第18話 越中大乱

1539年(天文8年)10月  越中国 新川郡 魚津城


 直江殿が糸魚川を訪れてから1月程、俺は兵4000を率いて越中との国境である親知らずを越え越中に侵攻した。国境を護る椎名方の宮崎城主 宮崎長康 は突然の侵攻に守兵をまともに集める間もなくほぼ抵抗する事無く降伏した。


 そこから新川郡に侵攻した俺達は正に破竹の勢いで新川郡の各城を落とし僅か3日で新川郡の要衝魚津城まで落城させる事が出来た。

ここまでスムーズに侵攻が進んだのには幾つかの理由がある


 先ずは先日春日山城で椎名家当主 椎名康胤が一向宗と通じた罪によって腹を切らされた、突然当主を失った椎名家は後継を決める間も無い内に俺に攻められ、組織立った抵抗がほとんど出来なかった事、そして10月は稲の刈入れの農繁期で主力である農民兵が集められなかった事がある。

俺の軍は銭で雇った常備兵しか居ない為その点は圧倒的に有利だ。

 後は糸魚川に隣接する新川郡には当然俺の治世は良く知られている、「糸魚川の繁栄は凄まじい、民も随分と豊か」「随分と民に優しい領主様」らしい、と評判になっていた、まぁその辺の噂は俺が積極的に越中全土にばら撒かせたんだけどな、嘘は流していないから問題ないよな?

そんな噂のお蔭で農民の抵抗もほとんどなかった、中には村民総出で俺達の軍を迎い入れてくれた村もある程だ。


「殿、松倉城を攻略中の京志郎殿より早馬で知らせが届きました、椎名家家老武隈元員殿、康胤殿の御一族と城兵の助命を条件に松倉城の開城に同意したとの事です。」


よし!これで新川郡の大半が蔵田家の軍門に降った事になる、椎名家の居城松倉城はあの軍神様でも手古摺った建城だからな、徹底抗戦されてたら正直不味かった。


「椎名家の一門はくれぐれも丁重に扱うように伝えろ。」


下手に椎名の旧臣や民を刺激したくないからな、そのうち何処かに捨扶持でも与えてのんびりと過ごしてもらうとしよう。


こうして椎名家を降した我軍は更に越中を西進する事となる



1539年(天文8年)10月下旬  越中国 婦負郡


 椎名家を降して越中の東部を制した蔵田家は富山平野の中央を流れる神通川を越えて神保家の治める婦負郡(ねいぐん)に侵攻した。

先ずは手始めに寺島 職定(てらしま もとさだ)の守る大峪城(おおがけじょう)を包囲し降伏させた、続いて富山平野を見渡す呉羽丘陵(くれはきゅうりょう)に築かれた白鳥城を包囲、抗せずと見た水越勝重は戦う事無く神保家居城である放生津城(ほうじょうづじょう)方面へ撤退していった。

 これで婦負郡の大半が支配下となり、いよいよ神保家の居城放生津城へ侵攻をと思っていた所で事態が急変した、神保家当主神保長職が兵3000を率い越中一向宗の本拠砺波郡からやってきた一向宗の援軍5000と白鳥城を撤退した水越勝重と合流してこちらに向かっているとの報告が段蔵から入ったからだ。

 一向宗と合流した神保軍は8000を超える、対してこちらは、松倉城に抑えの兵500を残した為に3500だ。

 兵数の有利は完全に逆転してしまったな、農繁期で動きが悪かった両勢力だがようやく農繁期も終わりまともに兵を集める事が出来るようになったようだ。

 俺は兵500を白鳥城に入れ残りの3000を率いて呉羽丘陵の北端に在る呉羽山に陣を引いた、呉羽山は標高80メートル程の低山だがすぐ南に北国街道が通っておりここ敵の東進を阻むには絶好の位置に在ると言って良い、更に南には白鳥城もある為連携して対処する事も可能だ、背後となる東側には神通川が流れている為背後からも攻められる可能性も低い、そんな呉羽山に陣を置いた俺は山本勘助に命じて急ぎ防御陣地の造成を命じた、

