第19話 対一向宗戦
1540年(天文9年)4月中旬 越中国 砺波郡 増山城
冬の間、新領地の差配から領地が増えた為に新たな人材の募集から兵の増員、または新事業の立ち上げと何かと忙しかった冬もようやく終わり、雪解けと同時に俺は兵七千を率い越中攻めを再会した、先ずは前年の戦で一向宗より奪った増山城に本陣を置き砺波郡の攻略に当たる事とした、越中の一向宗は主に2つの勢力に別られる一つは砺波郡の南部に勢力を置く瑞泉寺、そして砺波郡西部の加賀国境近くの土山御坊だ、どちらの寺領も十万石前後と下手な大名家よりも余程強大な存在である。
現状敵の反応は鈍い、前年の手痛い敗北の影響も大きいが、それに加えてて冬の間に段蔵に命じた調略の影響も出ているようだ、段蔵には一向宗門徒の村々に、蔵田領の民の待遇、領地やその豊かさ発展具合をたっぷりと流させた。
その上先の戦で捕らえていた一向宗門徒300人程に冬の間たらふく飯を食わせ持て成しってやった、皆当初は痩せていたが冬が明ける頃にはかなりふっくらしてたものだ、そんな門徒達を戦が始まる前に皆解放した、大勢の門徒が俺に感謝してそれぞれの村に帰って行ったそうだ、中には「帰りたくない」「もう浄土宗は棄教する」と言う者達までいたそうだ。
村に帰れば熱心に家の宣伝をしてくれた事だろう。
こちらとしては先ずは砺波郡の惣村や国衆をこちら側に取り込みながら腰を据えて砺波郡の一向宗の勢力を削っていく、幸いにも一向宗側は加賀からの援軍を待っているのだろう瑞泉寺も土山御坊も籠城の構えの様だ。
越中の一向宗の危機とならば加賀の一向宗も援軍を送って来る、こちらとしては加賀の一向宗が出張ってくるまでに越中の一向宗の勢力を少しでも取り込み削っていきたい所だ。
1540年(天文9年)7月 越中国 砺波郡 蓮沼城
「ククク、久しいな婿殿!随分と順調な様だな。」
何時もの様に悪人風な笑みを浮かべた鎧姿の大殿事、越後長尾家先代当主長尾為景が俺達の本陣を置く蓮沼城(はすぬまじょう)に兵七千余りを引き連れ現れたのは梅雨が終わり本格的な夏を迎える頃だった。
越中一向宗の本拠である砺波郡に攻め込んで間もなく3カ月となるがその攻略は大殿の言う通り順調である砺波郡の多くの門徒や国衆はこちらの軍門に降り今や砺波郡の大半はこちらの支配下となっている、残すは本拠地である瑞泉寺と土山御坊に籠る熱心な門徒宗だけである、しかしこの残った連中は中々厄介なのだ信仰心が篤い為死兵となって抵抗して来るし籠る瑞泉寺や土山御坊も堀や土塁を巡らした堅牢な城塞だ力攻めではこちらにも相当の被害が出る事を覚悟しなければならない。
だから俺は瑞泉寺や土山御坊に対しては積極的な攻勢は掛けずにいる、その周囲を柵で囲み外部との接触を絶ち包囲する構えだ、どうせ奴等の心の拠り所である加賀からの援軍が消えれば逃げ出すか降伏するしか奴等に手は無いこちらが無理に犠牲を払って攻め落とす必要は無いから放置だ。
そんな彼等の待ち望む加賀からの援軍だが、つい先日加賀一向一揆の有力指導者の一人超勝寺の実顕(じっけん)の「越中の同胞を救え!」と言う掛け声に集まった2万5千の大軍がこちらに向けて進軍中である。
その一向宗の大軍を迎え撃つ事となるこちらは、瑞泉寺を鈴木重家に2千の兵を率いて包囲中の為にそれを差し引いた我が軍5千と大殿率いる越後勢7千を加えて1万2千一向門徒の半分程の数となる。大殿の援軍が間に合って良かったよ。
それでも数的な不利は明らかであるが、その辺は初めから判っていた事だそれに対してはいくつか策を打った、まぁなんとかなるだろ。
「久しぶりで御座います。こんな所迄出張って頂き感謝致します。」
「父上お久しぶりです。ご健勝の様で何よりです。」
「ククク、まだ童のおぬし等に本当の戦と云うモノを教えてやらねばと思っての、それに一向宗は我が父能景(よしかげ)の仇よ。この戦で一向宗の者共を悉く磨り潰してくれようぞ。ガハハハハ」
