第3話

 これはおかしなことになった、とフェリーチェが気づいたのは、婚約から三日目の朝。


「姫様。今日は、城下に視察に行きましょう。お忍びです。着るものその他はこちらで手配済みです」

「ですが、今日はまだ裁可待ちの書類が……」

「昨日、全部終わらせていましたよ? 気づいてませんでしたか?」


 朝一番で執務室に姿を見せたアルドヴィーノの笑顔に、言い知れぬ圧を感じた。

 

(城下の視察……? 機会があれば、行っておくに越したことはありませんが)


 庶民の暮らしを見るのは大切、為政者は現実を知るべきとはよく言われる。フェリーチェはその考えに異論はなかったが、肩入れしすぎて決断力が鈍るのも良しとはしなかった。そのため、護衛の数を減らしてまで視察に出ることに対しては非常に慎重であった。特に、若い王侯貴族が視察と称して遊び歩くことに対しては若干、厳しい視線を向けてさえいた。

 他にすることがあるでしょう、と。

 本音を言えば、行きたい気持ちもあったが。


「出かけるのは構いませんが……。視察であれば慎重にコース選びと目的を」

「決めてありますので、お任せください。変更はいつでも可能です。何か思いついた際は、遠慮なくお申し付けください。行きたいパティスリーがあると仰ってませんでしたか」


 優秀な補佐官らしい受け答えだった。フェリーチェとしてはそれ以上の反対意見などもなく、アルドヴィーノに準備をすると告げて、部屋へと戻り、届けられていたお忍び用ドレスを確認する。

 めまいがした。

 砂糖菓子のような真っ白なフリルを重ねて、ミント色のレースをあしらった可愛らしいドレス。これまで、大人びいた顔立ちを引き立たせるような落ち着いた意匠のドレスばかり身に着けてきたフェリーチェには、縁のなかったもの。アクセサリーも、花をあしらった可愛いデザインばかりで、髪を結ぶリボンまで添えられていた。


「こ、こんなの、恥ずかしいわ……」


 おののくフェリーチェに対し、侍女たちは明るい表情でたたみかけてきた。


「質はとても良いものですし、姫様のご年齢でも幼すぎるというわけではありませんよ」「これだけ普段と違う服装であれば、立派な変装ですわ」「まぁ、お似合いになりますこと」「可愛らしいドレスで、いつにもましてお可愛らしい御顔が映えます。素敵!」


 手際よく着付けをされて、鏡を前にしたフェリーチェは「ああ……」と呻き声をもらした。

 自分とはとても思えない、お人形のような美少女に仕立て上げられていた。可愛いのだ。


(信じられないくらいに、可愛い。一度はこういうドレスを身に着けてみたいと思ったことはあったけれど、まさかアルドヴィーノには知られていたの……?)


 ドキドキしながら、部屋へと迎えに来たアルドヴィーノと顔を合わせる。眼鏡の奥で、碧色の瞳を軽く見開いてから、アルドヴィーノはにっこりと甘く微笑んだ。


「私の選んだ服を身に着けて頂けるなんて、光栄です。本当にお可愛らしい。姫様の素晴らしさは、ずっとそばにいた身として存じ上げておりますが、婚約者になれるだなんて今でも夢のようです。手に触れても良いですか?」

「はい」


 まるで睦言のように囁かれて、手を取られる。大切なものを扱う仕草で手の甲に口づけられて、フェリーチェは危うく倒れそうになった。


(どうしたの、アルドヴィーノ。相手はわたくしですよ、わたくし! これから婚約を破棄する予定の……)


 ちらりと視線をくれたアルドヴィーノは、すぐに蕩けるような笑みを浮かべて言った。


「仕事、全部終わらせていて良かったですね。今日はゆっくりデートができそうです」

「デート……!?」


 エスコートされ、比較的地味な馬車に乗り込んでから、フェリーチェは並んで座ったアルドヴィーノに小声で告げた。


「そこまで、婚約者的な振る舞いをしてくださらなくても、良いのですよ? その、わたくしたちの婚約は仮と言いますか……。わたくしなりに、わたくしと婚約がだめになった後のあなたに対して、興味を持ちそうなご令嬢を探しているところでして」


 肩が触れ合うぎりぎりの距離に座ったアルドヴィーノは、内心の一切窺えない笑顔で答える。


「探すのは姫様の好きになさったら良いと思いますが、見つかりませんよ。断言しておきます」

「目星はいくつか」

「あると言うなら、速攻で潰しておきましょう。伊達に姫様の補佐を長年務めてはおりません。あなたに入る情報は私の操作でどうにでもなりますし、会う相手も連絡をつける手段も私の手の中です。おわかりですか、姫様。こうなった以上、姫様は私を出し抜くことはできないんですよ」

「それは」


 言われた瞬間、フェリーチェはそこまで考えないようにしていた、とある可能性に気づいてさあっと表情を強張らせた。

 この手回しの良さ、まさしくフェリーチェの好きでやまない優秀な補佐官の振る舞いそのもの。抜け目なく、容赦なく、すべてにおいて決断が早く的確。その持てる限りの能力をもって、アルドヴィーノはたったいま、フェリーチェに牙を剥いている。

