第17話 越中

1539年(天文8年)9月 糸魚川


「新次郎殿、この卵飯のおかわりを所望致します。」


「美雪は鮑の牛酪焼きがもっと欲しいです!」


「殿、私には鱶鰭汁を頂ければ…」


「殿、申し訳ありませんが、某にも卵飯を…」


「…うむ!これは!?うむむむむむぅ!」


今日の蔵田家の献立は、千代姫のお気に入りであるふわとろ卵のオムライス、美雪からのリクエストで鮑のバター焼き、平八が鮑と一緒に蝦夷から仕入れてきた鱶鰭(ふかひれ)のスープ、デザートにはたっぷりの生クリームを添えた葡萄の果汁を加えた葡萄ゼリーだ。


未だ胡椒などの香辛料を手に入れられないため、調味料不足には悩ませられているが、その辺りは現在生産可能になった醤油、みりん、味噌、唐辛子などで補える。その辺りは調理人の腕の見せ所と言って良いだろう。


俺は前世から一人飯は嫌いなので、基本的に食事は誰かと一緒だ。普段は大体千代姫に近習達の春日兄妹や工藤昌豊辺りだが、館で家臣を見かければ清兵衛や京志郎、勘助、幸綱等も食事を共にすることが多い。最近では母上や蘭姉も頻繁にやって来るな。


気が向けば、今日の夕餉のように俺が腕を振るって皆に振る舞うことも多い。前世でも料理は好きだったし、こうやって幸せそうに皆に食べてもらうのを見ると、こちらまで幸せな気分になれる。料理人冥利に尽きるというものだ。


当初こそ近習達や家臣達は畏れ多いと遠慮していたが、今では俺が手料理を振る舞うと聞き付けて、「私は今日暇なんです」とアピールしてくる家臣すらいるくらいだ。


そもそもこの時代、食事はただの栄養補給、腹さえ膨れれば良いと考えるのが一般的だ。当然栄養のバランスとか考えることはなく、味付けも精々が塩を振りかけるのが精々だ。


食事中の会話はマナー違反とされ、食糧不足の日本では肉食が禁忌とされることも多い。現代人からすると無意味と言って良い習慣も多いが、それだけこの時代が貧しく余裕のない時代だからこそのことだろう。


『健全な精神は旨い食事と円滑なコミュニケーションにより育まれる』


それが俺の考えだ。だからこそ、家族や家臣との絆を深めるためにも、これからもこのような食事を続けていくつもりだ。親が子を殺し、子が親を殺す、家臣が主君に下剋上を果たす—そんな血生臭い乱世であるが、こうやって絆を深めていけばきっと我が家ではそんなことは起こらないだろう…うん、起きないといいなぁ。


賑やかな蔵田家の夕餉、今日の参加者は千代姫に春日兄妹、工藤昌豊といったいつものメンバーに、何やら奇妙な唸り声をあげながら食事を口にしている初参加の直江殿だ。


「そういえば新次郎殿、父上の書状には何と?」


好物のオムライスのお代わりを平らげ、タップリの生クリームを載せた葡萄ゼリーを幸せそうに頬張っていた千代姫がふと思い出したかのように訊ねてきた。


「あぁ、越中を獲れって書いてありましたよ。」


「なっ…!」


「ちょっとそれって…ちょっ!汚い兄上!」


「ブッツ-----------」


「…殿、それはのんびりと夕餉している場合では無いのでは?」


「ふぅ~、新次郎殿、それは秘中の秘と大殿はおっしゃっておられませんでしたか?」


「此処にいる者達なら心配は要りませんよ、直江殿。」


「…はぁ、まぁ良しとしましょう。」


「で、新様どういたしますの?戦なら私、新様の為に頑張るわ!」


「美雪!またお主は女の身で戦場などと兄として決して…」


「あぁぁもう!兄上、五月蝿い!私より弱いくせにいつもいつも!」


またいつもの兄妹喧嘩が始まったな。まぁいつものことだ。


しかし越中か…


越中国、現代で言うと富山県に当たる地域は越後の西側にあり、越後の西端に位置する糸魚川とは目と鼻の先と言って良い位置関係だ。北国街道一の難所と知られる親知らずを越えればそこはもう越中である。距離的にも春日山よりも越中国境の方が遥かに近い。


正直、俺も越中は欲しい。佐渡と違って米所で7湊の一つである岩瀬湊を有し、商業的にも栄えている。しかし越中は石高でも越後と大差はない大国であり、佐渡と違い一筋縄ではいかないだろう。


現状の越中は大きく3つの勢力に分かれて統治されている。越中の東側の新川郡(にいかわぐん)は椎名 康胤(しいな やすたね)が支配している。椎名家は一応長尾家に臣従しているが、あくまで一応であり、長尾家の不倶戴天の敵とも言える一向宗と裏で繋がっていることは段蔵の調べで分かっている。


越中中央部の婦負郡(ねいぐん)と北西部の射水郡(いみずぐん)を支配しているのは神保 長職(じんぼう ながもと)で、一向宗と手を組み、現状越中で勢力を伸ばしてきた。