 周辺にに生える木を切り倒し見晴らしを良くした上で切り倒した木材を使って柵や櫓を設けそして空堀を巡らす、敵の到着までそれ程の時間は無い為簡易な物しか出来ないがな。


神保と一向宗の連合軍が現れたはそれから2日後の事だった。

思ったより時間が掛かったのは神保の軍勢が少し増えている事から、配下と合流する為に少し行軍速度を落とした為だろう。


 両軍とも兵の士気こそ高そうではあるが、行軍や隊列の様子をみる限りはとてもまとも訓練を受けた軍には見えない、特に一向宗の方は酷いな。

武器や防具等の装備を見ても統一性は皆無で槍の代わりに鍬や鋤等の農具を片手に参戦している者まで見える。

まあ一向宗などほぼ全てが農民兵だ、常備兵で絶えず厳しい訓練をこなしている我軍と比べる事が間違いなのかもしれないが・・・


「ん。奴等着陣早々に動きそうだな勘助。」


「はい、敵陣の動きが少々慌ただしく見受けられます、おそらくは動き出すでしょうな。」


「・・・・やはり見る限りは警戒すべきは神保勢か、少し右翼側を厚くしておくか、昌豊予備兵より兵200を右翼側に送って置け。」


「はっ!」



「千代様まだ戦が始まる迄時が掛ります。今からそれ程気を張っていたら身が持ちませんぞ。暫しの間楽にしておられた方がよろしいかと。将次郎其方も少しは妹を見習うといいぞ。」


「・・・そうですね。少し気を張りすぎていたようです。」


「は、はい!」


「ん?どうした勘助。」


初陣の緊張で蒼い顔をしていた将次郎の緊張を解そうと声をかけていたら、勘助がこの男にしては珍しく笑顔でこちら観ていたのだ


「いや、これは失礼いたしました。殿は初陣なのにやけに落ち着いておられるなと感心していたので御座います。」


あぁ、そういえば俺も初陣だったな、佐渡はほとんど戦闘にならなかったしあれはノーカンだ。といっても俺の場合は前世で散々戦場に立った記憶が有るからな今更だ、砲弾や銃弾が飛んでこない分かなり気が楽なくらいだ

まぁそんな理由は話せんが


「まぁ打てる手は打ったからな、今更俺が焦った所で結果は変わらん。『人事を尽くし天命を待つ。』だな。」


「お見事な御覚悟で御座います。この勘助感服致しました。」


俺戦場のベテランです!なんて言えんから適当な事いったらえらく感動されてしまった。隣で将次郎だけでなく千代姫までも俺を尊敬の眼差しでみてくる。少し心が痛い。スマン。


そうこうしているうちに敵勢がこちらに向けてじりじり前進を始めた、敵勢との距離は500m程まだ矢は届かない和弓の最大射程距離は450m、有効射程距離は300m程であるが動き回る敵相手では55メートルまでが狙って射られるモノとされているのだが・・・・この時自陣から一本の矢が敵勢に向け放たれた、おいおい誰だこんな無駄な矢を放ったのはと思って射手を見れば櫓の上に居たのはなんと鎧姿の美雪であった、そして美雪が放った矢は美しい曲線を描き前線に居た指揮官らしい騎馬武者を見事に射抜いていた。

 矢に喉元辺りを貫かれもんどりうって落馬する武者、一瞬の静寂の後に敵勢からは動揺が我が軍からは歓声が上がった。

ドヤ顔で此方観る美雪、わかったわかった、ちゃんと見てたから。

戦が終わったら美雪の好物でも御馳走してやるから。


 この美雪の一矢が開戦の狼煙となった、敵勢が念仏や歓声を上げながらこちらに突撃を開始した、こちらも弓矢で応戦するこの戦で用意した弓兵は1000皆武力が高く弓矢の適正持ちが多い、こちらには高所の地の利も有る上放たれる矢の精度は高い面白いように敵勢に命中し敵勢を削っていく、敵勢は陣に近づく事すら出来ぬ有様である、それでもなんとか右翼の神保家の部隊が柵の目前にまで迫ったのだが其処で石弓による集中砲火を浴び前衛が壊滅した。