俺と愛娘である千代の出迎えに、機嫌良く応じる大殿対するは長年争い続け父の仇でもある一向宗、ヤル気満々である。
まぁ大殿の気持ちも判らんでもない。
今から30年以上前の永正3年(1506年)本願寺第9代宗主実如は加賀の門徒達に周辺国越前、能登、越中等への進出を命じた、越前は名将朝倉宗滴の前に挫折、能登の畠山家も当時内乱中であったがなんとか結束し一向宗を撃破したが、越中は当時河内の畠山宗家の分国で守護代の遊佐氏・神保氏・椎名氏が地域ごとに分割して支配し相争う関係であった為にとても一揆勢に一致団結して対応する事は出来ず一揆の進撃が続いた。
この事態に焦りを覚えた越中守護畠山尚順は、畿内での戦いに手を取られていたために、代わりに隣国越後の守護上杉房能に救援を要請した。
当時既に越後国内では守護上杉房能は無力で実権は守護代である大殿の父である長尾能景に奪われていたが、房能と能景は一揆が越後に広まることを恐れてその救援要請に応じた。
能景は椎名、遊佐、神保等の越中の守護代達と合流し、一向一揆勢の掃討戦を敢行して一向宗の拠点である瑞泉寺に迫った、そして両軍は砺波郡の北東に在る般若野の地で対峙する事となった、そこで能景率いる越後勢はは思いもよらない事態に遭遇する事となる、越中守護代の一人である神保慶宗が一向一揆側に内通して戦線離脱を図ったのだ。思わぬ裏切により長尾勢は大苦戦に陥り、大将である長尾能景を始め多くの兵を失う壊滅的な大敗を喫して越後まで逃げ帰る事となった。
そうして父を失った大殿は若くして長尾家の家督を継ぎ以来30年以上に渡り一向宗と戦い続けてきた、その決着をこの戦で付ける事が出来るかもしれない!となると張り切るその気持ちは充分と理解出来るものだ、出来得ることならその因縁から解き放ってやりたいと思うが。
そして城内に大殿達を招き情報の共有から今後の方針を決める評定が開かれる事となった、とは言っても基本方針は既にほぼ決まっている、加賀と越中を結ぶ主要街道である田近越(たぢかごえ)を越えてやって来る一向宗門徒達を大軍の利を生かしにくい、平野部に出る前の山間の狭間に砦を築き迎え撃つ、これが基本戦略となる。
既に平野部の出口付近の五郎丸周辺には街道を塞ぐ堅牢な砦がほぼ完成している、以前呉羽山に造り上げた防御陣地に比べても期間にかなり余裕が有った為により大規模で堅牢に仕上がっている、此処にある程度の兵を置けば余程の事が無ければ超える事は出来ないだろう。
そして一向宗の大軍をこちらで引き付けて置く間に空となった加賀を長尾家と秘密裏に同盟を結んだ、能登の畠山家が北から越前の朝倉家が南より加賀に攻め込む手筈となっている、両家とも一向宗とは不俱戴天の敵と言っても良い間柄である上、加賀4郡の内北部の河北郡(かほくぐん)と石川郡は畠山家の支配地、南部の能美郡(のみぐん)、江沼郡(えぬまぐん)は朝倉家の支配地となる予定だ、両家ともそれぞれに20万石近い広大な領地を手に入れる事となると見返りも大きい随分と頑張ってくれるだろう。
そして家は越中の砺波郡そして今回の同盟者の中で取り分の少々多い畠山家から畠山家が治める越中の北部氷見周辺地を譲り受ける予定である、これで一向宗さえ追い出す事が出来れば越中は全て俺の支配下となる。
この長尾、畠山、朝倉の同盟期間は一応は5年と定めた、これで越中の西側国境はしばらく安定する、現状で名君として知られる畠山 義総(はたけやま よしふさ)治める能登畠山家、名将朝倉 宗滴(あさくら そうてき)擁する越前朝倉家は今が全盛期と言って良い、この両家とは暫くは良い関係を築いていきたいと思っている、どのみち両家の全盛期はそれ程長くは続かないのは知ってるから、先の事はしらんがな。
そうしてその評定の4日後いよいよ加賀の一向宗の大軍が越中に侵攻してきた
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