 婚約破棄後の相手探しは、認めないと。


「まさか、あなたの目的は……わたくし!?」

「はい。調べてみたところ、私が姫様の相手でも政治的に問題ないようでしたので」


 一切の躊躇なく、認められてしまう。

 フェリーチェは呆気にとられて、いつになくにこやかなアルドヴィーノの顔を見上げてしまった。


「わたくしと結婚して、どうするつもり? 首に縄をつけられますよ。お父様にもお兄様にも、あなたの優秀さは今までよりずっと警戒されるでしょう。実権が拡大するわけでもなく……」


「姫様は、ご自分のことになると、普段より判断力が鈍りますね。婚約が成立したということは、陛下も王太子殿下も、私を野に放つのは危険と判断したということです。この時点でもう、婚約破棄などありえないんですよ」


「それはもちろん、そうです。なのですけど、あなたがこの案に賛同したのは、それを乗り越えて、婚約破棄後の運命の出会いを期待していた……わけでは、ないのです、か?」


 言っているうちに、いかにも自分が愚かなことを口にしていると気づいて、フェリーチェはついに黙り込んでしまった。


(わたくしと、アルドヴィーノで力を合わせれば、物語のような婚約破棄から始まる逆転劇を実現できると思っていたんですけど……、まさかアルドヴィーノには、そのつもりがなかった? はじめから?)


 フェリーチェが結論にたどり着いたのを見越したように、アルドヴィーノは楽しげに呟く。


「ようやく気づきましたか、姫様。俺は生涯、お仕えするのはあなただけと心に決めていました。結婚に関しては、そうですね……。相手選びには、これまで色々横槍を入れてきましたけど」

「入れていたんですか?」

「邪魔しまくってましたが、良い相手がいれば認めるつもりだったんです。べつに、自分がふさわしいと考えていたわけではないですよ、そこはきちんと主従としての線引きは考えていました。欲を言えば、いわゆる結婚式におけるエスコート、バージンロードは俺が一緒に歩きたいと妄想したことはありましたし、相手が無体を働かないか心配なので初夜も同席のつもりで、おっと」

「妄想が強烈過ぎませんか!?」


 つられて想像して、フェリーチェはわなわなと震えながら遮ってしまった。アルドヴィーノは気分を害した様子もなく、にこにこと笑っているが、フェリーチェとしては、冗談ではない。

 バージンロードを歩くという風習は最近の流行りだが、通常は血縁男性がエスコートを務めるという。フェリーチェの場合であれば、国王か王太子だ。それを差し置く妄想をした挙げ句、初夜にも同席とは。同席とは?

 混乱しながら、フェリーチェは唇を震わせて言った。


「それ以上話してはいけません。ふ、不敬罪とか反逆罪とか何かこう」

「はい。もちろん、これ以上は話しません。夢はもう大体叶っていますし、あまり欲を出していては足元をすくわれかねません。この後はつつがなく結婚を終えるまでおとなしーくしています」


 あまりにも。

 これは、あまりにも危険な本音を聞いてしまっているのではないか?

 そう思いつつ、フェリーチェはここまで来たらもう聞くだけ聞いておこう、と腹をくくって尋ねた。


「もしかして、あなたは、わたくしのことが好きだったんですか? 仕事をしているふりして婚期を遅らせるほどに?」

「ふりではなく仕事はきちんとしていました、婚期なんか知りません。姫様を好きかどうかに関しては、言いますよ。逃げ場はないですからね、宣言しましたよ」


 さすがにフェリーチェのことをよく知っている男は、再三の警告をした後で、フェリーチェに向き合い、片手で眼鏡を外した。

 透き通るような碧色の瞳でフェリーチェを見つめ、低い声で甘やかに告げた。


「好きです。あなたしか見ていません。あなたに有利になるという理由で、他の女性との結婚を命じられたら、従うつもりでした。ですが、いまこの立場になった以上、何がどうあってももうあなたを諦めるつもりはありません。婚約破棄など絶対にさせません。お慕いしております、姫」


 フェリーチェは絶句した後に頬を赤らめ、細かく震えながら座面の端まで体を寄せて逃げた。逃げながら、アルドヴィーノに視線を向ける。

 目が合ったアルドヴィーノは、重い告白の直後とは思えぬ爽やかさで微笑み、口を開いた。


「キスして良いですか? 結婚まで待てと言われたら待ちますが、本当は今すぐしたいです」


 馬車の壁に背を押し付けたまま、フェリーチェは小さく頷く。

 ためらうことなく身を乗り出したアルドヴィーノは、片手をフェリーチェの顔のすぐ横について、言った。


「追い詰めているみたいで、すみません。怖いですか?」

「謝る必要は……慣れないだけで」

「慣れてください。これから先、俺はずっとこの調子です。逃さないですよ、姫様」



 * * *



 流行りの物語のような、婚約破棄から始まる第二の人生を――

 というフェリーチェの企ては幻と消え、二人はその後幸せな結婚をして長く寄り添って生きることになる。

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【コミカライズ】おとぎ話を信じて婚約破棄するはずが、策士な側近に執着されています 有沢真尋 @mahiroA

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