れる信濃川を制すことが出来れば越後の石高は100万石を超える、途轍もない労力と資金、期間が必要となるが
米の生産が増えればそれだけ飢えで死ぬ者が減る、食料自給率の低い日本の為にやっておかねばならない事だし、洪水で毎年の様に人が亡くなり住まいを失う状況は看過できん、治水は未来の日本への投資と考えれば俺の払う資金など安い物だ
その為にも早めにこの乱にも決着をつけないとな
1543年(天文12年)5月 越後 与板城
領民の反発も高まりいよいよ窮状著しい上杉方の国衆の様子を見て、雪解けと共に春日山上に集めた兵の内6千を率い俺は与板城に入った。
「お久し振りですな。ご健勝の事何より。」
「殿、御待ちしておりました。」
「殿!お久し振りです!」
出迎えたのは兵5千を率いて与板城に援軍として入っていた朝倉宗滴と与板城主であり大殿の懐方と呼ばれていた直江景綱だ。去年の家督相続以後は俺の直臣になっている。そしてこの一年余りの間名将宗滴に付けて学ばせていた俺の近習春日将次郎だ、将次郎も今年で俺の5つ年上の18歳立派な若武者に成長している様だ、そろそろ少数の兵なら任せてもいいだろう。
皆揚北衆や中越の国人衆の抑えとして充分な仕事してくれた。これで俺の率いて来た兵と与板城に籠っていた5千と直江勢を含め1万を超える大軍となる、他にも長尾派や中立派だった国衆、上杉方から寝返った者達も続々と集まって来ている最中であるその数は5千余り中々侮れない数だ
再会の挨拶もそこそこに城に招かれた俺は早速現状の情報の摺り合わせを兼ねた評定を開いた
参加者は妻となったにも関わらず今回も参戦している千代、軍師として同行している山本勘助、真田 幸綱の他に神保長職、そして直江景綱と同じく家督相続後に新たに直臣に加わった柿崎景家と宇佐美定満、近習の工藤昌豊、美雪は俺の背後に控えている、後は与板城で睨みを利かせていた宗滴、景綱、将次郎といった面々だ
先ずは城主の直江景綱が状況の説明をする
「では只今の現状を先ずはお伝えさせて頂きます、此度の殿出陣で日和見をしていた毛利安田、北条、吉江、小国、山吉、福王子等の国衆が殿に恭順の意を示しております、これにより古志郡(こしぐん)刈羽郡(かりわぐん)三島郡(さんとうぐん)の三郡は概ね我等の勢力下に入ったと言えるでしょう、他にも敵勢の下倉山城主福王子孝重、新津城主新津 良資、水原城主水原 満家、宇佐美定光殿の説得に応じ当家に恭順するとの事です。敵勢は現在2手に別れ本軍およそ5千は黒滝城に残りの3千は角田山に陣を引き御味方の小国殿の天神山城及び越後水軍の牽制を行うようです。」
「殿それらの家の恭順をお認めになるので?」
「ああ、それらの家は土地の返上と軍権の返上に同意したのでな帰参を認めた、中隊長もしくは小隊長待遇で当家で召し抱える。」
因みに越中での戦の後軍の規模も大きくなったので新たな軍制を制定している
改めて諜報活動をメインとする情報局を設立した他、作戦の立案新戦術の立案を行う参謀局、新兵器の開発から戦の際の補給などを担当する軍務局を新設、
兵士にはそれぞれ10人ずつに組分けしそれぞれの長を組長とする
そして10組を纏めて100人の兵を指揮する者を小隊長
小隊長5人で計500の兵の指揮官が中隊長、
10人の小隊長と2人の中隊長の指揮官で1000人の兵を指揮するのが大隊長となる
その大隊長を指揮するのが現状軍で俺を除く最高位となる軍長となっている
現状軍長は古賀京志郎、朝倉宗滴、海兵を率いる五島平八の3名と大殿長尾為景だ、
大殿に「儂に任せよ!」と言われて断れんわ。
給金は一般兵は大体年俸50貫(500万円)組長が60貫、小隊長が100貫(1000万)中隊長は200貫(2000万)大隊長は500貫軍長は1000貫(一億円)となっている、情報局の局長は加藤段蔵、参謀局の局長は山本勘助、軍務局局長は矢田清兵衛が務める各局長の年俸は軍長と同じだ。
「それはかなり敵は参っておりましょう、ここは一気呵成に敵の籠る黒滝要害を攻め立てましょうぞ。」
新たに直臣となった柿崎景家だ、直江景綱と同じく大隊長待遇で雇っている、見た目に違わぬ脳筋発言だがこれで頭は悪くない
名前:柿崎景家 男
・統率:80/88
・武力:89/95
・知略:75/80
・政治:50/72
・器用:72/77
・魅力:55/68
適正:武人 騎馬 指揮 槍
流石後世であの軍神謙信に「越後七郡にかなう者無し。」と称えられた男だ
武力ばかりか知略も政治にも秀でている、景家の言う通り此処まで来たら普通は力押しが最も手早く片が付くんだがな
「しかし柿崎殿敵の籠る黒滝城は黒滝要害と呼ばれる程の堅城、無策ではこちらの被害も無視できないものになりましょうな。」