そして一番厄介なのが越中の西部、礪波郡(となみぐん)の勝興寺(しょうこうじ)、瑞泉寺(ずいせんじ)を拠点とする一向宗の勢力だ。その動員兵力は万を超える。その上、加賀の一向宗との関係も深い。


統一勢力ではなく、主義主張もバラバラな勢力という点が救いだが、現状4万石に満たない弱小勢力の家にとっては、どれか1つの勢力と正面からぶつかるなら厳しい戦いになるのは間違いない。


「それで景綱殿、父上はいつ春日山を起たれるので?」


「此度の戦、大殿は参戦されませんし、長尾家としても援軍は一切お出ししません。」


「…まさか蔵田家単独で越中を獲れと…そう仰せなのか?」


「…ゴホンッ、大殿の御命令でございます。」


おぉぉ、一瞬だが千代姫の迫力にあの大殿の懐刀が押されてたな。流石の軍神様だ。やはり彼女は怒らせないようにしないとな。


直江殿も損な役回りだ。少し助け船でも出してやるか。


「千代様、大殿は確かに援軍は送られないでしょう。しかし、それは決して当家に対して悪意があって行う訳ではありません。むしろ当家の為を想っての事かと。」


「何故援軍を送らぬ事が蔵田家の為になると?貴方はなるべくなら自軍の兵も民も敵国の民ですら死なせたくは無いとおっしゃっていたではありませんか?」


「その辺は私が大殿に信頼されているのでしょうかな?あの小童ならそれ程被害を出さずに越中程度ならなんとかなると。おそらく大殿はこの蔵田家に越中を任せたいのですよ。下手に援軍を送ればどうしても『褒美に土地を』という話になりますからな。それなら越中攻めは蔵田家単独でやらせた方が後腐れも無い。蔵田家が単独で手に入れた土地なら不満はあっても文句は出にくいですからね。何よりも大殿にとって当家が大きくなるのは都合が良い。どうやら大殿も覚悟を決められたようですな。違いますか、直江殿?」


直江殿はどこか呆れた様子で頷いた。


「おっしゃる通りです。大殿が越後の国人衆を動員すれば、例え越中を取ったとしても蔵田家に越中を与える事に激しい異議が出るでしょう。ですが蔵田家単独での出兵ならば表面的には反対も出にくいかと、大殿は少なくとも新川郡、婦負郡、射水郡の3郡は自力でなんとか攻略して欲しいとの事です。」


その3郡は、椎名家と神保家の支配地域だ。一向宗は、さすがに大殿も手伝ってくれる気のようだな。


「しかし越中は大国です。お爺様は越中で一向宗と戦い、戦死されましたし、父上も何度も越中に攻め入ったが、結局決着を付けることができませんでした。蔵田家単独で相手するには、少し荷が重いと思うのですが?」


「当家の心配をしていただき、ありがとうございます。姫はお優しいですね。確かにまともにぶつかれば双方に大きな被害が出るでしょう。しかし正面から戦う気は、さらさらありませんのでご安心を。」


「う、う、うむ。新次郎殿には何か策があるのですね?ならば、何も言いませぬ。」


「しかし殿、攻め込むのは良いにしても、新川郡の椎名家は長尾家と臣従関係にございますが、よろしいので?」


「大殿は構わないとおっしゃっております。むしろ近いうちに、当主の椎名康胤殿を春日山に呼び、一向宗に通じた罪で腹を切らせる所存とのこと。その椎名家への沙汰の後に、蔵田家には越中に攻め入っていただきたい。」


昌豊の問いに答えたのは直江殿だ。正直、椎名家への沙汰は、強力な当家に対する援護射撃だ。これで越中の3勢力のうち1つが大きく弱体化する。長尾家は無碍光衆禁止令(むげこうしゅうきんしれい)という一向宗を禁止する法律まで出すほど、一向宗を毛嫌いしている。椎名家がその一向宗と通じたとなれば、罰しても家中からも対外的にも不満は出ないだろう。どうせ確実な証拠も掴んでいるだろうし、もし無ければ家が手に入れた証拠を渡しても良い。


「それならば椎名家は問題ありませんな。残るは神保と一向宗ですが、神保はともかく、一向宗は厄介でございますな。」


「ええ、越中の一向宗門徒だけでも厄介な存在ですが、越中の門徒を攻めれば、加賀の一向宗門徒たちも黙ってはいないでしょう。必ず越中に出張って参りましょう。」


「将次郎の言う通り、確かに一向宗に当家単独で当たるのは骨が折れるな。」


「単独では無く、まさかどこかと同盟をお考えで?」


「正解だ、将次郎。直江殿、お願いがあります。至急春日山に戻り、越前の朝倉家と能登の畠山家に使者を出していただきたい。条件は……」


年内に越中に攻め入る。大国である越中を手に入れれば、蔵田家は大きくなれる。ここが正念場だ。暫くは忙しくなりそうだ。





  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る