それを見て心折れたのか神保軍が撤退を開始しそれに釣られる形で一向宗勢も退却を開始した無数の屍を残して。


 もう少しここで削っておきたいから追撃はしないでおく、逃げられると面倒だ。

この初日の戦で敵勢は1000余りの兵を失っているがこちらの被害は皆無だ、そりゃ柵にまで辿り着いた敵勢は皆無だったからな、力押しじゃ結果はそうなる。

こうして初戦は我が軍の完勝となった。



1539年(天文8年)10月下旬  越中国 婦負郡 呉羽山


 初戦から5日が過ぎたが相変わらず俺達は呉羽山の防御陣地で敵勢と睨み合っている、その間2度敵勢から攻撃を受けた初日の戦で懲りたらしく流石に戸板等の弓矢対策を施した上での攻撃ではあったが、こちらの石弓は戸板ぐらいなら貫く、いずれの戦でも敵勢の被害ばかりが増える結果に終わった。


さて11月に入り朝晩はめっきりと冷え込む様になって来た、まもなくこの辺りにも雪が降る頃だ、そろそろこの戦にもケリを付けたい所だ

そろそろ敵陣に動きが有るはずだが・・・・


そう思っていた所、俄に敵陣が慌ただしくなって来ている


「どうやら敵勢にもやっと伝わった様ですな。」


[その様だな、勘助急ぎ追撃の準備を整えよ。」


 これでこの戦も決着が付く、ここに着陣して7日余り俺達本軍がこういして敵を引き付けている間に五島平八の率いる水軍が神保家の居城である放生津城を闇夜に塗れて急襲していたのだ、この急襲により守備兵のほとんど居なかった放生津城はあっさりと落城し当主長職の妻子を含む神保一族を捕虜にする事に成功した。

更にはこの地に敵を引きて来ていた間に守山城、古国府城、日宮城(ひのみやじょう)等の後方の守りの薄い城を立て続けに落とし、昨晩の内には敵方の兵糧拠点であり敵勢の眼と鼻の先に在る願海寺城(がんかいじじょう)の奪取にまで成功していた、何故ここまで敵に気が付かれなかったのか?それは段蔵率いる忍び達300名による徹底した情報封鎖である、前線に送られる早馬を悉く消すか捕えるかしてきたのだ、此処まで敵勢に動きを知られなかったのは見事な物である。

 その情報封鎖を今日解除したのだ、そして逆に真贋入り混じった様々な情報を段蔵達に流させた。

 今頃敵勢は怒涛の様に齎される凶報に大混乱だろう。

 すぐに敵勢に動きがあった、一向宗は本拠地との補給路を絶たれて敵地で孤立している状況、神保に至ってはそれに加え既に本拠を含めて多くの城を失ってしまった状況だ、そりゃここで俺たちと対陣している場合では無い。


一向宗は本拠地の砺波郡方面に神保は居城である放生津城方面への撤退を開始した。

 まあそれしか打てる手は無いのだが、残念ながらもう手遅れだ、俺は京志郎に兵2千を与え一向宗の追撃を、そして俺は残りの兵千と白鳥城を任せていた真田幸綱率いる五百の兵そして願海寺城を落とした五島平八率いる千の兵と共に放生津城方面に向かった神保 長職軍を包囲、その頃には長職の率いる兵はは離散し500余りにまで兵数を減らしていた長職は我が軍に降伏した。

 一方京志郎に散々と追い立てられた一向宗門徒達は多くの門徒や坊官が打ち取られ本拠である土山御坊、瑞泉寺に辿り着くことが出来た者は千に満たなかった。


 こうして一向宗と神保家を打ち破った俺は越中4郡の内、新川郡、婦負郡、射水郡の3郡を制圧する事になった、残るは一向宗の籠る砺波郡のみとなったが間もなく雪の季節今年の戦はここまでだ。


あぁぁ疲れた。早く糸魚川でのんびりしたいとこだ。































小島 職鎮(こじま もとしげ)日宮城代

寺島 職定(てらしま もとさだ)大峪城(おおがけじょう)

願海寺城(がんかいじじょう)寺崎行重 

二宮 長恒(にのみや ながつね)上熊野城主。

神保氏重守山城(もりやまじょう)

白鳥城(しらとりじょう)水越勝重

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る