対して慎重論を唱えるのが景家と同じく新たな直臣となった宇佐美定満だ、既に先程直江景綱が話したように敵方を寝返らせる等の手柄を挙げている、やはり中々優秀な爺さんだ
名前:宇佐美定満 男
・統率:80/82
・武力:63/68
・知略:92/93
・政治:72/80
・器用:63/65
・魅力:65/69
適正:調略 軍略 指揮 攻城
軍師としても兵を率いる指揮官としても優秀だ、こちらも大隊長待遇で雇っている
「角田山とは厄介な所に陣を引かれましたな、これでは神保の時の様な手は使えませぬな。」
幸綱の言う通りだ角田山は日本海と北国街道に挟まれた低山だが頂からは日本海を一望できるし北国街道に睨みを利かすことも出来る要衝といえる、これで水軍で回り込んでの挟撃も簡単には出来なくなった、敵さんも馬鹿じゃないって事だな。
「それでは、こちらは兵で勝っております黒滝城に抑えを置き信濃川上流より迂回すると云うのは?」
お!将次郎がこの面子の中臆さず発言しているな、宗滴の下で随分と成長している様だな、子供の成長を見れた気分だ、隣に座る宗滴も若干嬉しそうだ。
「しかしそうなると補給の問題が出て来るがその辺りはどうする?」
昌豊君も随分と成長した、そろそろ昌豊と将次郎にも兵を任せて見るかな、先ずは小隊長からだな。頑張れ。
それからも暫く議論は続いているが、今回に関しては俺の方針は既に決まっている、あくまでこの評定は情報の共有の場に過ぎない、まぁ将次郎や昌豊なんかには良い経験になると思って聞いていたがな
意見は出尽くしたのか皆俺の決断を待つように評定の間はいつの間にか静かになっていた
「景綱、敵に大宝寺勢の旗印はあったか?」
「はい、凡そ1000程が黒滝城に籠っております。」
うん、段蔵の報告通りだな、庄内は大体10万石程前後動員兵力5000~7000といった所だろうが大宝寺と対立している国衆も多い特に有力国人衆砂越氏とは犬猿の仲だ、大宝寺自体の動員兵力は良くて3千今は農繁期早々に農民は集まらん、海からの急襲にとても対応できんだろうな越後に1000も兵を送ってきている時点で水軍の警戒をしているとは思えんわ
「ははは、流石は殿じゃ、この儂すら思いも寄らぬ事を考え為される。越前からこちらに来た甲斐が有るわ。」
「家がやられた手の規模を二回りほど大きくした策で御座いますな。経験上敵勢は予想もしておらぬかと。」
宗滴爺さんは御機嫌に笑い越中で似たような事をされた神保長職は苦笑いを浮かべていた、仕方なかろうこれが一番敵味方共に犠牲が少ないんだよ
「大宝寺?・・・・殿まさか!?」
「そうだ将次郎、平八率いる越後水軍5千は後日には酒田に上陸し大宝寺城を攻め懸かる予定だ、その後平八は越後出羽街道を南下し揚北衆の本拠を付く。その前提で策を練ってくれ。」
この評定は日が暮れるまで続いた
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越後七郡解説
石高は参考程度に、
この当時の正確な石高は判りませんので大体こんなもんかな?
程度の数字です。
頸城郡(くびきぐん)12万石
現代の上越市周辺で当時の越後の西部で政治経済の中心、春日山城も直江津も此処に在ります、ほぼ長尾家の勢力圏
魚沼郡(うおぬまぐん)5万石
現代でも米所として有名、上田長尾家の根拠地、景勝公の出身地
古志郡(こしぐん)4万石
越後のほぼ中心、現在の長岡市や見附市の一部
刈羽郡(かりわぐん)4万石
現代の柏崎市原発で有名、北条 高広(きたじょう たかひろ)さんの北条城はここ
三島郡(さんとうぐん)4万
現代では長岡市やら新潟市やらがちゃんぽん、直江さんの与板城はここ
蒲原郡(かんばらぐん)10万石
現代で新潟市の大部分三条市、新発田市、加茂市、五泉市、阿賀野市、胎内市、北蒲原郡聖籠町、西蒲原郡弥彦村、南蒲原郡田上町、東蒲原郡阿賀町の全域、燕市の大部分ととにかくめちゃでかい。それでも当時は大部分が信濃川流域の湿地帯で有った為米は取れない戦国時代の末期から少しずつ信濃川の河川改修を頑張った結果
この蒲原郡だけで53万石の石高になったそうな、越後が米処となったのはこの蒲原郡の開発の成果ですね。ちな、揚北衆の本拠は大体此処
岩船郡(いわふねぐん)4万石
越後の北端現代の村上市辺り、美味しいうどん屋があります。
黒滝城
戦国時代に「黒滝要害」とよばれ、北陸道の軍略上の要として重要な役割を果たした
上杉謙信が若い時に武名を上げた城としても有名
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