第3話

 言葉を交わすことなく二人は並んで歩く。

 気づくといつの間にか、最寄り駅まで着いていた。

 何か声をかけようかと思ったが、何を話して良いかわからなかった。

 衣川さんは、大学には行かず、多分働くことになると言っていたけど、就職活動はしているのだろうか。将来のことをもっと知りたかったが、なぜか聞くのが怖かった。

 雪奈が悶々としていると、衣川さんが会話を切り出した。

「今日は予備校はないの?」

「うん。今日はない」

「家に帰って勉強?」

「そうだね。やりたくないなぁ」

「趣味とかないの?勉強以外でしてることって何かある?」

「なんだろう。音楽聴くくらいかな」

 衣川さんから趣味の話が出てくるとは思わなかった。

 当たり障りのない答えをしたことに少し後悔したが、他に大した趣味はない。

 それに、雪奈にとって音楽は大切なものであり、生きる意味と言っても過言ではない。

 内向的で友達ができず、一人でいることが多い中で、音楽というのは心の拠り所であった。

 将来は音楽で稼げるようになりたいと思ったこともあったが、どうしようもなく歌は下手だし、楽器も少しは試したが、一向に上達する気配がなく、その道は早々に諦めた。

 ただ詩を書くことは今でも好きだ。

 音楽にハマり始めた頃、自分で曲を作りたいと思い、ひたすら歌詞を書き、楽器の練習をしていた時期があった。

 結果、才能のなさに絶望し曲作りは断念したが、作詞は続けていた。

 作曲は出来ずとも、作詞ならできるのではないか。そう淡い期待を抱いていた。しかし現実はそう簡単ではない。我ながらあまりに杜撰な出来に、紙を破り捨てたくなることは度々である。

 それでも詩だけは書き続けている。もやもやした感情を、曖昧で拙い文章に載せて、書き殴っては消してを繰り返している。

 だから本当は、詩を書いていると言いたかった。できることなら読んでもらいたいし、感想も聞きたい。衣川さんなら嫌がることなく読んでくれるだろうし、馬鹿にしたり笑ったりはしないだろう。でも、いや、だからこそ恥ずかしくて言えなかった。

「何か隠してるでしょ?」

 衣川さんはいつも的確に心を見透かしてくる。もしかして超能力者なのではないかと、本気で疑ってしまう。

「何も。音楽くらいしか趣味はないよ」

 雪奈はぎこちなく笑いながら答える。

「今度は教えてね。雪奈のことはなんでも知っておきたいの」

 衣川さんは小悪魔のような笑みを浮かべる。その瞳に吸い込まれそうになる。

「きっと、教えるよ」

「ほらやっぱり隠し事してるんだ」

 コトコトと笑う衣川さんを横目に、雪奈の思考回路は正常じゃなくなっていた。

 聞き間違えだろうか。聞き間違えじゃなければ、雪奈と名前で呼ばれたはずだ。名前で呼ばれるなんて何年ぶりだろうか。両親を除いて、名前で呼ばれたことなんてもうずっとない。

 それも衣川さんに呼ばれるなんて思いもしなかった。

「雪奈、顔赤くなってるよ」

 衣川さんにまじまじと見つめられて、余計に顔がほてる。

「なんでもない」

 雪奈は咄嗟に顔を逸らす。

「じゃあ、私こっちだから」

 衣川さんは手を振ると、反対側へ歩き出す。

「じゃあね。また明日」

 雪奈も手を振って答える。

電車がホームに着いた頃には、幾許か落ち着きを取り戻していた。

 友達らしい会話をしたのはいつ以来のことだろう。「雪奈」と名前で呼ばれたことが、頭の中で何度も反芻される。私も衣川さんのことを麻衣と呼んでも良いのだろうか。さりげなく名前で読んでみよう。

 雪奈の心は幸せで満たせれていた。

 電車に揺られたせいだろうか、何気ない疑問が浮かび上がり、頭から離れなくなった。

 別れ際、衣川さんはこっちだからと言って、改札とは反対の方向へ歩き出していった。この駅に改札は一つしかない。徒歩通学だから電車を使わないだけなのか、あるいは別に用事があっただけなのだろうか。

 なぜだろうか、大したことではないはずなのに、引っ掛かりを感じると、それを拭い去ることはできなかった。

 帰宅後、雪奈は机に向かい、一晩中ノートに詩を綴った。

 書いては消してを繰り返し、結局完成することはなかったが、いつもよりは手応えがあった。

 一人の少女が蛹となって蝶になる詩。

 外の世界から逃れたくて、自分の中に閉じこもっていると、指先から糸が出て体を覆ってしまう。そのまま蛹となり、蝶となり、少女は自由になる。誰からも忘れられてしまうが、それでも蝶は気にしない。自由に飛ぶことだけが彼女の生きる意味だから。

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