第4話

 注文したメニューがテーブルに並べられる。

 雪奈の前にはトマトパスタが、衣川さんの前にはオムライスが置かれ、食欲を掻き立てる匂いが充満する。

 いただきますと声を揃えて言い、二人は目の前の料理に熱中する。

 休日のカフェは人で賑わっている。

 衣川さんは青いワンピースをすらりと着こなしている。

 ジーパンに Tシャツというラフな格好をしてきた雪奈は、衣川さんに見惚れる一方で、自分のみすぼらしさに辟易した。

「衣川さんのワンピースかわいいね」

「そうかな。ありがとう」

 衣川さんはオムライスを頬張りながら答える。

「いつもどこで買ってるの」

「こだわりはないかな。なんとなくと、あとは値段かな」

「センスが良いんだね。私も衣川さんに服選んでもらおうかな」

 雪奈は冗談まじりに言う。

「それよりさ」

 衣川さんは一度言葉を切ると、最後のオムライスを飲み込み、話を続ける。

「雪奈って綺麗な名前だよね。染井雪奈。雪に染まる。純真無垢な雪奈にふさわしい名前だね」

 雪奈は頬が紅潮していくのを感じる。

 名前を誉められたのは初めてのことだ。

 雪という純白を連想させる言葉が、私のイメージとそぐわなくて、むしろ自分の名前が好きではなかった。

 衣川さんが言うような純真無垢な人間では断じてない。

 それでも、衣川さんに言われると不思議と自分の名前も悪くないと思える。

「衣川さんこそ綺麗な名前だと思うけど。衣の川に麻の衣。お洒落な衣川さんにぴったりだと思う」

「そんなことないよ。私なんて全然綺麗じゃない」

 言葉に反して、口調は穏やかである。衣川さんは食べ終わったお皿に視線を注いでいる。表情は読めない。

 そういえば、衣川さんが自分のことを卑下するのを初めて聞いた。

 自分のことを肯定もしなければ否定もしない、それが掴みどころがない所以であったが、何か思うところがあるのだろうか。

 表情は心なしか暗く沈んでいるように見えた。

 雪奈は何も言えなかった。

 沈黙が流れる。

 衣川さんがコーヒーを飲むと、雪奈もコーヒーを口に運ぶ。

 少ししたところで、そういえばさと衣川さんが会話を切り出した。

「雪奈って私のこと名前で呼んでくれないよね」

 悪意のない純粋な声音。

 その表情は、小悪魔の笑いのようにも、おねだりをする子供の無邪気な笑いのようでもあった。

 麻衣という名前が口から出かかるが、すんでのところで言葉にならない。

 そんなに考えるようなことでもないのに、改めて言われると、意識してしまう。

「麻衣」

 小さな声で呟くように言う。

「聞こえないよ。もっと大きな声で言って」

「麻衣」

 少しだけ声のボリュームをあげる。

「まあいいか。合格」

 衣川さんは悪戯っぽく微笑む。

 雪奈は妙に高揚するのを感じた。


「夏休みどこか一緒に行こうか?」

 衣川さんは、まだ陽が高く昇る空を見上げながら言う。

 街路樹が緑に色づき、花壇には優しい色の花が咲き始めている。

 夏がすぐそこまで来ている。

「夏休みはずっと予備校かな?」

「どっか行こう。1日くらい休んだって大丈夫。毎日勉強なんてしてられないし」

「約束ね」

 衣川さんは右手の小指を差し出す。

 うんと言って、雪奈は衣川さんの小指に、右手の小指を絡める。

 指切りげんまんと衣川さんが言い、絡めた指を解く。

 その瞬間、衣川さんは激しく咳き込んだ。

 苦しそうに咳をするのを見ていることしかできない。

「麻衣、大丈夫!」

 雪奈は懸命に背中をさすりながら声をかける。

 それでも咳は止まらない。

 衣川さんの顔が青ざめていく。

 近くにあったベンチに座らせて、深呼吸をさせる。

 多少落ち着いてきたようだが、まだ完全には治らない。

「水、お水が欲しい」

 雪奈は慌てて近くの自販機でペッドボトルの水を買い、キャップを外し、衣川さんに差し出す。

 衣川さんは一息に半分ほど飲み干し、深く呼吸をする。

「ありがとう。今回ばかりはダメかと思った」

「よかった。心配したよ」

「たまにこうなるんだ。いつもはすぐに治るんだけどね。もう死ぬのかな」

 衣川さんは平然と笑みを讃える。

「縁起でもないこと言わないでよ」

 思わず大きな声を出してしまった自分に、雪奈は驚きを覚えた。

「ごめん。ごめん」

「でも、本当に良かった」

「もう心配させるようなことはしないから」

 衣川さんはハンカチを出すと雪奈の目元を拭った。

「ありがとう」

 立場が逆転していることに恥ずかしさを感じながらも、堰き止めきれなくなった想いが溢れ出し、雪奈は衣川さんを抱きしめた。

 優しく抱き止めてくれる衣川さんの手が温かい。

 地球と一つになったような安心感に包み込まれた。

 落ち着いたところで、雪奈は衣川さんからゆっくりと離れる。

「ごめんね、もう大丈夫。麻衣の手温かい」

「うん、そうだね。温かい」

「温かい」

「私は生きてる。雪奈も生きてる」

 衣川さんは一語一語自分の呼吸を確認するように、ゆっくりと言葉にしていく。

 確かにここに存在しているのに、どこか危うさがある。

 ふとどこかに行ってしまうのではないだろうか、そんなありもしない妄想が頭をよぎる。

「心配かけてごめんね。今日はもう帰ろうか。お詫びに今度奢らせて」

 衣川さんはおどけたように言う。

「そんなのいいって。気にしないで」

 二人は駅に向けて歩き出す。

 あれはなんだったのだろうか。

 衣川さんが咳込み始めた時に立っていたところから、さっきまで座っていたベンチの下まで、薄い羽根のようなものがまばらに散らばり、道をつくっていた。

 さっきは突然のことにどうしたらいいかわからず、あたふたすることしかできなかった。

 しかし思い返してみると、咳と一緒に、何か白いものが口から吐き出されていたような気がする。

 あの白い羽根は衣川さんが吐き出したものだろうか。

 いや、そんな訳はない。

 いくら衣川さんが不思議な人だとしても、その正体が鳥だったなんてことがあるはずがない。

 仮に鳥だったとして、それでも口から羽根を吐き出すわけではない。

 そんなくだらないことを考えられるくらいには、落ち着き、ゆとりを取り戻したのだと自分に言い聞かせる。

 雪奈は振り返り、再確認をする。

 さっき見えたはずの羽根のようなものは、なくなっていた。

 初めから見間違いだったのかもしれない。

 ゴミが上手いこと重なって、羽根のように見えただけなのだろう。

 それでも、一抹の不安と違和感を覚えずにはいられなかった。

 しかしそれも、衣川さんと並んで歩いているうちに、完全にどこかへ消え去ってしまった。

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